第二節 華やかに、輝かしく

第二節 一 「四日前・楽団は喝采を愛する」




 空を見上げ佇む少女は、それに気付いた次の瞬間には己の心を殺していた。


 これは忌むべき悪夢の再公演。記憶に刻まれた光景の再現。故に目を瞑ろうと耳を塞ごうとこの悲劇からは逃れられない。

 だから彼女は心を掻き消す。かつての自分が抱いていた空虚な感情を思い起こす。そうしなければきっと、少女は自分を保てなくなるから。

 視界に広がる雲一つない青天。晴れ渡る空に、少女は底知れない怖気を抱く。

 見渡せるということは『何も無い』ということだ。阻むものも無ければ目指せるものも無い。だからどこへ行こうと何をしようと何も起こらない、起こり得ない。


 ただただ虚ろが広がる場所。仮にそんな世界に立ったとして、果たして自分を保ったままで居られるだろうか。己を己として認識することが出来るだろうか。少女には想像もつかなかった。


 だからきっと。

 その地に広がる光景は、そんな空虚な世界を知るモノにしか創り得ない景色。空隙が生み出した異次元の惨劇。

 視線が下がる。否応なく。そして視界に映るのだ。二度と見たくも無いその光景が。


 街があって、人があって。しかしその場所には何一つ存在していない。宿る何かが、籠る何かが、唯の一つも感じられない。

 感情、あるいは魂とも呼ぶべき何か。街に、人に、その内に在ってしかるべきの輝きが何一つ存在しない。その痕跡すら何一つ感じられないのだ。


 ――――足元には、血で出来た絨毯が広がっているというのに。


 赤黒く濡れた人の形がそこかしこに斃れ、転がり、折り重なっている。そこへ混ざる様に、およそ人だったとは思えない肉の塊も覗いていた。

 建物の壁に描かれている紅い波濤は、描画の過程を想像するだに悍ましい前衛芸術。人体のみを画材としたその真赤い絵は、吐き気を催す鮮やかさを湛えている。


 だというのに、死臭が無い。吹く風はどこまでも渇いている。在るべき狂乱の残り香が存在しない。

 現実味が無い、とでも言うべきか。その光景は確かに目の前に在るというのに、全く別のどこかの景色を見ているようですらある。


 故に空虚。全てに価値は無くなって、全てに意味は無くなって。ただただ虚ろが広がる場所。異次元めいたその惨状は、少女の精神を狂わせるには十分で。

 目が眩む。足元がふらつく。胃の中身がせり上がるのを止められず、血だまりの上に何もかもを吐き出す。すえた臭いは嫌に鼻を突くというのに、血の匂いが感じられないその不自然。


 言い様の無い恐怖と絶望だけが、少女の心に満ちてゆく。涙は流れず、声も出ない。その二つは既に枯れ果ててしまっていた。

 体ががたがたと震え出す。己の肩を抱いて抑えても止まってはくれない。吹き出す恐れは止め処無く、少女の心身を侵してゆく。


 恐怖の根源は、言うまでも無く目の前に広がる惨状――――だけではなく。

 この光景を創った原因の一端が少女自身にあるという、逃れ得ないひとつの真実も含まれていた。


 そして、絶望に沈みゆく少女の背後から、極大の悪意がせせら笑う。


「――――貴様の罪を赦そう。余は寛大であるからなァ」


 空虚へと響き渡る悪魔の哄笑は、彼女の耳へと呪いのようにへばり付いていた。 




 ◇




 ファンファーレは高らかに。東の門から現れたのは、豪奢で大きなバンドワゴン。


 白の車体に煌くブラスの装飾が象るのは、舞い踊る妖精や獣たちの姿。幻想を描くワゴンの上では、十人の楽隊が二十の楽器を吹き鳴らす。

 数の矛盾は魔法によるもの。楽隊が奏でる壮麗な曲に混じって聞こえる自由で活発な音は、宙に舞う楽器たちが響かせているものだった。

 ワゴンの周りを舞い踊るトランペットやホルンはまるで、意志を持っているかのよう。

 十人の楽隊は調子を乱さず美麗に音を磨き上げ、姿なきブラスバンドは主張激しく己を鳴らし立て。その相反する音達はそれぞれが粒立ちながらも混ざり合い、王立学園へひとつのメッセージを響かせる。


