第三節 熱情的に、激情的に

第三節 「落日ノ序・前奏」




 今より開くのは虚無へと至る悲劇であるが、その脚本には一切の虚飾など無いと断言する。

 故に救いなどどこにもないし、幕が下りたその後も絶望は続いている。都合の良い終わりなど訪れない。

 無論、誰にも知り得ぬ真相なども明らかにはならない。この悲劇は結局、切り取られた現実の一部でしかないのだから。


 人は俯瞰を為し得ない。客観視など幻想である。主体としての『自己』を除いて物事を語ることなど出来はしない。

 故にこの悲劇もまた、誰かの主観を軸に広がる自我に染められた景色であることをここに宣言しておく。


 真実など無い。何故なら主観である誰かは真実など欠片も知らないのだから。

 終りなど無い。何故なら主観である誰かの苦悩は今も確かに続いているのだから。

 救いなど無い。何故なら主観である誰かは救われてなどいないのだから。


 今より開くのは虚無へと至る悲劇であるが、その情景には不偏性など存在しないと断言する。

 広がる景色は怨嗟に染まっているし、人物は悪意に歪んでいるかもしれない。記憶などというものは悔恨と雪辱によって容易く捩れ曲がるのだから。


 しかしながら、こうも断言する。今より開く悲劇は確かに、誰かにとっての事実なのである、と。


 主観の誰かが心から信ずる過去の景色。故に、それが客観的かつ一義的な真相とずれていようとこの物語の価値は決して揺らがない。

 絶望は、確かに存在しているのだ。一つの事実として、誰かの心に確りと。


 その悲劇、敢えて題するならば『一睡の頽廃』。

 舞台は赤の帝国、自由都市。七年前までそう呼ばれていた場所。今日でいうところの、そう。


 ――――『廃都』である。




 ◇




 その日。萌芽劇場の客席には、一席の空きも見当たらなかった。


 ただ、その満員は必ずしも喜ばしい意味など持ってはおらず。……開幕を待つ観客たちは皆、一様に処刑を待つ罪人の様な表情を浮かべている。

 さもありなん。彼らは皆その身と席とを『招待状』という名の鎖で繋がれているに等しい。自由など一つとして許されてはいないのだ。

 

 ――――来い、そして共に見よ。卑賤の賑々しさで余を楽しませろ。

 

