第三節 「落日ノ二・奇想」





 亜麻色の髪が額に張り付いている。肌に浮く汗に反して凍えるかのように震える少女の矮躯。

 尋常でない様子は一目で判断が付いた。故にクレールは湧き上がる焦燥を抑えつつも念話にて彼女へと声を掛ける。


『キトリー、大丈夫か? キトリー……!』


 呼びかけに返答は無い。ただただ何かに怯え続けるキトリーは、全てを拒む様に己の肩を抱き目を伏せている。

 最早観劇を続けるなどという余裕はクレールの内に存在しておらず。震える彼女をどうにかしなければと、心配と焦燥だけが彼の胸中に渦巻いていた。


 その間にも歌劇は進む。時計の針は止まらない。定められた結末へ向けて、悲劇は筋書き通りに転がりゆく。




 ◇




「――――急げ、止まるんじゃない!」

 

 御者を急かすクラウスの声色には焦りが滲む。自由都市はもう目と鼻の先。しかしながら安堵など出来る状況ではなかった。


 がたがたとキャビンが揺れる。乗り心地などあったものではない。既に馬車の出せる速度の限界であった。だからといって疾走を緩めることなど出来ない。

 ――――黒の王が自由都市に来たと聞き、『劇団』一行は元来た道を引き返していた。

 度々聞く黒の王の噂に加え、念話を送ってきた連絡役の切羽詰まった様子を知り、クラウスは即座に帰還を選択したのだった。

 ……何か、嫌な予感がする。決断には些か以上に直感を頼ったものの、それが間違っているとは彼自身欠片も思わない。

 

 確信を得たのは、つい数時間前。

 自分の勘に従って正解だったとクラウスは安堵し、それ以上に視界に映る景色に言葉を失い、慄いた。

 

 ――――のだ。

 

 大地から天へと奔る不気味な境界線、その色は全ての光を呑む漆黒。

 蒼天を上塗りし穢すような風合いを持つ黒い境界線は、間違いなく自由都市のある場所から立ち上っていた。

 明らかに何かが起きている。それも、自分の理解の及ぶ範囲を優に超える程の何かが。

 焦燥に駆られ、クラウスはキャビンの窓から顔を出す。緑香る風を顔に受けるのは今日だけで幾度目か。

 見る度見る度、黒の境界線が大きくなっていた。――――そして今、その線が最早『領域』という形容が似合うほどの規模であることをクラウスは理解する。


「何だってんだよ、クソ……!」


 キャビンへと顔を引っ込めたクラウスは、苛立たしげに頭を掻き倒す。

 自由都市を丸々覆う、天蓋知らずの黒い領域。魔法の類であろうが、あれほどの規模を持つ魔法などクラウスには想像もつかない。

 一体あの街で何が起きているのか。彼の頭では、何一つ理解することが出来なかった。

 そうして誰もが事態を掴めぬままに、『劇団』のキャラバンは最高速で故郷へと走ってゆく。

 あるいは、漆黒の領域に引き込まれてゆくかのように。




 ◇




 最早少女の恐慌は頂点に達しつつあった。

 小さな体は絶え間なく震え、円らな瞳は恐怖に瞠目し、閉ざされた口からはかたかたと歯の鳴る音が止まらない。

 クレールの念話もまるで届かず、キトリーはただただ狂ったように何かにおびえ続けている。


 その要因など考えるまでも無く、しかし彼女をこの場から逃がすことなど出来はしない。

 ここには黒の王が居るのだ。席から立って劇場から去るということは、かの王に背を向けるということに他ならない。

 そんなことなど出来ようものか。彼女を抱えて出て行けばどうなるかなど、想像するだに恐ろしい。


 故にクレールは焦りを抱えながらも何もできず、ただひたすらキトリーを念話で励まし続ける。

 意味のないことだと分かってはいても、彼にはそれ以外に出来ることが無かった。


 悲劇は進む。時計の針は止まらない。


「――――――――っ、ぅ」


 が、少女の口から漏れ出していた。




 ◇




 そしてクラウス達はついぞ自由都市の目前に辿り着く。空を穿つ漆黒の柱は、理解の及ばぬ超常の領域。

 一体、自由都市で何が起きているというのか。彼が馬車を降りるのとほぼ時を同じくして――――


「――――消え、た?」


 黒い領域が、跡形も無く消え去った。その変容は急激にして一瞬。

 夢幻でも多少の残影はあろう。しかしながらそんな余韻すら欠片も感じさせず、超常の黒は綺麗に霧消していた。

 初めからまるでなにも無かったかのように。そこにあるのはただの虚無。……そこではたと、クラウスは気付く。


 ――――街の音が、聞こえない。


 雑踏、喧騒、諍いの音。自由都市とは切っても切り離せない騒がしさが、今この時には何一つ聞こえてこない。

 明らかなる異常の気配にクラウスは言い様の知れない恐怖と焦燥を抱き、それらに突き動かされるように街へと走った。


 そうして悲劇は収束する。あまりにも無味乾燥とした不条理なる結末へと。


 広がっていたのは、感情も無く、魂も無く、熱の一つも感じられない荒涼の虚無。

 

