第二節 三 「二日前・少年は不明を自嘲する」
「辛気臭い」
朝一番、クレールの顔を見るなりアンブルはその琥珀色の目を細め、顔をしかめて言い捨てた。
ダイニングでひとり紅茶を啜っていた彼は、突然の言葉に驚きながらもそれを否定できず、言葉を詰まらせる。確かに今の自分は、酷い顔をしているに違いなかった。
原因は言うまでも無く、昨日の一件である。クレールは肩を落とし「……済まない、気にしないでほしい」と弱弱しく零した。
「なら私の視界に入るな。鬱陶しくて敵わん」
不快感をあらわに、キッチンへ向かったアンブルは用意されていたサンドイッチを温めもせずその場でかぶり付いた。
……今日の『旅烏の梢亭』は、朝からキトリーが不在である。近く開かれる展覧会の準備会、打ち合わせに呼ばれているとのことであった。
ちなみにリナはまだ眠っている。用事が無ければとことん起きないのが彼女の性であるらしい。
というわけで必然、今朝のダイニングにはクレールとアンブルの二人だけになるわけだが。
……その状況がクレールには少しばかり居心地が悪く、しかしながら安堵できる面もあり、総じて中途半端に複雑な気分であった。しかし。
「キトリーを泣かせたそうだな」
手早く食べ終えたアンブルが端的にクレールの急所を抉ったことで、浮付いていた彼の半端な気持ちは一気に消し飛んだ。
ティーカップをソーサーに置く手が震え、耳障りな音が響く。再びアンブルは不愉快そうに顔をしかめた。
「馬鹿が、いちいち怯えるな鬱陶しい。……なんだ、リナの説教がそこまで堪えたか」
「……ああ。無神経すぎると言われた。もう少し考えて物を話せ、とも」
「は、これ以上無い正論だな。何一つ違えていない」
鼻で笑ったアンブルは魔法式の冷蔵庫から牛乳瓶を取り出し、中身を木のコップになみなみと注いだ。
満たされた牛乳がこぼれるすんでのところでコップに口を付けて啜った彼女は、もののついでといった話し口で語り始める。
「面倒な話だが、異界人というのは存外に過敏な奴が多い。大抵の奴は何かしらこじらせているんだよ」
「そう、なのか」
「そうだ。……お前は確か『こちら側』へ来てすぐにリナと会ったんだったな」
「あ、ああ。それが、何か」
「私の場合は初めて人間に会うまで四日程掛かった。その間は当然飲まず食わずだ。道中魔獣に襲われて怪我もした。最後は死すらも視界に入ったな。……言っておくが、これでもまだ幸運な方だろう。
ただ人に会うまででそれだ。王立学園に至るまで、何事も無かったと思うか?」
平然と語ったアンブルは、間を置くついでに牛乳を煽る。一方のクレールは、彼女の言葉に己の不明を悟っていた。
思えば当たり前の話である。大陸は広いのだ、人里近くに運良く現れる確率など限りなく少ないだろう。そんな中で生き残り、命を繋ぎ、王立学園に至るその道程が平坦である筈も無い。
「覚えておけ。ここにいる異界人は大抵が『そういう奴』だ。万事順調なのはお前くらいのものだろう。だから」
一拍置いて一気に牛乳を飲み干したアンブルは、コップを置くと共にクレールへと顔を向ける。
その視線は彼女らしく刃のように鋭いもので、しかしながら常とは少し違った色合いがあった。……それは警告であり警戒。恐らくは彼女が一番、己の琴線に触れられるのを嫌っているからこそ。
視線の刃に殺意を込めて、金髪の少女は言葉を突き立てる。
「――――他人の心の傷に、軽々しく触れるなよ。何をされても文句は言えんぞ」
◇
僕はどうすればよかったのだろう。どうすればいいのだろう。クレールは苦悩を抱きながら南門通りを歩く。
キトリーに掛けた言葉が軽率だったのは紛れもない事実である。言い逃れなど出来はしない。けれども、と彼は思うのだ。
僕には、彼女の傷がどこにあるのか見えない。だから、触れてからでないとそれが傷であったかを知ることができない。
