第三節 「落日ノ一・協奏」
その異変に気付いたのは恐らく、クレールだけではなかった。
ともすれば冒頭の語りが始まった瞬間から違和を抱いた人間もいたことであろう。
――――演目が、違うのだ。これは予定されていたものではない。
事前に宣伝されていたのは、貴族の令嬢とその家の小間使いとの身分違いの恋を描いた物語。
大衆演劇の世界においては定番に属する歌劇だ、とはバルタザールの言葉である。つまりは比較的有名な物語なのだろう。
それ故にか今、劇場の空気が静かにざわめいている。
言葉を出せば王の不興を買うかもしれないと皆が皆口を噤んではいるものの、その内心の動揺は雰囲気として表れていた。
クレールもまた、舞台で繰り広げられる自由都市の光景に、しこりの様な疑問を抱く。
どういうことだ。直前になって演目を変更したのか。ならば何故そのことを旅楽団は客席に伝えなかったのか。
浮かび上がる疑念はしかし直ぐに答えが分かる類のものではなく。
やがてその懐疑は、繰り広げられる『一睡の頽廃』の物語によって徐々に希薄化されてゆく。
やはりと言うべきか、それ程にトロイメンの歌劇には力があった。
少しの疑問など些事だと掻き消すその熱量は、その場の空気を脚本上の世界へと塗り上げてゆく。
劇場は最早自由都市の一角としてそこに在るかのように、歌劇『一睡の頽廃』へ飲み込まれていた。
だからクレールは気付かない。気付くことが出来なかった。
――――隣に座る亜麻髪の少女の顔色が、白磁よりも尚蒼白となっていたことに。
◇
悲劇は止まることなく歩を進める。
現実に起こる絶望とは、得てして前触れなど見せないものであるから。
自由都市は大陸の吹き溜まりであるが故に、三国全ての出身者が暮らしている。
最も多いのは赤、並んで黒、白はごく少数。その比率はそれぞれの国土の広さと似通う部分があった。
しかしながら、自由都市そのもののの情勢は三国の均衡した現状などとは程遠い。
同郷の者が集まるのはある種当然であるが、他の群れと友好を築ける程の器量がある人間はそも自由都市に漂着などしないのも道理である。
故にそう、小競り合い、あるいは内紛と呼ばれるような暴動は、最早自由都市の日常茶飯事であった。
今日も今日とて遠くから聞こえる叫び声やら建物のぶっ壊れる音やらを聞き流し、クラウスは
「で? 久々に仕事持ってきたかと思ったら何だ、スパイでもやれってか?」
「そんな大層なモンじゃねえ。ちいとばっかし黒の内情を探ってきてほしいってだけでよ」
机を挟んでクラウスの正面に座るのは、ひょろい髭面の男。名をアベルといい、赤の帝国のコミュニティ『聯隊』に属する構成員の一人である。
『劇団』と『聯隊』の橋渡し役を務める彼が今回持ってきた仕事は、『劇団』の本領である詐欺とは少し域の逸れた話であった。
裏で動くのは得意だが、ちょっとばかし畑違いじゃねえか。思うクラウスを余所にアベルは話を続ける。
「最近の黒の動きがどうもキナ臭くてな。黒っつっても『結社』じゃなくて本国の話だぜ? 何でもアレだ――――」
「向こうの王立騎士団が動く動かねえどうのこうのって話か? 噂にゃ聞いてんぜ」
「なんだ、知ってんだったら話は早えじゃねえの。……その辺に探り入れて欲しいんだわ」
「探りって……あんな噂、眉唾モンだろ? 『結社』が本国の騎士団と手ぇ組む訳ゃねえし、そもそも王国の騎士サマがこんなクソ溜りに来るもんかね」
彼らが言う『結社』とは、自由都市における黒の王国出身者の集団。つまりは黒本国から見捨てられた無法者らの集まりである。
そこに対して黒の王立騎士団が動く理由など無い筈だ。そもそも騎士の連中からしてみれば『結社』の存在などゴミの寄せ集めに過ぎないのだから。
捨てたものをわざわざ拾いに来る暇なんて、お高く止まった騎士共にあるものだろうか。訝しむクラウスの言葉をしかし、アベルは真剣な表情で否定する。
「俺も初めはそう思ったぜ? けどよ、あいつらのビビり方が尋常じゃねえんだよ。ついこないだまで俺らとドンパチやってたってのに、今じゃ明日にもケツ捲って逃げそうな勢いだ」
