第二節 二 「三日前・少女は唱歌を求める」




 声は原初の楽器である。この世で初めて音楽というものを奏でたのは、人が喉を震わせて生んだ音に違いなく。


 故にこそ折り重なる美しい声は、こんなにも心に響き魂を揺さぶるのだろう。少年は鼓膜を震わせる数多の声と音にその精神を委ねてゆく。

 高いソプラノは小鳥のように繊細に囀り、真直ぐなアルトは猛禽のように駆け抜ける。テノールは力強く吠える狼が如く、落着いたバスは憩いの場として聳える大樹のように。

 人智が生み出した数多の楽器は、華やかながらもどこか優しく、母なる歌声に寄り添うことで音楽を美麗に彩ってゆく。

 金管木管は溌剌とした陽の光。絃の響きは優雅に抜ける一陣の風。重低音の節奏からは大地の慈愛が感じられる。


 全ての声が、音が、渾然一体となって劇場全てを音楽の世界へと変えてゆく。

 歌声が爽やかに香り、笛の音が鮮やかに色を乗せ、鼓音が肌を撫でるのだ。音楽が五感を支配していく感覚に、少年は浸り酔いしれる。


 つまるところ、芸術とは世界を塗り替える行為なのだろう。


 無から有を創り出し、今ある有を染めてゆく。それは音楽も絵画も彫刻も同じことなのだ。

 作品の中には一つの世界があり、それはどのような場所に置かれたとしても決して揺らがないし変わらない。それはつまり、元あった領域なり空間をその芸術の色に染め上げてしまうということであり。

 その力たるや魔法にも比するのではないかと、少年は感動と驚嘆を同時に抱く。

 劇場は今まさに、トロイメンの楽隊が歌い奏でる幻想の世界へと塗り替えられていた。




 ◇




 演劇専攻や音楽専攻の芸術科生が発表を行うための舞台、『萌芽劇場』。

 黒の王国にある屋内型劇場の中では王都にある王立劇場に次ぐ規模を誇り、本来の目的以外でも広く利用されている。

 例えばそう、今日行われたトロイメン旅楽団の公演のような、大々的な催しなどにである。


『うぅ……がんどうでずぅ……』


 涙を流しながら鼻声の念話を発するのは、亜麻髪の少女キトリーであった。

 どうやら旅楽団の唱歌と演奏に酷く心打たれたようで、演奏が終わってから劇場を出てベンチで一休みするまで、彼女はずっとこの調子で泣いていた。

 そのあまりの泣きっぷりに引いているのか、リナは毛先をくるくると弄いながら困り顔でキトリーへと語りかける。


「念話で泣くって……相変わらずキトリーは器用だねえ」


『これ、自分でやってるんじゃなくてぇ……か、かってに、こうなるんですよぉ……』


「む、それは興味深いな。涙と感情がそのまま念話に乗ってしまうということか。いや、肉声に性質を近づけている念話だから『自分が涙を流している』という事実を無意識的に出力へと反映してしまうのかもしれない」


『……クレールくん、そういうのは今ちょっと控えて下さいね』


 涙目ながらも非常に冷たい声色で念話を飛ばしてきたキトリーに、クレールはびくっと反応して即座に「すまない、気を付ける」と背筋を正す。

 なんのかんのと言いながら三人の中で最もヒエラルキーが高いのはキトリーなのである。気を付けなければ、とクレールは自省する。彼女は怒らせると怖いのだ。

 さて、当のキトリーは先ほどのやり取りで涙が引いたのか、座ったまま大きく伸びをして清々しい表情を浮かべた。


『いやぁ、感動でしたね。久々に泣いてすっきりしました』


「同意だ。楽器の演奏もさることながら、合唱の迫力が凄まじかった。人はああまで強く音を響かせられるんだな」


「歌とか頻繁に聞く機会無いからあれだけど、あの人たちめちゃめちゃ上手いんじゃないの?」


『ええ、間違いなく。すごく音程が正確でしたし、言葉一つ一つの発音も綺麗に粒立っていました。それでいてあれだけの声量と表現が出るんですから……凄いという他無いですよ』