 迂遠なる表現の招待状は、要約すればそれに尽きる。送り主は、我らが敬愛畏怖すべき悪魔

 つまるところ勅命であるのだ。従うより他に選択肢など無いし、そも『背こうものなら』などという想像すら誰の頭にも起こり得ないだろう。

 故の満員。それは国民皆に染みついた畏怖の証明とも言い換えられる。黒の王には誰一人として逆らうことなど出来ないのだ。


『旅烏の梢亭』へと送られてきた招待状は二枚。そこへそれぞれクレールとキトリーの名が記されていたのは、果たして偶然か必然か。


 横から唾を呑む小さな音が聞こえた。恐れと緊張を無理に飲み下そうとでもしたのだろうか。

 クレールが隣へと目を遣れば、怯えた面持ちのキトリーと視線が合う。瞬間にふと眼を逸らした彼女は、何の念話も発さなかった。


 あるいは三日前の事が尾を引いている可能性もある。クレールは結局、あの後からキトリーときちんと話せていなかった。

 数度ほどはその機があったものの、思い切って踏み込むことが、言葉に出すことが出来なかったのだ。

 拒まれたら、嫌われたらどうしようと。一度は決意したはずなのに逡巡してしまう己の弱さをクレールは恥じ入る。結局僕は、優柔不断なままなのかと。

 だから今日は、今日こそはとクレールは改めて心に決めている。丁度二人になったこの機会に言えなければ、次など無いと覚悟して。


 しかし、今の状況を肌で感じて何かを言えるほど、クレールは無邪気でないし肝も座っていなかった。


 キトリーも含めて、皆全員が恐れているのだ。黒の王たるユーグの存在を。

 この場にあって王への畏怖を抱いていない人間は皆無であろう。……唯一人、クレールという人間を除いては。


 ……百年王ユーグとは、如何なる人物なのだろうか。


 クレール自身、彼に関する悪評は聞き及んでいた。享楽に呆けて国政を省みない暗君。気まぐれや遊びで人の命を弄ぶ外道。かつて街一つを丸々血の海に染め上げた悪魔。

 果たしてそれらの噂は、クレールの脳に明確な『百年王』の像を結ぶには至らなかった。

 彼は単純に、疑念を抱いたのだ。そんな人間が本当に存在するのだろうか、と。

 百年以上王座に君臨している、という事態そのものが異常なのだ。そこに加えて、民草を人とも思わない暴君振りを示す悪行の数々。

 国民は決して愚かではない筈だ。王たる素質の無い者ならば、不満を持つ誰かによって討たれてしかるべきではないのだろうか。


 そのクレールの疑問は至極当然であり。

 だからこそ彼の疑念が瞬時に氷解するのもまた、当然の帰結であったのだ。


 ――――客席後方の扉が開く。その一歩が劇場の床へと降りた瞬間、全ての音が消え去った。


「――――――――ッ」


 言葉にならない驚愕にクレールは呼吸を奪われる。喉元を緊張と恐怖が締め上げる。

 一歩、一歩一歩、一歩。乱れた調子に狂気を滲ませ、何かが客席を歩いている。何だ、一体何が来るというのか。


 気付けば額には汗が浮いている。喉の奥が渇き始めている。いつかの猿の魔物と相対した時よりも尚強く、その畏怖は精神の芯へと染み渡る。


 姿も見えないというのに。声すら聞こえないというのに。……これ程までに人を震え上がらせる存在が居るというのか。


 気配が近づくにつれ、筋肉が強張り体が震えてくる。足音が程近い。衣擦れも聞こえる。もう間近に、ああ、通り過ぎて――――


 そしてクレールは初めて、黒の王の姿をその目に焼き付ける。


 深淵色の長い髪は尾を引く暗い影のように。黒地に金刺繍の外套は奢侈なる輝きを湛えて。ちらりと見えた横顔は悍ましい程の白。見開かれた眼は黒白反転。


 ――――別段、何をしたわけでもない。王はただふらふらと、酩酊しているかのように歩いているだけ。だというのに、何故。

 何故僕の体は、これ程までに震えているのか。クレールは自身の膝を強引に抑え付ける。独りでに奥歯がかたかたと鳴り始めていた。


 ああ、何だあれは。あんな人間がこの世に存在するというのか。クレールが恐怖に体を震わせる中、黒の王は舞台の最前に立って振り返る。そして。


 悍ましき嗤いはどこまでも底の見えない深淵を表し、粘ついた澱みの音が王の口から放たれた。



「――――皆、よくぞ集まってくれたァ。余は嬉しいぞォ」



 誰かが声ならぬ悲鳴を上げる。クレールは辛うじて声に出すのは堪えたものの、それでも顔が強張ることを止められなかった。

 劇場の客席に広がったその反応を眺め、黒の王ユーグは更にその笑みを酷薄なものへと変えてゆく。


「なに、そう怯えることは無いぞォ? 余は、余を敬う者に対しては寛大であるからなァ?」


 語尾を上げ、後に含み嗤う黒の王はただただ奇怪な、不気味な空気を漂わせる。

 絡み付く声色は蛇のように。悪寒を残しながら総身を這い回り、心身をじわりじわりと締め付けていく。

 これが王。これほどに得体の知れない悪魔のような人物が、一国の元首だと。黒の王国の頂点に立つ者だと言うのか。クレールは内心の嫌悪を抑えることが出来なかった。

 尚もユーグは蛇なる言葉を吐き出し続ける。無辜なる民を苛み続ける。


「多くは語らぬ。皆、思い思いに楽しむと良い。ただし――――」


 一拍の溜め。練るのは言葉か、あるいは悪意か稚気なのか。