事実今も、キトリーの過去に何があったのかはわからないのだ。知っているのは、彼女が『声』と『歌』に何らかのトラウマを抱えている、ということだけ。
同じ轍を踏まないようにすることは出来る。
けれど、どうやっても見えない物を触れずに避けることなんて、『目』の魔法を使っても不可能なのだ。
「どうすれば……」
彼女たちを傷付けないために、傷口に触れないようにするためには、どうすればいいんだろうか。
悩みながら歩いていると不意に、額にこつんと衝撃が走った。僅かな痛みに呻いたクレールが伏せていた顔を上げると。
「よおクレール! シケた面してどうしたよ?」
軽く握った拳を掲げて一声、赤毛の少年テオの快活な笑顔が目に入る。どうやら彼に額を小突かれたようだった。
アンブルに並ぶ訓練好きのテオにしては珍しく、武器も防具も纏っていない様子である。大きめのシャツと七分丈のボトムは、無邪気な彼に良く似合っていた。
「テオ、か。今日は自主練じゃないのか?」
「おうよ、一日休みだぜ。人間動きっぱなしは疲れっからよ、ちいとは休みいれねえとな! それにあれだ、なんて言ったっけ……とろんとろん何とかってのも気になるしよ!」
「……もしかして、トロイメン旅楽団か?」
「おーおーそれそれ! いやぁ、帝国の方の名前ってなんか頭に入りにくいんだよなぁ」
頭をぼりぼりと掻きながらテオは笑う。学園で会う彼はいつもあっけらかんとした調子で、細かいことをあまり気にしない。
しかしながら、その性格に芯が通っていないわけではないのはいつぞやの森の庭の件で分かっていた。それに、幾分以上に世話焼きである、ということも。
「俺のこたぁいいんだよ、それよりお前の薄暗い顔だぜ。どうしたっつーんだよ?」
「どうした、と言われても……どう言えばいいんだろう」
クレールは考える。下手に詳細を話してしまえば、またキトリーを傷付けることに繋がるかもしれなかった。
慎重に考えを巡らせてクレールは、抽象的かつ迂遠過ぎない言葉をなんとか選び出した。
「……会話の中で、人を怒らせたり悲しませたりせずにすむ方法を考えていたんだ。触れてはいけない部分に触れない方法、とでも言い換えるべきか」
「また小難しいこと考えてんなあ、お前。頭痛くなんねえ?」
「それは……否定出来ない」
実際にかなり頭を悩ませている問題であった。クレールは内心を滲ませながら苦笑する。
その様子に「暗えなあ、辛気臭えぞ!」とテオは言い放つと、クレールの隣へと並び立って肩をがっしと組み、豪快な笑顔を浮かべた。
「俺ぁよ、そういう細けえことは考えられねえ性分だ。だから、正面からぶつかることしか出来ねえ。
端から分かんねえもんを考えたって一生分かんねえだろ? だからいっぺん、ぶつかってみんだ。それで怒らせちまったら謝りゃあいいし、腑に落ちなきゃあ理解できるまで聞き倒す。なんせ馬鹿だからな、それくらいしか出来ねえのさ」
「……それでは、不用意な一言で誰かを傷付けてしまうかもしれない。そうは思わないのか」
「思うさ。ったりめえだろうが。だがよおクレール、こっち見てビビりながら喋る相手とお前、仲良くなりてえと思うか?」
何気なく放たれたテオの言葉が、心へと直に突き刺さる感覚。クレールは瞠目する。
「話す言葉話す言葉イチイチうだうだ考えてたらよ、気楽に喋るなんて出来やしねえ。外面繕うにも限界あるだろうしな。
それにな、相手が何言われたら怒るとか、初めっから分かる奴なんて居ねえだろ? その辺はお互い腹割って晒すもん晒さなきゃ知りようがねえ。
もっかい言っといてやろうか。――――端から分かんねえもんを考えたって一生分かんねえんだよ」
そう言ってテオは、クレールの悩みを一蹴する。無駄な事に思考を裂いていても意味は無い。もっと他にやれることがあるはずだ、と。つまりは。