 常より幾分か興奮気味に、そして饒舌に語るキトリーの様子を見て、クレールはふと自身の思ったことを口走る。


「キトリーは歌が好きなのか? 随分と詳しいような口ぶりだが」


『ええ、とっても! 小さなころから歌と音楽は大好きでしたし、今でも暇があれば萌芽劇場に学生公演を聞きに行ったりしてます』


 笑顔で話すキトリーに吊られ、思わずクレールも顔をほころばせる。こんなに楽しそうな彼女を見るのは初めてであった。

 恐らくは本当に音楽を愛しているのだろう。その表情はいつもよりもずっと輝いて見えて。そんなキトリーの顔と声をもっと知りたいと思ったクレールは、話を広げようと思いついた言葉を口にして。


「そうか。それだけ知識があるなら自分でも――――」


 瞬間に、クレールは己を殴りたいという衝動に駆られた。それは考えるまでも無く、あまりに無神経な発言。

 言い切る前に喉を抑え付けることが出来ても意味は無い。その問い掛けをよりにもよってキトリーに投げるなど、愚か以外の何物でもなかった。

 己の失言を悟ったクレールは目を伏せる。そんな彼の内心を知ってか知らずか、キトリーはほんの少しだけ声の落とし、苦笑いを浮かべた。


『あはは……声が出た頃は、歌ってもいたんですけど……念話で、っていうのも、ほら、味気ないですし……』


 気丈に振舞い笑い飛ばそうとした彼女の言葉はしかし、語尾に至るにつれて徐々に震え、湿り気を帯びていって。

 たった一瞬、たった一つの失言でキトリーから笑顔を奪ってしまった。その情けなさにクレールはひとり唇を噛む。そんな時に彼の背中を思い切り叩いたのは、むくれた顔のリナであった。


「ちょっとクレール、何ぼさっとしてんの? カンドーの涙で喉からっからのボク達に飲み物を買ってくるとかそういう紳士さ見せるとこだよ、ここは!」


「は? あ、いや、僕は」


「ほれほれ、とっとと行った行った! 果物系のつめたい奴、さっさと人数分買ってくるの!」


「りょ、了解した」


 突然急かされて駆け出したクレールは、数歩目でこれがリナの気遣いであったことに気付く。東門通りを駆けていく最中、リナからの念話が届いた。


『貸し一だからね。それと、あとでお説教』


 少しばかり怒気を含んだその言葉に、クレールは『……済まない』と平に謝ることしかできなかった。




 ◇




「作戦の決行は三日後。これは決定事項だ」


 迷うな、揺らぐなと自身へ言い聞かせるように。彼は仄暗い決意を抱いてそう口にした。


 三日後。全ての条件が万全となるのはその日しか無く、機を逃せば永劫次などやって来ない。躊躇など抱いている暇はなかった。

 重く、息つく音が聞こえる。長年彼の相方を務めてきた彼女――マルレーネは、彼の内心を誰よりも理解しているのだろう。

 それは、共感というよりも同調に近いのかもしれない。同じ道を同じ年月歩んできた者同士故に抱き得る、全く同一の葛藤と決意。

 彼にはマルレーネの苦悩が手に取る様に理解できた。そしてマルレーネもまた、彼が心の奥底に未だ抱いている迷いを捉えているのだろう。

 しかし、お互いそれを表に出すことはしない。自身の弱さを、相手の弱さを、互いが嫌というほど分かっているから。


「もう、戻れないのね」


 マルレーネがぽつりと零す。それは今更に過ぎる問い掛けであり、現状の確認という以外に何の意味も持ってはいない。

 故にだろうか。『彼女』はそんな意味の無い空虚な呟きを聞いて、盛大に鼻で笑った。


「なぁんですか、辛気臭いですねぇ? 今更になって怖気づいているのですか、お二人とも?」


 馬鹿にしたような口調でからからと笑うのは、そばかす交じりのあどけない少女。……否、そのような風を装っているだけの道化。

 常の如くキャスケットとオーバーオールを身に付けた彼女は、空っぽの笑顔で二人の迷いを嘲笑う。


「やっと訪れた敵討ちの好機なのですよ? 家族や仲間の無念を晴らしたくはないのですか? それともあれですか、いざ目の前に仇敵が現れる段になって急に自分達の身が可愛くなったとか?」