「――――余の気分を害するでないぞォ? く、ふふ、はははァ」


 聞く者の臓腑を芯まで凍らせる笑いが、劇場を一気に侵食する。

 そうして皆が震えあがる中、トロイメンが綴る悲劇の物語はゆっくりと幕を開けた。




 ◇




 自由都市の名に偽り無し。その街には、わだかまりというものが何一つ存在していなかった。


 街の人間は何物にも縛られず、代わりに何物をも否定せず、その日その日を悠々にして自適に過ごす。人種と思想と文化の坩堝。

 あるいはそれを楽園と断ずる人間も居るのかもしれないが、実体とは得てして理想と懸け離れるものである。

 『自由』という呼称は過分に好意的な表現だ。実情にそぐう表現を持ち寄るならば、渾沌、あるいは無法とでも言うべきだろう。


 縛られないのだから止まらない。彼らにとっては己の意志こそが法であるから、それを妨げる者は誰であっても許さない。

 否定はせずとも排除はする。『在る』こと自体は認めても、それが邪魔と感じれば容赦なく払い除ける。

 悠々と過ごせない事態に彼らは耐えられない。己が心地良く思う場所を侵される事が我慢ならず、それが小指の先程度の些事でも許容できない。


 要は、そういった類の思想を持つ人間の寄せ集めなのだ。悪意をもって評すれば掃き溜め、吹き溜まりである。

 社会というものに己を馴染ませられない異端達が、秩序に追われて最後に流れ着く場所。自由都市とはとどのつまり、大陸における『底』なのであった。


「――――頭の悪ぃオッサンで助かったぜ」


 薄暗く汚れた貧民街を歩くのは、嫌に身なりの小奇麗な青年であった。


 染み一つない黒地のドレスシャツと真白のベスト、灰色のボトムは埃と腐臭漂う貧民街には全くもって似合わない。

 だというのに、彼の存在は荒れた街並みに見事に浸透していた。まるで、服装以外の全てが俗的な穢れに受け入れられているかのように。

 ……彼の手に握られているのは、金貨入りの小袋。今日彼が得た『収入』であった。


「目端の利く客だったらヤバかった……それもこれも『小道具』の出来が一等悪かったせいだな。こりゃあ説教モンだぜ」


 わざわざ美術品を漁りに自由都市まで足を運ぶような奴は、余程の道楽者か馬鹿だけだ。

 その中から慎重に馬鹿を選んで『芝居』を打った青年は、己の人を見る目の確かさを再確認するとともに今回の『小道具』の荒さに少しの怒りを抱いた。

 贋作を扱うのは唯でさえ神経を使うというのに、よりによってサイン部分のインクの色を取り違えるなんて論外だ。

 いくら相手が馬鹿だとしても、サインは流石に注視するだろう。……だというのに。


「ったく、俺じゃなきゃ誤魔化しきれなかったっての」


 絵のタッチや色彩の使い方、キャンバス自体の褪せ具合。他の部分に上手いこと目を逸らさせることでどうにか難を逃れたが、一歩間違えばどうなっていたことか。

 美術品というものは権威と結び付きやすい。上手く捌けば儲けはデカいが、一度の失敗で全てを失う危険だって少なくないのだ。


「その辺り、もうちょい教え込まねえとな」


 集団の長である青年は責任があった。例えそれが薄汚い商売だとしても、守らせなければならない定型やルールというものはある。

 非道外道も道であることに違いは無い。しかもそれらは正道と比べて、逸れたり外れたりした時の危険度が半端ではないのだ。

 怪我で済めば上等である、何せ魔法で治せるのだから。下手を打たずとも命が危うい、そういう道を歩いているという自覚が必要だから。

 青年は、辿り着いた建物の扉を叩く。朽ち折れた白塗りの木は十字架の成れの果て。捨てられた小さな教会が彼らのアジトであった。


 二度、三度、三度、一度。変ったノックは符丁の合図。


「はいはい、どちら様ですか?」


「懺悔をしに来たのです。罪深い私にどうか、赦しのお言葉をくださいませんか?」


 少しの間があって扉が開く。「お帰り」と青年を迎え入れたのは一人の少女であった。すまし顔の彼女へ向けて、青年はぶっきらぼうに言葉を返す。


「おう、帰ったぜマルレーネ。早速で悪ぃがハンスの奴を呼んでくれねえか」


「……『小道具』が何かまずかった?」


「ああ。上手い事いったのはいったが、ちーとばっかし説教しねえとな」


 言って金貨入りの袋を少女、マルレーネへと放る青年。二人は並んで教会へと入り、その扉を静かにぱたりと閉めた。



 ――――『劇団』と言う名の、子供達の詐欺師集団。


 誰が初めに言い出したのはわからないが、いつの頃からか彼らはそう呼ばれていた。

 やがて彼らもまた自分達のことをそう自称するようになり、『劇団』の名は自由都市の一部――主に外縁部の貧民街――でそれなりに広まることとなる。

 ガキにしては遣り口が狡猾。疑っていても騙される。……貧民街においてはある種勇名とも言えるその評は、彼らの詐欺師としての腕を端的に表すもので。

 ……しかしながら。年端もいかぬような子供達が何故こんなことをするのだろうか。


 ――――などという事を言えば、街の皆が言うだろう。「お前は頭が湧いているのか?」と。

 ――――自由都市とはつまり、なのだった。


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