 俺たちが来たぞ、と。その存在を大きく知らしめる十人二十楽器の大演奏は、彼らを待ち構えていた人々の心を大きく揺さぶって。


 畳みかけるように、バンドワゴンに続く馬車のキャビンから十人の軽業師が飛び出す。

 赤や黄、青や緑の鮮やかな衣装をまとった彼らは、派手に跳ね飛びくるくる回り、バンドワゴンを彩っていく。

 そして、軽業師の一人がバンドワゴンの丁度真上へと跳び上がり、そのまま宙で静止した。その軽業師――そばかす交じりの少女は、誰にはばかることなく堂々と自分達の存在を主張し叫ぶ。


「トロイメン旅楽団、ここに到着だよー! さあ、老いも若きも男も女も犬猫鳥豚魔獣も魔物も! よってらっしゃいみてらっしゃーい!」


 喝采が東門通りに満ちる。待ってましたと指笛が響く。来訪した旅楽団は王立学園の人々から万雷の歓声で迎えられる。

 そう、彼らの到来を学園中の誰もが待ち侘びていた――――わけではなかった。




 ◇




 東門通りの騒ぎを『不夜城』の一室から眺める白髪の老女は、憂いの表情を浮かべている。

 纏う深紅の外衣は、心なしか常よりもくたびれている様に見受けられた。疲れは色濃く、その心労の多寡が容易に見て取れる。

 恐らくは今も彼女、ミシュリーヌは己の恩恵を行使し続けているのだ。来たる運命から逃れるほんのわずかな可能性を、その手段を見つけるために。

 目の下の隈が酷く痛々しい。そんな中でもミシュリーヌは己の魔力を行使し続けているのか。壮年の騎士ベルトランは、己の拳を強く握り締めることしか出来なかった。


 かすれた声で、老女は零す。


「…………来て、しまったのね」


 楽団の行進とその喧騒を見下ろしながら、ミシュリーヌは力なく目を伏せた。

 彼女の姿に諦観を感じたベルトランは己の胸をどんと叩き、必要以上に大きな声で自信の言葉を語ってみせる。


「御心配召されるな学園長。いざとなれば我ら西方騎士館、命に代えても全てを守ってみせ――――」


「やめておきなさい。あのお方がどのような人間か、知らない貴方ではないでしょうベルトラン」


 その言葉にベルトランは言葉を詰まらせた。上辺だけの自信はやはり、ミシュリーヌの慧眼によって容易く破られてしまう。


 そうだ、あのお方をどうこうするなど出来るはずがない。例え西方騎士館の総員を掻き集めたとしても、何一つ抗うことなど出来はしない。

 いや、そもそもの話自分達が王立騎士団である以上、あのお方の意向に背くということ自体が不義であるのだ。

 かの君に正義など無くとも、命があれば我々は従わなければならない。その事実にベルトランは悔しさを滲ませ、さらに拳を強く握る。


「いざ、と。そんな時が来てしまえばもうどうにもならない。それを未然に防ぐ為の貴方達であり私です。

 ベルトラン。私は何も西方騎士館を信用していないわけではありません。可能性を少しでも減らすために……そして、万一『いざ』が起こってしまった時、極力被害を出さぬために。貴方達の力は必要なのです」


「……承知しております」


 そう。抗えないのならば事が起こる前に防ぐしかないのだ。それがどんなに困難であったとしても。

 だからこその綿密な警備計画。貴人の守護という大前提に加え、訪れるべくして訪れるその事態を未然に、そして迅速に潰すため、騎士館長ベルトランが数日を労して作り上げた布陣。