 そこに上塗りされたかのような、嘘臭さすら感じられる惨劇の赤。

 

 常人が理解できる光景ではなかった。故に彼らは声を発するどころか、表情すらも動かせなかった。


 虚ろなる狂気は矛盾を孕み、彼らの脳を犯していく。


 街に溢れるこの赤は、本当に血の色なのだろうか。


 へばり付く肉は人の物か。転がる眼球は偽物ではないのか。


 屍の腹からはみ出る臓腑は、悪趣味な悪戯なのではないか。


 熱が無い。臭いが無い。怨嗟が無い。嘆きが無い。この惨状には足りないモノが多過ぎた。


 在るのは唯、誰の目にも疑いようのない事実だけ。


 ――――この日この時、自由都市が死を迎えたという逃れ得ない真実だけが、壊れたガラクタのように無造作に転がっていた。




 ◇




 あるいはそれを、衝撃と呼んでも不自然ではないだろう。

 予測など出来ず、身構えていても意味など無かったに違いない。

 小さな少女の大きな恐怖は、秘された禁忌を呼び覚ます。悲劇は連なる。惨劇の引き鉄。その音は極々小さく、しかしながら比する物など無い程に凄絶。


 ――――矛盾を孕むそのは果たして、悲劇の二幕が開く合図となる。




「――――――――――――――やめ、て」




 