「あいつらって……『結社』がか?」
おうよと頷く髭面のアベルに、クラウスは眉間に寄せた皺を更に深める。
「おいアベル、そりゃあ意味分からねえぞ。なんで『結社』がビビんだ? 万に一つ王立騎士団が来たとしてよ、味方するしねえは別にして『結社』を正面から敵にゃあしねえだろ。
自由都市のゴロツキなんて騎士サマから見りゃあ等しくゴミだろうが、最低限同郷のヤツくらいは区別するんじゃねえの?」
「あー、そこがイマイチ分かんねえトコでよ。とにかく『結社』の連中は騎士団が来るって噂を尋常じゃねえくらい真に受けてブルってやがんだ。こっちが気味悪く思うくれえによ。
だからそこんとこ――なんで『結社』の奴らがビビってんのかも含めて――お前らに調べて来てほしいってワケだ」
言うや否やアベルは足元に置いたザックから褪せた地図を取り出し、机の上に広げる。
その地図――自由都市を含む国境周辺を示したもの――には幾つか手書きの印が付けられており、その中でも一際大きな赤い丸は黒の王国側の街を囲っていた。
「国境超えて西に十里くれえ行ったとこにそこそこデケえ街がある。黒の連中が自由都市に来んならまず間違いなくこの街を通んだけどな。
お前ら『劇団』には、この街での情報収集を頼みてえ。行商かなんかに化けて噂でも何でも掻き集めて貰いてえんだよ」
懇願の眼差しを向けてくるアベルの様子に、クラウスは腕を組んで考える。
別段難しい依頼という訳ではなかった。行商を演じて情報を集めることには慣れている。自由都市の外で仕事をする際にはそれが必須となるからだ。
長旅に耐えられる面子を選ぶ必要はあるだろうが、やるべきことは普段の仕事の前準備程度のもの。はっきりと言ってしまえばボロい部類の依頼であった。
だからこそ、クラウスには気がかりな点もあった。
「……まあ、積むもん積んでくれんなら吝かじゃあねえがよ。アベル、手前らの子飼いじゃあ出来ねえのかよ? 言っちゃあなんだが今回のヤマ、そんな難しい話じゃあねえだろ?」
「まあな。だがこっちはこっちで人手が要る。万一本当に騎士団が来んならどう見たって総力戦は免れねえ。生き残ろうと思ったら下っ端一人無駄には使えねえのさ」
真剣な表情で言うアベルは、クラウスの目から見て嘘を言っている風には見えなかった。
話の筋は通っている。仕事そのものも危険な橋という訳ではない。現時点で依頼を積極的に断る理由は見当たらない。
なら後は報酬面の話になるか、とクラウスが考えを馳せたその瞬間、アベルが机の上に麻の小袋を放った。じゃらり、と音が鳴る。
「前金だ。成功報酬はこれの倍を出す。確認してくれ」
促されるままにクラウスは小袋を手に取って中身を数える。しばし後、勘定を終えた彼は「妥当なトコか」と呟いた。
多過ぎず少な過ぎず、相場の中心を綺麗に狙った金額であった。怪しげな点は見当たらない。ならば迷う理由は無いか。
断って失う信用よりも、受けて負うリスクの方が格段に小さいと見たクラウスは、決断の合図として己の膝をばん、と叩いた。
「――――オーケイ、その依頼承ったぜ。委細滞りなく、この『劇団』が遂行してやるよ」
◇
「……どうなってんだ、こりゃあ」
現地の門を潜ったその瞬間、クラウスは思わず声を上げることとなった。
話と違う。この地は赤や白への旅路における要衝であり、相応の規模と賑わいのある黒の王国有数の宿場街では無かったのか。
ああ、確かに規模は中々のものだ。敷地で言えば自由都市に勝るとも劣らないだろう。しかし、とクラウスは低く唸る。
灰色の空の元、すすり泣く声が聞こえる。街を包む雰囲気は何故だか暗澹としていた。……仲間たちが乗った馬車を一旦止め、クラウスは一人で街へと降り立つ。
何がどうなっているのか。たまたま目に付いた一人の老人へ、クラウスは行商としての仮面を被って声を掛ける。
「済みません、少々よろしいでしょうか? 私、赤から参った行商の者なのですが……最近、この街で何かあったんですか?
