第二節 四 「一日前・王は全てを愛玩する」
その日も常のように、宵闇の会合が行われるはずであった。
否、事実として日付が変わるその数瞬前まで、クラウスらは闇に溶けつつ来たる日のことを綿密に話し合っていたのだ。だが。
運命の日、その前日へと時計の針が進んだその瞬間に、会合は突如として中断を余儀なくされた。……一人の女性が、その場に現れたことによって。
「初めまして」
暗闇からの声は楚々として優雅。彼女がいつ現れたのか。その場にいたクラウスもマルレーネもシェルムも、恐らくは誰も気が付かなかった。
どころか恐らく、声を聴かなければそもそも気付きすらしなかっただろう。宵闇は何も、彼らだけに味方をしていたわけではなかった。
暗い中にぼうと浮かぶ、深紅の外衣と褪せた白髪。老いた体にそぐわぬ力強い瞳で三人を見るのは、この街、王立学園の頂点に座す神秘の魔女。
学園長ミシュリーヌの姿を見て、いの一番に反応できたのはシェルムであった。彼女は常の道化染みた振舞いをしようとして、しかし演じ切ることが出来ない。
それほどに紅衣の老女の登場は、彼らにとって予想外であった。
「お、驚きましたね。まさか貴女が直接この場に訪れるとは。……ここに至るまで幾つか防犯の罠を仕掛けさせて貰っていたんですが」
「ええ。極力触れぬようには来たつもりです。やむを得ず壊してしまったものは、修復させて頂きました」
「修復……!? はは、自信が無くなりますねぇ」
顔を引きつらせるシェルムを余所に、ミシュリーヌはクラウスへと真直ぐに視線を遣る。
無駄な事を話す気はないと言外に語る老女の瞳は、表面上は柔和でありながらも確たる意志を覗かせている。
何故ばれたのかとは思わない。それは想定の内である。彼女は一体何をしに来たのか。それが分からないクラウスではなかった。
「端的に。貴方がたに計画を中止していただけないかと、お勧めに来たのです」
「何のことでしょう。分かりかねます」
誰かの緊張が場を奔るその前に、とぼけるように口を開いたのはやはりクラウスであった。
ここまで来て計画を阻まれるわけにはいかない。決定的な事さえ洩らさなければこの老女は何もできない筈なのだ。
何故ならば、自分達は現時点ではただの『赤の帝国からの来訪者』なのだ。
確たる理由なく無理に抑え込めば赤との不和を招くことになる。そうなって損をするのは黒の王国と王立学園の方だ。
だから、この場を乗り切りさえすれば。クラウスは内心の緊張を表に出さぬよう、何もわからぬ人間を演じる。芝居を打つことには慣れているのだ。
「そう仰るとは思っておりました。故に私も多くは語りませんよ」
と、あくまで冷静にミシュリーヌは言葉を紡ぐ。詮索や交渉をしに来たにしては、やけに淡泊な態度であった。
何を言われようと嘘方便を突き通す、そう覚悟していたクラウスは思わず拍子抜けするとともに、彼女の振舞いを訝しむ。
ミシュリーヌの目的は一体何なのか。こちらに連絡も取らず一方的に乗り込んできたことから見るに、友好も譲歩も示すつもりはないのだろう。かといって実力行使という腹でもないのは明らかだ。ならば彼女は一体何を考えているのか
そんな疑問を抱きながら構えるクラウスは、次に掛けられる言葉に絶句することとなる。
「――――このまま進むのならば、貴方がたは必ず死ぬ。何をしたとしても『廃都』の焼き増しにしかならない」
それは予言というよりも断言。起こってしまった過去の事を述べるかのような言葉。
「私の恩恵がそう告げている……いえ、そも恩恵を持ち出す以前の問題です。黒の王に触れるべからず。
他の帝国民の方々ならばいざ知らず、貴方がたがそれを承知していない筈がない。違って?」
――――何故、そのことを知っている。彼女はどこまでを知っている。表情が引き攣りそうになったのを、クラウスは辛うじて堪えた。
しかしマルレーネは驚愕を抑えることが出来なかったようで、小さく息を呑む音が響く。……出来れば耐えてほしかったものの、彼女を責める気にはなれなかった。
自分達の素性は、誰にも知りようが無い筈なのだ。何故ならば初めから『存在しない』のだから。どのような記録にも書類にも、自分たちの過去は存在していない筈。
だというのに、何故。内心の疑問と驚愕を培った演技で無理矢理抑え込み、クラウスは口を開く。
「先ほどから何の話をしていらっしゃるのか、私どもには分かりません。誰かしらと勘違いしておられるのでは?」
「…………なるほど。予想はしていましたが、随分と意志は堅いようですね」