「黙りなさいシェルム! 私達は貴女に意見なんて求めていない……!」


「ほう、問われてもいないのに喋ることは許さないと? それはなんとも無体な話ですマルレーネ副団長! ワタクシお喋りしていないと死んでしまう性質ですのに」


 マルレーネの一喝をさらりと受け流した道化の少女シェルムは、口の端を吊り上げて含み笑う。

 その表情からは内心など欠片も読めはしない。思えば初めから彼女はそうであった。彼はシェルムと名乗る少女と出会った時のことを思い出す。

 自分達の『上司』から彼女を楽団に入れろとの指示があり、場末の酒場で落ち合った時。出会い頭に掛けられた言葉は衝撃であった。


『ほうほう、貴方がたがあの『廃都』の生き残りですか! 平静を装ってらっしゃるつもりでしょうがひしひしと伝わってきますよ、死にぞこないの腐った匂いが! あは、臭くて臭くて溜まったもんじゃないですねえ!』


 初対面の相手の過去をなんら悪びれることなく抉り倒し、挙句笑い飛ばしたシェルムに彼は、怒りを通り越して恐れすら抱いた。

 こいつは一体何を考えているのか。纏う嘲笑と狂気には一部の隙もなく、何一つ内心を覗くことが出来ない。それは今も変わらぬ彼女の特徴。


 ――――自分達とは、何かが乖離している。そして、人として重要なものが大きく欠けている。それが彼の抱くシェルムへの印象だった。


 故に共感が抱けず、恐怖が勝ってしまうのだろう。端的に、彼女と話すと不安に駆られるのだ。だからマルレーネも、シェルムを相手取ると普段の冷静さを欠いてしまう。


「立場を弁えなさいシェルム! 外様の団員風情が私達の方針に口をはさむなんて――――」


「マルレーネ、言葉が過ぎるぞ。そこまでにしておけ」


 ならばここは自分が抑えねばなるまい。彼は片手でマルレーネを制し、薄ら笑うシェルムと正面から相対する。

 ……彼女の言葉は軽薄で酷薄だが芯を外すことは絶対にない。先ほどの言葉でも、的外れの嘲笑ならばマルレーネは激昂などしなかっただろう。


「我が身可愛さ、否定は出来ない。事ここに至って怖気づいている部分も、確かにあるさ」


 図星を突かれている。そこは否定できない。だからこそ彼もまた、湧き上がる感情を止めることなど出来なかった。

 彼はマルレーネよりも幾分か性根が冷静であるだけで――――内に眠る激情は、きっと誰よりも深く昏いものなのだから。


「だがな、喜ばしいのも確かなんだよ。この時を震えるほどに待ち望んだことに嘘は無い……!」


 そうして彼は、己のどす黒い膿を洗い浚い打ち撒ける。


「奴を殺せる、そのことが何よりも嬉しくて仕方がない! ああそうさ、家族や仲間の無念を晴らしたくて晴らしたくて我慢ならないんだよ! 

 それにな、奴は誰の目から見ても死んで当然の人間だ! 罰せられるべき悪徳なんだよ! 俺たちが奴を殺す事で諸手を挙げて喜ぶ人間がどれだけいるか!

 奴を殺せば皆が幸せになれる、幸せになれるんだ! だから絶対に乗り越えられるんだよ、今俺たちの中にある馬鹿らしい程ちっぽけな恐怖なんかなァ!!」


 長年心の内に澱ませてきた狂気を目に湛え、内に抱く狂喜に笑いすら浮かべ、彼は呪詛の言葉を吠え切った。

 その様子に満足したのか、シェルムは「いいですねえ、いいですねえ!」と甲高い喜びの声で応え。


「素晴らしいエゴですよ、惚れ惚れします。――――流石は我らが団長、クラウス殿ですね」


 まるで心の籠っていない賞賛の言葉と共に、盛大な拍手を打ち鳴らした。



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