 王立学園に駐在する西方騎士館の騎士・従士・魔道士を総動員して構築される警備・監視体制は、学園史上最高水準と言っても過言ではないだろう。

 余程のことでもない限り、鼠の一匹すら逃がさない。例え外部に警備計画が漏れたとしても、この布陣は決して揺るがない。ベルトランはそう自負している。


 ……だが、それを以てしてもミシュリーヌの恩恵――『予知』は、大きく覆りなどしなかった。


 つい昨日その事を知り、己の無力を噛み締めたベルトランはしかし、ならばせめて為すべき責務を全力で果たさねばと自身を奮い立たせた。

 事態が起きてしまったその時には、我々こそが先だって動かなければならぬと。騎士館長としての矜持が、ベルトランにそう決意させていた。


 それに、可能性が低いとは云えども未然防止が――即ち『予知』を覆すことが――全くの不可能という訳ではない。諦めるのはまだ早いと、ベルトランは己にそう言い聞かせる。

 そして奇しくもその思いは、ミシュリーヌも同じく抱いていたようで。


「――――あと、三日。三日で『彼』はここに訪れます。最早時間は残されていない。……私が出向き、彼らを説き伏せるより他はありません」


 ミシュリーヌの言葉にベルトランは驚愕し、「な、なりません!」と反射的に叫ぶ。一介の騎士として、王立学園の主である彼女にそのような行動をさせる訳には行かなかった。


「それでは御身に危険が及びます! せめて騎士の誰かを――――」


「心配はありませんよ。私は今死ぬわけにはいかない。だから、死ぬことなんてありえない」


 極めて静かに、落ち着いて放たれた言葉はまるで匹夫が抱く蛮勇のそれであった。

 己への過信は碌な結果を齎さない。数多くの騎士を見てきたベルトランはその事を誰よりも理解しており、故にミシュリーヌの言葉を素直に飲み込むことなど出来ない。

 いくら学園の頂点たる魔法巧者であったとしてもその行動は余りに迂闊、危険過ぎると、ベルトランは強くミシュリーヌを諌める。


「お止め下さい学園長! 貴女の両肩には王立学園の全てが乗っている! だというのにそのような蛮行、許されるべきでは――――」


「ベルトラン騎士館長」


 ミシュリーヌがそう呼んだ瞬間――――ベルトランの首が、音も無くぼとりと床へ落ちた。


 鮮血が深紅の絨毯に染みてゆく。痛みすら感じずベルトランは、サーコートを着た首の無い己の体を見ることとなる。

 なぜ、どうして、このようなことを。疑問は意識と共に死の海へと溶けてゆく。既に思考はまともに回らなくなっていた。

 このようなところで俺は死ぬのか。訳も分からずに。敬愛する学園長に刃を向けられて。……その無念すら霧消し掛けた、その瞬間。


「分かったかしら」とミシュリーヌが一つ、手を叩くと。――――全ては『無かったこと』となった。


 ベルトランは弾かれたように『目を覚ます』。反射的に彼は己の首元を触った。……傷一つなく繋がっている。


 頭に残る酩酊感に似た気持ち悪さは、まるで悪夢を見た後の様。しかしながら己の血の匂いはこれ以上無くはっきりと思い出せる。その感覚にベルトランは怖気を抱くと共に、ミシュリーヌが行使したであろう魔法に思い至った。


 精神魔法、幻覚。しかしながらあれほど明瞭な『死』を感じさせる幻覚など、並の人間では為しようが無いはずなのだ。


 魔法は事象の想像を要する。斬首の幻覚など、それを味わったものにしか――――と考えを奔らせようとしたベルトランに、ミシュリーヌはあくまで穏やかな調子を崩さず、柔らかに笑む。


「知る限りでは、二人ほどかしらね」


 その言葉の意味が一瞬では理解できず、ベルトランは呆けた表情で次の言葉を待つしか無く。


「――――私を殺せる人間なんて、そうは居ないのよ」


 零したミシュリーヌの声色は寂しげで、しかしどこか悍ましいものを感じさせるもので。ベルトランはただただ、黙することしか出来なかった。






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