 ――――瞬間の錯覚は劇場全てに響き渡り、観衆は一斉に苦悶に呻く。

 クレールはその内でも一等、見えぬ衝撃に精神を穿たれていた。吐き気すら催す幻痛に目が眩む。口からはえづきが漏れた。

 無理も無いことである。――――何せその衝撃は、のだから。

 向こう隣の男性は白目を剥いて気を失っている。場合によっては自分もこうなっていたかもしれない。クレールは背筋を震わせる。


 初めて聞いたその声は良く知ったものであり。だからこそクレールは耐えることが出来たのかもしれなかった。


 己の行動に恐れを抱いたのか。信じられないと否定するように口を押えているのは亜麻髪の少女。


 キトリーが放った極々小さな拒絶の一言は、まるで圧政者の命が如く劇場の観客の精神を多大に震わせた。


 そうして悲劇は連鎖する。かの暴虐なる王が、己以外の圧政者など認めるはずも無く。


「――――劇を止めよォ。……何やら、不逞の輩が居るようだなァ?」


 その声色に喜悦すら含ませて。粘つく王の言葉は瞬く間に劇場を支配した。

 舞台は止まる。観衆は止まる。なぜならばそれが王命であるから。水が高きより低きへ落ちるが如く、それは当然の力学なのである。

 王は立ち上がり、乱れた歩調で客席を歩く。一歩、一歩一歩、一歩と。

 韜晦はあれど迷いは無いその歩みは、真直ぐにキトリーへと近づいてゆく。瞬間に、クレールは何かを悟って。


 ――――気が付けば彼は、王の目前へと飛び出し片膝を付いていた。


 反射的な行動。自分がどのように動いたのか、クレール自身はっきりとは把握していなかった。

 しかしながらこれを間違った行動とは思わない。今動かなければ、今王の前に立たなければ、友の命はどうなるのか。

 考えるまでも無い。故に灰髪の少年は王へと頭を垂れる。使命に突き動かされるかのように。

 ――――粘つく王の声が、彼の頭に降りかかる。


「何だ、貴様ァ? 何の権利があって、余を阻むというのかァ」


「御無礼をお許しください王よ。――――此度、全ての責は私にあります。どうか罰は私にのみへと下して頂きたい」


 震える声で、しかし一言一言はっきりと告げるクレール。黒の王を前に、細かい御託を並べる意味は感じなかった。

 故に真直ぐに告げる。悪いのは自分だから自分だけを罰せと、言い訳や誤魔化しの一切を省いてクレールは、己の願いを正面からぶつけていく。


 ――――とはいえ。


 ――――真直ぐに放ったから言葉が伝わるなどと、そんな理屈に価値など無い。


 ――――結局、理不尽の権化たる黒の王には、まともな言葉など通じないのだから。


「つまらんなあ、貴様はァ」


 全ては戯れ。全ては虚ろ。彼の言葉には何一つ誠意など籠ってはいない。


 何よりも不遜に、尊大に、思うがままに人を弄うその姿は、児戯に耽る子供と何一つ変わらない。

 言い逃れできぬほどに愚かなのである。それは誰もが知る公然の事実であるが故に、彼の権威と暴威が隔絶した領域にある証左。


 深淵の色をした髪が揺れる。白黒の反転した人外の瞳が喜悦を示し、裂けんばかりの口は三日月を描いた。その嗤いは特異なまでに悍ましく、皆を震え上がらせるには十二分。


「余の為の貴様等であろうがよ。余の享楽の糧とならずして何になる」


 豪奢なローブから延びるのは、幽鬼が如く真白い腕。白蛇を思わせる禍々しいその手は、浅黒い首へと噛み付くように掴み掛る。

 抵抗など出来ない。下手に動けばその瞬間に命が散ることになる。この男の眼前に立つとはつまりそういうことだ。玩具になることを覚悟せねばならない。

 弄われ弄ばれ、それに耐えた上でなければ会話にすらならないのだ。間違っても彼の意に反してはならない。機嫌を損ねるなど以ての外。

 かの王は常人ではないのだ。人民全ての生殺与奪を握ると言っても過言でなく、そのような怪物に対して牙を剥くなど愚の骨頂という他無い。


「申し開きがあるのならば聞こうではないか。余は寛大であるからなァ?」


「……ただ、お許しを戴きたく」


 首を締め上げられながらも、消え入るようなかすれ声で灰髪の少年は言う。敬意を示すことを忘れずに。

 いくら相手が人外の狂人であるといえど、立場ある者には違いない。それに、かの王は己への不敬に対して獣以上の嗅覚を持っている。

 下手な嘘など通じない。気持ちを偽れば見抜かれる。王としての彼の矜持はこの世の何よりも高く、故に己を敬わぬ者を、己を畏れぬ者を彼は決して許しはしない。


 だからこそ息を詰まらせながらも、少年は出来得る限りの礼節で以て王へと接する。

 その誠意が伝わったのか、僅かばかり表情を緩ませた王は、穏やかな口調で以て平然と告げる。


「なれば貴様、何を差し出す?」


 柔和な顔に反して、その言葉にはやはりと言うべきか、慈悲の一欠片も存在してはいなかった。


「目か耳か、手か脚かァ? 許しを得たければ相応の価値を差し出す必要があろう? さあ選べ、選べよォ」


 反転した白黒の瞳を大きく見開き、悪魔が如き声色で叫び嗤う。喜悦に染まる白貌はただただ悍ましい。

 これが、自分と同じ人間だというのか。驚愕と共に少なくない嫌悪を少年は抱いた、抱いてしまった。……それ故であろうか。

 突如として笑うことを止めた王は、零下の表情で以て少年の瞳を射抜き、そして。


「――――答えが遅いぞ」


 ――――瞬間、独りでに少年の腕が根本から捻じ切れた。ぼとりと落ちる浅黒い右の腕。少年はその尋常ならざる激痛に声ならぬ叫びを上げる。


 目を見開き苦痛に喘ぐ少年の姿を受け、深淵の王は再び表情を喜色に歪めた。物言いたげな少年の視線に応えるように、王は高らかに叫ぶ。


「千金に値する余の時間を奪ったのだ。その対価として腕一本……大いに安かろうがよ! ああ、余の慈悲深きは比するもの無きよなァ、あはははははァ――――!」


 首を絞める手を幾ばくも緩めることなく、深淵の王は哄笑を上げる。響く呵々大笑はどこまでも他者を震え上がらせ、大衆に恐怖を植え付ける。


 恐怖の権化、怠惰の支配者。かの王は愚かであり傲岸であり傍若無人。暗君暴君の類であることに疑いなど無く、にも拘らず王座に君臨し続ける超常の存在。


 深淵の君、謳われし異名は『百年王』。其の名の通り百を超える歳月の間、王として在り続ける真の怪物。その王道を阻む者など居はしない。


「さあ選べ、差し出すものを選ぶのだ。余の機嫌が良い内になァ、くはは、あはははァ――――!」


 人を越えたる深淵の王は、世の嘲笑を以て独我の非道を悠々と歩む。

 誰彼にも『あれを阻め』と願われながら、誰彼をも彼の眼前に現れることなど無く。きっとかの王の覇道は、この先も果て無く続くのであろう。人々に恐怖と嫌悪を植え付けながらも、憚ることなく堂々と。


 しかしながら少年は、クレールは、諦める訳にはいかなかった。友を護る為、喜悦に歪み大笑する百年王を必ずや説き伏せねばならない。

 それがどれ程の苦難であろうとも、止まることなど出来はしないのだ。確たる決意は、堅く心に宿っていた。


 

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