知り合いから聞いていた雰囲気とはまるで違っていたもので、面食らってしまって」
焦りもあって早口になりかけた言葉を何とか抑えてクラウスがそう問えば、老人は実にゆっくりとした所作で彼へと向き直る。
その動きの鈍さは、とてもではないが老いだけでは説明が付かなかった。不穏なものを感じ、クラウスの背筋に嫌な悪寒が奔り始める。
「ああ、商人さんかね……。そうかそうか……お前さんらは本当に、運が良い……」
声音はまるで病人のうわ言。力弱い蚊の鳴く声からは疲労の度合いが色濃く伺えて。クラウスはさらに怪訝に顔をしかめることとなる。
運が良いとはどういう意味なのか。疑問をそのまま老人にぶつければ、やはり鈍い反応を以て彼は答える。言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「ほんの二日ほど前だよ。この街に、王がきなすった」
「王、というと……あの、ユー――――」
「――――その名を口に出すんじゃあない。特に今は、のう」
ぴしゃりと言葉を遮る老人。弱弱しい声はしかし、その瞬間だけは確たる力が込められていて。
何かに追い立てられたかのようなその老人の言葉に、クラウスは気圧され口を噤む。
「赤から来たなら分かるまいて。あのお方のことは、儂らでも理解できんのだから」
「私も、噂ならば耳にしたことがあります。民のことを欠片も思わぬ傲慢な王だ、と」
「傲慢な王、か……なるほどのう、お前さんらはそう見とるのか」
違うのですかとクラウスが問えば、老人は呆けた眼差しで中空を見る。その振る舞いはただただ空虚で。
「二日前、この街で十ほどの子供らが死んだ。……理由は何だと思うかの?」
突然の問いに驚きつつクラウスは少しの間考えるも、真面に考えが回らず正直に「わかりません」と言う。
老人はクラウスの答えにそうか、と呟いて。……一拍を置いた後、あまりに虚ろな笑みを浮かべてこう言った。
「子供らの着ていた服の色が気に喰わんかったと、王はそう仰ったようでなぁ。……だから死んだ。皆腹を掻っ捌かれての」
……何だ、それは。言葉の意味を把握できず、クラウスは暫し口を開くことが出来なかった。
理解が及ばなかったのだ。動機と結果が結び付かない。服の色などという些事が切っ掛けで人が死ぬ? そのようなことが有り得るのか。
すすり泣く女の声が聞こえる。それが答えだと言わんばかりに、悲しみの嗚咽はクラウスの心を揺さぶり続ける。
「傲慢というのはそれ、虚実は別にしてその根底に矜持があるものよ。なれば、かの王は傲慢などではなかろう。
――――強いて言うなら悪魔、と。そう呼ぶより他あるまいて」
言って目を伏せる老人の姿に言い様の知れない哀愁と絶望が感じられて。
クラウスは、それ以上言葉を続けることが出来なくなった。
◇
その瞬間、恐怖に抑えられていた劇場の客席が、ほんの僅かにざわめいた。
奔ったのは緊張。広がるのは戸惑いと驚愕。――――芝居とはいえ悪魔と称すか。王はそれをお許しになるのか。
皆の視線が最前に陣取る黒の王へと向けられる。王は怒りを抱いていないか、機嫌が傾いてはいないか。一つ間違えれば演者はおろか自分達観客の命すら危ないというのに。
怯えながらに様子を伺う観客の視線を一身に受けて王は、短く哄笑を上げて言い放つ。
「諸君ら――――芝居を、見るとよいぞ」
言葉を契機に観客たちの視線が一斉に舞台へと注がれる。変化は一瞬、誰しもが迷う素振りすら見せなかった。
王がかくあれと望んだものに逆らってはならない。それ程にユーグの言葉は絶対的で、有無を言わせぬ力が宿っていた。
言葉の端から王の心情を推し量ることは出来ない。悪魔との謗りを彼がどのように受け取ったかなど、この場の誰にも分からないだろう。
調子の狂った酩酊者の声から察せるものなど何もない。
だが、ただ一つ。……クレールは客席を漂う雰囲気から、並々ならない危惧を抱き始めていた。
この劇場の平穏は、非情に危うい均衡の上にあるのではないか、と。
◇
「……まあ、来たからにはゆるりとされよ。皆、王の来訪によって芯まで疲れ切っておるが、数日もすれば元に戻ろう」
そう言い残して老人は、鈍い足取りで通りを歩いて行った。その後ろ姿をクラウスは見送ることしか出来ず。
悲哀漂う街にしばし呆然と佇んでいた彼は、背後からの声によってその意識を覚醒させられることとなる。
「クラウス、クラウス!」
馬車から飛び出して彼の背に声を掛けたのはマルレーネであった。
切羽詰まった彼女の声に、クラウスははっと気を取り直し後ろを振り返る。少女の顔は、かつてない焦燥に染まっていた。
「今、念話が届いたの! 黒の王が、自由都市に来たって――――」
◇
歌劇の合間の静寂に、衣擦れの音が耳に入った。
それは全くの偶然。たまさか機が合わなければクレールはその音に気付きすらしなかっただろう。故にそう、彼は幸運であったと言える。
ふと隣を向いたクレールは、その灰色の双眸を僅かに見く。
――――視界に映ったのは、キトリーが肩を抱いて震えている姿であった。
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