やがて色付く異世界幻想
畳屋 嘉祥
第一章 その目覚めは透き通る無色
序節 森の庭
序節 一 「目覚めと出会い」
眠りから醒める、その僅か前。彼が一番初めに感じたものは、無色の視線だった。
どこからのものかは分からない。遠いのか近いのかも明確ではない。大元がいくつあるのかも知れたものではない。
ただ、確かに自分は視られている。……否、自分だけではない。この場にある全てが、得体の知れない何かによって、絶え間なく観察されている。
その視線に色は無い。より直接的な表現をするのならば、感情・思念の類が何一つ込められていない。好奇も嫌悪も敵意も何もない、『視る』という一点に純化された概念。
そんな無色が、この世界にはあまねく広がっている。彼にはそのように感じられた。
そして程なく、彼はその無色に順応し始める。これはそういうものなのだと、ここはそういう場所なのだと、理性が初めに判断し、それを本能に馴染ませてゆく。
疑問は無い。違和を抱く必要すら欠片も無い。この世界は初めからそういう風に出来ており、その無色が『在る』と感じられることの方が可笑しいのだ。
故に彼は、己の体に無色の視線を浸透させ、ただ受け入れる。その行為は今の彼にとって必要不可欠であり、同時に酷く────
────酷く、なんなのだろうか。
束の間湧き上がりかけたその強い感情は、次の瞬間には跡形も無く消えていた。
彼は考える。自分は、一体『何を思おうとしたのだろう』か。
それは自身の中核に根差す重要なものであるようにも思えるし、同時に全く必要の無い塵芥の類であるようにも感じられる。
しばし彼は思考に耽るも、結局のところ浮上する間も無く瞬時に消え失せた感情に、明確な答えなど出せるはずも無く。
意識が覚醒への扉を叩く。同時に血液の流れが加速し、己の体に気力と活力が巡るのを感じ取り、彼は自身の瞼へとその力を流し込んだ。
開眼は一瞬。すぐ様に彼は上体を起こすと、同時に己の眼球が持つ機能を十全に稼働させ、自らの視界を切り開く。
直後彼は、内から湧き上がる感嘆と愕然に圧されて、思わずという風に言葉を漏らしていた。
「……ここは、どこだ」
彼の目前に在るのは、緑生い茂る森林の只中を静かに割る、清らかな滝であった。
◇
柔らかな日差しの中、せせらぐ水面に己の顔を映し、彼は軽く首を傾げる。
灰色の髪と瞳を持つ、ぼろ切れを纏った浅黒い肌の少年。初めて見るその容貌が自分自身のものであると気付くのには、しばしの時間が必要だった。
なるほどこれが僕の顔かと、一つ納得したように頷いた彼は、それなら次は喉を潤そうと己の両手で水を掬い、自分の口元へと寄せていく。
口から喉へと冷たい水を流し込んだ後、両手を碗形のままに小川へ浸して水を掬い、また口へ。数度それを繰り返せば、喉の渇きは失せていた。
「さて」
と口にして立ち上がり、彼は改めて周囲を見渡す。
鬱蒼と茂る草木に囲まれた、小さな川原。慎ましい滝の音が流れるこの場所には、癒しの空気が満ちている。
さながら憩いの場、とでも言うべきか。辺りに感じられる鳥や栗鼠などの気配を察するに、ここは森の中でも比較的穏やかな場所なのだろう。
運が良い、と彼は思う。ここが何処で、自分が誰なのかも分からない今の状況において、安全な場所に陣取れたのは幸いだった。
────そう。彼は己自身についてのことを、何一つ覚えてはいなかった。
名前どころか、自分自身についての私的な情報が一切思い出せない。親兄弟は誰なのか、出身はどこなのか。そんな事すら欠片も記憶に存在していなかった。
だというのに、何故か『それ以外』の知識は頭の中にきちんと詰め込まれている。小鳥や栗鼠の姿形に名前、草木の見分け方、それに『魔法』のことまで。……一体なぜ。
「駄目だ」
彼は頭を振り、思考を一度中断する。これ以上深く考えても、実りのある考察など得られないだろうと考えたからだった。
自身の周囲の状況をもう少し詳しく知ることの方が大事か、と彼が気を取り直したその時であった。
────小鳥のさえずりが途切れ、栗鼠の気配が消え去る。不自然な静寂が周囲を包み込んだ。
何が起きた、と考える前に少年の背筋に悪寒が奔る。吸い込まれるように振り返れば────
「……っ」
滝の上に、一匹の黒狼が佇んでいた。脚も胴も顔もすべてが深い漆黒に包まれた精悍な獣は、少年へ向けて視線の刃を突き刺している。
声帯が氷り、脚が凍えた。少年は動くこともままならず、深く黒い瞳に精神を貫かれる。その視線の刃は怖気が奔るほどに冷たく、鋭い。
真黒い瞳には、感情が宿っていなかった。敵意も殺意も何もなく、黒狼はただひたすらに、冷たい刃で以て少年の目を射抜いている。