「ビビるくれえなら迷うな、踏み込め。ああでも、やべえこと聞くなら覚悟持てよ。踏み込むっつーのはそういうことだぜ」
「覚悟。……そうか。傷付けるかもしれないと踏みとどまっていても、結局何も変わらない」
恐る恐る様子を伺っていても心の距離は縮まらない。腫れものを触る様に接されて嬉しい人間など居ないのだから。
何故君は傷付いているのか。何故君はそうまで悲しむのか。例え再び傷つけることとなっても、嫌われることになっても、踏み込まなければ何も変わらない、解決しない。
理解したいと心から思い、傷つけたくないと心に誓うのならば、相応の覚悟を持って踏み出す以外に道は無いのだ。
そんな当たり前のことを、僕は解らずいたというのか。己の不出来を恥じ入ると共にクレールは、それを気付かせてくれた友に感謝を抱く。テオは、常と変らぬ快活な笑顔を浮かべていた。
「ま、そういうこったな。へへ、俺もたまにはイイ事言うだろ? ソンケーしてもいいんだぜぇ?」
「ああ、ありがとうテオ。君の言葉で、何かが少し分かった気がする」
「そこで真面目に返すってかぁ……まあ、お前らしいっちゃあらしいけどよぉ」
少しばかり呆れ気味にそう言い放ったテオは、ばんばんと二度クレールの背を叩いた。
「今はとりあえず、そのシケた面をなんとかしようぜ。ってことでクレール、ちょっと付き合え!」
勢いよく言ったテオは少々強引にクレールの肩を持ち、そのまま返答も聞かず灰髪の少年を引き摺って行く。
戸惑い混じりに「ど、どこに」とクレールが問うと、赤毛の少年は少しも歩みを緩めないまま豪快に笑って応える。
「あれだ、とろとろん何ちゃらが東門通りで大道芸やってるらしくてよ! 討伐科の連中と見物の約束してんだ。ここで会ったのも縁って奴だ、お前もついてこい!」
「ちょ、こんな無理矢理でなくとも――――あと、トロイメン旅楽団だ――――」
強引に連れられて行くクレールはテオの間違いに突っ込みを入れつつも、どこか楽しげな笑顔を浮かべている。暗い苦悩は、もう消えていた。
◇
王が来る。王が来る――――
月に叢雲花に風。楽団の到来に喜ぶ人々へ、その噂は氷水よりも尚冷たいものとして降りかかる。
誰から端を発したかなど分からない。大元の知れない不確かな情報はしかし、不吉な病風が如く王立学園を侵し渡った。
何故ならば、かの君は存在そのものが禁忌であるから。自らそこへ触れたくなどないと臣民誰もが願っているから。
だからこそ『ユーグ』という名が――百年王の真名が――民草の口から発せられることなど、まずもって有り得ない。
口にすれば本当に来るかもしれないと。そんな迷信交じりの恐怖が蔓延する程度には百年王の存在は大きく、そして悍ましい。
王に触れてはならない。王に近づいてはならない。
そうやって恐れを抱くのは当の臣民。つまりは敬意を払うべき己等の王に、黒の王国の元首たる者に、彼らは酷く怯えているのだ。
その歪みは恐らく、他国の者が思うよりもずっと根深い。何せかの王の異名が示す通り、王国臣民は百年もの間その畏怖に晒され続けているのだから。
黒の王に寄るべからず、と。彼への畏怖は暗い信仰か、もしくは不治なる病のように、黒の王国の人々へとへばり付いて離れない。
だからこそ、ユーグという名が発せられたその時点で、百年王の到来は必然なのである。
その噂が流れるということは、誰かが己の抱く恐怖を振切ってまで王の忌み名を口にした、という事実の証左なのだから。
王が来る。王が来る――――
全てを無価値と嘲る王。全てを玩具と弄う王。人を越え魔を越え何かへと至った人外の君主。
死生すらを掌中で転がす深淵の足音は、直ぐ傍まで迫っていた。
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