やはり淡泊。あっさりと身を引いたミシュリーヌの様子にクラウスは違和しか感じなかった。
何故ここまで彼女は冷淡なのか。人格者としての評が大きい王立学園長にしては不可解な反応であった。
自分達がやろうとしていることを知れば、真っ先に阻止するであろう類の人間だと思っていたのだが。クラウスは疑問を抱くも、それに答えなど求められる筈もなく。
「ならば構いません。こちらのすべきことはもう残っていない。……それと、私としてはこちらが本題ですけれど」
言って、ミシュリーヌは表情を崩した。浮かんだ笑顔の柔らかさに、クラウスは不意を突かれ演技の皮が剥がれかかる。
どういうことだ、こちらを油断させるつもりか。警戒を滲ませた彼やマルレーネ、シェルムへ向けて、ミシュリーヌは語りかける。
……その笑顔は嘘になど決して見えなくて、どこか寂しさすら感じさせて。
「貴方がたの歌と芸、素晴らしかったですよ。心から、楽しませて頂きました。……出来ることならばもっと純粋な気持ちで、貴方がたとは出会いたかった」
そう言って目を伏せたミシュリーヌは「では、私はこれにて。突然の訪問にもかかわらず、対応してくださって感謝いたします。それでは」と深く丁寧に礼をして。
白い髪と紅衣が夜闇にすうっと溶けてゆく。気付いたころには彼女の姿は、気配ごと綺麗に消えてしまっていた。余韻を残す深夜の静寂は、何故だか物悲しく。
…………沈黙を破り、震える声を発したのはシェルムであった。
「ははは、肝が冷えましたねえ。まあ見逃してくれるとは思っていましたが」
「の、能天気に言っている場合……!? 計画どころか私達の素性まで知られているのよ!? 妨害されるかもしれないっていうのに!」
「いやいや、何もされませんよ。ワタクシ達がただの来訪者である限り、彼女はワタクシ達を害することなんて出来やしない」
常の調子を取り戻したシェルムが、憤るマルレーネを小馬鹿にしたような口調で嗜める。
そうだ、ミシュリーヌは何もできない。西方騎士館も同様だ。――――自分達が『トロイメン旅楽団』である限り、彼らは手出しなど出来ないのだ。
事が起こるまでは――つまりは自分達が目標を達成するまでは――誰の邪魔も入らない。誰にも阻むことなど出来はしない。
その後のことなど知ったことか。煮るなり焼くなり好きにすればいい。……そうだ、俺たちはその為だけに生きてきたのだから。
沸き起こる暗い決意と共に、クラウスはミシュリーヌが発した言葉を反芻する。
「必ず死ぬ、だと?」
ああそうだろう、当たり前のことだ。事がどのように運ぼうと俺たちの先に道など無い。しかしミシュリーヌ、お前は一つ見当違いをしているんだよ。
俺たちが死ぬことを恐れていると? そんなわけがないだろう。何故ならば――――
「――――それを言うなら、俺たちは七年前にもう死んでるんだよ」
◇
目覚めるのが遅かったのは、きっと偶然ではない。
立ち込める灰色の雲。天気が崩れそうだと思う前にクレールは、街の雰囲気に疑問を持った。
昨日までとは何かが違う。自室の窓から外を覗けば前の通りが良く見えるが、行き交う人は誰もいない。そのことに彼は首を傾げた。
ふと、腿のあたりに何かの感触。足元に視線を遣れば、見上げる黒曜の瞳と目が合った。
「……珍しいな、君が部屋まで来るなんて」
黒狼、エクリプス。森の庭で出会った魔獣は、今では『旅烏の梢亭』にすっかり馴染んでいた。
普段の彼女はダイニングの扉の脇で座っているか、あるいは街へと散策に出かけていることが多く、誰かの私室に近付くことはめったにしない。
遠慮をしているのか興味が無いのかは分からないが、とにかく彼女が一階から上がってくることは今までただの一度も無かったのだ。
だというのに。……クレールはしゃがみこみ、エクリプスの艶やかな黒毛を撫でながら問う。
「どうした、何か用事でも?」
黒狼は小さく一度だけ吠える。そのやけに大人しい声色にクレールはまた、首をかしげることとなった。
――――行くな、と。外には出るなと。そう言っている気がして。
不気味な静けさが耳鳴りを起こす。昨日までの賑やかさが嘘のように、王立学園は静まり返っていた。
◇
磨き上げられた鎧は今日の為に。勇壮な姿の騎士達は、左膝を付いて列を為す。
東門通りの中央に陣取る騎士達の隊列に一切の乱れはない。誰一人としてその敬礼の格好を微動だにさせず、姿勢そのものも判で押したかように、細部に至るまで同一。
西方騎士館全騎士が、死ぬ気で初心を呼び起こし訓練をした結果であった。その整然な美しさたるや、恐らく王都守護を司る騎士達すら並び得る。