なぜ、どうして、少年の心中にはそんな疑問すら湧き上がらない。それ程に感情が揺さぶられていた。涙すら流れそうになるのを少年が堪え、唾を呑んだその瞬間。
────黒狼が動く。ゆっくりと、そして不可思議に。
浮遊。少年にはそのようにしか見えなかった。まるで重みを失ったかのように黒の獣は浮き上がり、そのまま滑る様に滝を降りていく。
魔法か。少年は直ぐ様そう判断し、黒狼が唯の獣ではなく『魔獣』であることに気が付く。己が内に宿る魔力を練成し、様々な種の力・物質・現象を生み出す法理、魔法を有する獣。
その事実に、少年の恐怖はさらに掻きたてられていく。滝の下へ着地しゆるりと彼へと迫るのは、超常の力を行使する魔の狼。その力を振るわれれば、恐らく只では済まないだろう。
「……っ、くそ」
悪態を吐いてみても状況は何一つ変わらない。ならばと少年は、己の内に宿る力に手を伸ばそうと試みる。
基点は『目』。魔力を籠めることで発露する異能。自身の体にある魔力は何故かごく少なく、力を行使したとしても然程の効力は得られないだろう。
だが、それ以外に武器が無い。故に彼は覚悟を決めようとして……ふと、考えが逸れる。
なぜこれだけの時間を要しているのに、黒狼は『何もしない』のだろうか。────少年が疑問を抱いたその時。
「────ッ!?」
突如、水の弾ける音。小川を泳ぐ川魚がばしゃりと跳ねた。
睨み合う両者とも機敏に反応してしまい、互いが跳ねた水面に目線を奪われる。己に帰るのが速かったのは魔獣の方だ。
即座に目線を彼の方へと戻すと、一瞬の逡巡を見せた後、勢いよく跳躍した。方向は真左。己の体を素早く翻し、魔獣は草むらの中へと消えていった。
獣の足音が遠くへ離れていくのを己の耳で感じ取り、彼は一つの判断に至る。
「…………逃げた、のか」
総身を覆っていた緊張が解けた。数分振りにようやく滝の音が真面に聞こえるようになったところで、彼は小さく溜め息を吐く。
「終わりよければ、というやつか」
なぜ黒狼の魔獣が自分に近づいてきたのか、それは定かでないが、命が拾えたならばそれでいい。
仮にあのまま戦いに突入していたら、十中八九死ぬのは彼の方であった。何せ彼の体には今、体力と魔力が殆ど存在していない。彼が己の力を行使しようとしたのも、死中に僅かでも活を見出すためであった。
……恐らく長い間、食料を体内へ摂り入れていなかったのだろう。そのような推量をしなければ、この極端な疲労と魔力不足の説明が付かなかった。
彼は自身の状況に、危機感を募らせる。辛うじて目は冴えているので、食料をどうにか調達できれば先は見えるが……。
「さて、どうしたものか」
滝の方へと体を向け、水面を眺めれば、その中で魚たちが優雅に泳いでいる。ともすればあの中に、先の偶然の機を作った魚もいるかもしれない。
……魚を食料とするのは選択肢に入らない、と彼は一先ず考えた。小動物を捕えるのも不可能だろう。なにせ道具も無ければ魔力体力も尽きかけているのだから。
ならばどうすると考えて辿り着いたのは、食用可能な木の実・茸・草木を探すという、最も解り易くそれ故に為すのは難しい結論だった。
「そもそも、それが出来ていればこんなところで倒れていない気はする」
少しでも気を紛らわせるため一人で皮肉を吐く彼であったが、その行為が虚しさしか呼ばないことに程なく気付く。
空腹に、腹が悲鳴を上げた。……これは、本格的にまずいかもしれない。そう彼が思い始めた、その時。
────彼の背後から、人の声が響く。
「おおーい! そこのひとー! 大丈夫ですかぁー!!」
振り返って見れば、小川沿いを駆けてくる小さな人影があった。
黒髪の、恐らくは少女か。革製の軽鎧を身に着け、背に弓を負っているのが遠目に分かった。恐らくは狩人か旅人の類だろう。
幸運が続いてくれた。彼は、己の命を繋いでくれるかもしれない人間の登場に少なからず心を躍らせた。これで光は見えた、と。
それ故に、彼はその命の恩人になり得るかもしれない少女の顔を、しっかりと己の記憶に刻みつけようとして────
「────しま、った」
彼は己の目に、勢い良く魔力を籠めてしまった。そう、その身に僅かしか残されていない、貴重な魔力を勢い良く、である。
魔力と精神が密接かつ相補的な関係にあることは、この世界において常識である。現状での下手な魔力行使は自殺に等しい、という先の彼の推論はごくごく正しいものだ。
……つまりそう、魔力が完全に尽きた人間というのは。
「我ながら、情けな──────」
このように、気を失ってしまう。言葉を言い終える前に、彼は膝から崩れ落ち、そのまま川原に倒れ込んだ。
霞む意識の中、黒髪の少女が大声で何かを叫んでいることを、彼は理解する。
それがどうやら自分を案じてのことだということに気付いた彼は、己の命に別状がないことを伝えようとして。
口を動かすその前に、ぷつりと意識を失った。
◇
いわゆる、土下座という姿勢である。
「いろいろと、ありがとう」
地面に膝と頭を付け、うやうやしい態度で深々と礼を述べる彼の前には、木の根に腰かけて苦笑いを浮かべる小柄な少女がいた。
右頭の後ろで一つに纏め右肩へと流している長い黒髪、その毛先を弄いながら、少女は困惑に眉尻を下げている。やや吊り上った両の目に小ぶりな唇、小さい顔の輪郭など、中々に整ったその顔立ちは、今は多少表情が引きつっているものの、美人と評して問題は無い。
質素な黒色のチュニックの上に革の軽鎧を纏い、背に短弓と矢筒を背負ったその少女は、どうやら見た目の若さに反して中々旅慣れしているらしく、行き倒れかけの人間への対処は非常に速やかであった。
……気を失った彼を一先ず木陰へ移し、意識が無いことを確認。その後軽く触診をしながら身体走査の魔法を用い、気絶の理由が魔力欠乏と栄養不足であると断定。自身の魔力の一部を譲渡することで彼の意識を回復させる。
続いて手持ちの皮袋から食用の木の実を取り出してきめ細かく砕き、飲み込みやすい状態にしてから水と共に摂取させて、ある程度体力が回復するのを待つ。彼の意識が完全に覚醒したのを確認して、干し肉などの食糧を与える……。
というような介抱劇があった故、灰髪灰目の彼は今、気力と体力と魔力を取戻し、その礼にと非常に丁寧な態度でもって黒髪の少女に頭を下げていた。
彼が顔を上げるのと同時に、少女が申し訳なさげに口を開く。
「ええっと……何もそこまでへりくだらなくてもいいよ? ボク、あんまり大したことしてないし」
「行き倒れて死にかけた人間からしてみれば、手厚く介抱されたという事実は十二分に『大したこと』だと感じられる。だから、ありがとう。凄く感謝している」
「え、あ、その、どういたしまして」
再び深々と頭を下げた彼の行動に釣られてか、少女も反射的に礼を返す。
この後暫く、彼は懇切丁寧に少女へ感謝の意を示し続けるのだが、流石にそればかりでは事が前に進まないと断じたらしい少女が「それはそれとしてさ」、と少年の感謝を一端区切る。
それに対し、「なんだろうか」と彼がその灰の目をきょとんと瞬かせたのを機と見て、少女は仕切り直しと言わんばかりに、己の疑問を投げかけた。
「キミ、どこの科の子なの? 『庭』で倒れちゃうくらいだから、討伐科とか騎士科の人じゃあなさそうだけど」
「……む」
「服の感じから察するとあれかな、魔法科とか? ちょいボロいけど、それローブっぽいし。魔法科は体力的にひょろっこい人が多いからなぁ」
「…………さて」
「あー、それともあれ? 総合科の商人志望とか……じゃあないか。流石に『庭』の中じゃあ商売に繋がりそうなものなんて転がってないだろうし」
「………………はて」
彼には、少女の言っていることの意味が理解できなかった。
正確に言えば、文章としての理解は追い付いているものの、端々に現れる固有名詞らしき単語に聞き覚えがないせいで言葉全体の意味が全く解せなかったのだ。
『庭』、討伐科、騎士科等々、恐らくは初めて耳にするそれらの言葉に、彼は首を傾げる他無かった。
自分のした質問に対して、要領を得ない、返答とも言い難い言葉を返す彼に業を煮やしたか、少女はやや苛立ち気味に片眉を吊り上げる。
「あの、ごめん。合いの手はいいからこっちの質問にちゃんと――――」
「その前に、一つ訊きたい」
少女の言葉を断つように、彼は一つの質問を投げかける。
「ここは、どこなのだろうか」
「……………………はい?」
そして流れる、しばしの沈黙。少女はその茶味がかった黒い双眸で、呆然と少年の目を見つめている。
少年の方も、自分が難しい質問をしたとは思わなかった故に、なぜ少女が呆けたのかその理由が分からず小首を傾げる。
奇妙な間、静寂が流れておよそ三秒。先に動いたのは黒髪の少女の方であった。
「あー、なるほどなるほど……おーけー、わかった、つまりは異界人さん、ってわけだ」
何かに納得した様子で少女はうんうんと深く頷く。
何がそういうことなのだろうか。というより異界人とは何なのか。彼が小首を傾げ、その灰色の髪が僅かに揺らいだ、その瞬間。
少女はおもむろに少年の右の手を取り、真直ぐに目を見て言った。
「キミ、かなり幸運だよ。とりあえず、行こっか?」
何が、あるいは何処に、と彼が問う前に、少女は彼の手を引いて駆け出していた。
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