礼を欠けばどうなるか、誰しもが理解していたのだ。故にこそ為し得た完璧な整列、敬礼。
その列の最前に立ち、彼らと同じくその完璧の一部を為すベルトランは感心を抱くと共に、かの王の恐怖の度合いを改めて実感する。
……百年王への畏怖は、人をここまで駆り立てるというのか。
そして、深淵の足音が聞こえてくる。ゆったりとしたその歩調には定められた拍子などなく、まるで酩酊者が如き不安定さを思わせる。
事実として、酒気の類を帯びているのだろう。もしくはそれよりも遥かに悪辣な薬気を。つまるところ、かの王は常に正気ではない。
それは、元より悪魔が如き気質と才を持った人間が、理性の手綱を初めから手放していることを意味しており。
その恐怖は、容易に語り尽くせる物などではない。
王の虚ろは、既に学園全てを侵しつつあった。昨日までの賑わいが欠片残さず消え去っているのがその証左。
黒の王に触れるべからず。王国臣民を百年もの間侵し続けているその病は、どこまでも黒く深く、そして空虚なもので。
「――――皆、面を上げよォ」
その何気ない一言にすら、騎士達は肝を凍らせる。それはベルトランも例外ではない。
奥歯が震え出すのを堪える。その姿など目に入れたくも無かった。だが、命に逆らえばどうなるかなど目に見えている。
故に騎士達は己の精神を全て吐き切って、一斉に顔を上げた。――――瞬間に、恐怖と後悔が噴出する。
深淵色をした髪は異常なまでに長く、白黒の反転した眼球は何処を見ているか分からない。
黒地に金の刺繍が施された豪奢な外套の隙からは、白蛇が如き色の肌が覗いている。腕は枯れ枝のように細っているのに、そこには弱弱しさなど微塵も感じられない。
その姿は今際の際の病人のようにも、俗欲深く生き汚い罪人のようにも、果てはそれ以外の『人ではない何か』にも見える。
死生の双方に魔を混ぜ込んだかのような姿は一言、異様である。
人の形を為してはいるものの、その中身が自分達と同じもので出来ているなどと。ベルトランには信じることが出来なかった。
「出迎え、大義である。余は嬉しいぞ、西方騎士館の者等よォ。…………ただ、なァ」
そう言って、焦点の定まらぬ白い瞳で騎士の隊列を眺めた王は、羽虫を除けるように手を払い。
「――――奇数、という気分では無くてなァ」
列の端にいたひとりの騎士を、見えない何かで圧し潰した。
悲鳴を上げる間もなく鉄と肉の混じり物と成り果てた騎士の残骸。それは間を置かずに石畳の道へと沈んでゆき、数秒の後には跡形もなく消え失せる。
呆然とする騎士達の中、いち早く事を理解したベルトランは『気を抜くな、死にたいか』と最低限の念話を部下たちへと送る。
それを切っ掛けとして、崩れかけた隊列は元の美しさを取り戻す。……ベルトランの念話が無ければ恐らくは、あと十ほどは命が散っていたことだろう。
この、冗談にしても性質の悪い悲喜劇こそが、黒の王が畏れられる所以である。
気まぐれにて人が死ぬという、天災よりも一等悪辣な人災。
分かってはいた。しかし、とベルトランは心中で歯噛みする。あまりに、あまりに残酷過ぎる。
何の余韻も残さずに、何の感慨も抱かずに、ただ気が向かぬとそれだけの理由で己の臣を殺すような男が、何故王座に君臨しているのか。
誰もが抱くその理不尽の理由は単純にして明快である。……誰にも王を阻むことが出来ない、と。ただそれだけの話なのだ。
「余は疲れた。不夜城への案内を頼むぞ、ベルトラン」
そうして何事も無かったかのように、百年王ユーグはのうのうとのたまう。
平然としたその姿に怒りを抱きそうになるベルトランはしかし、己の気力だけでその感情を抑え込んだ。
不義は罪、不敬は罪なのだ。下手をすればそういった傾向の情動ですら罪になり得る。王が『そうだ』と感じ取れば、その瞬間に血を見ることになる。
ここで自分が怒りに屈してしまえばどれ程の人間が死を迎えることとなるか。それを考えれば、己の感情を殺しきることなどベルトランにとっては容易いことであった。
――――再び顔を下げ、西方騎士館長ベルトランは己の君へ向けて最敬礼を捧げる。
「……は。ユーグ陛下の、御心のままに」
それに倣い深々と礼する騎士達の隊列に、深淵は満足げに嗤う。
怠惰の支配者、黒の王ユーグはその場のあらゆる全てを弄ぶかのように、悍ましい魔性を漂わせていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます