第一節 五 「五日前・迷子は別れを笑顔で迎える」




「すごいんですね、王立学園って……」


 花壇の脇にあるベンチに腰掛けてそう言ったツィスカは、小ぶりな林檎を一口頬張る。「あまい」という言葉は自然と口を突いて出たようだった。

 萌芽の美術館、その隣にある『萌芽劇場』、大図書館などなど。学園有数の大施設が並ぶ東門通りの様子に、ツィスカは目を見開いて驚愕していた。


 一通りのものを見物し終え、通りの出店を冷やかした後。ツィスカがちらちらと林檎売りの屋台を気にしていることを察したリナが遠慮する彼女へ無理矢理林檎を買い与えて、今は一息の休憩時間。


「ま、黒の王国第二の都市は伊達じゃないってワケだよ!」


 何故かふんぞり返るリナの様子に「なぜ君がえばるんだ」とクレールが零す。

 そのやり取りにツィスカは思わず吹き出しそうになり、しかし口の中の林檎を出すわけにはいくまいと片手で唇をしっかり覆う。堪え切れずか「ぷふぇ」と間の抜けた声がした。 


「だ、大丈夫か?」とツィスカの背中をさするクレール。「だ、だいじょぶです」と返すツィスカは、心なしか涙目になっていた。


「うむうむ、緊張感も抜けてきたみたいで何よりだね! ツィスカ、今楽しいかな?」


「けほっ……あ、はい、楽しいです。知らないところとか、見たことないところとか……すごい、新鮮、です」


 むせながらたどたどしく答えたツィスカに、リナは「うむ、よきかなよきかな!」と満足げに二度ほど頷く。その点に関してはクレールも同意見であった。

 リナの思い付きから急きょ始まった『王立学園巡り』。出足では緊張し切ったツィスカの心を解すのに時間が掛かったが、今はこのとおり彼女もこちらの雰囲気に馴染んでくれている。


 リナの気遣いのおかげだ、とクレールは思う。自分も頑張ったつもりであったが、彼女の明るい性格と気遣い屋な部分が強く生きた結果、今のツィスカの態度があるのだろう。


「さってっとー、次はどこ行こっかなぁ……北の教会とかかな。今日って確か聖歌隊の練習日だし」


「聖歌隊……歌、ですか。ちょっと、気になります」


「おお、好感触! そんじゃあ次は教会に行くとしますか。ね、クレール?」


「む、そうだな……」


 クレールは考える。このままここに留まっていればあるいは、先日の『宣伝隊長』の軽業が見られるかもしれない。あれならば見世物としてかなり上等な部類だろう。ツィスカも楽しめるに違いないと考えた。


 ……しかしながら、そういえば、と。


 よくよく考えてみずとも、あの軽業師が今この場に現れる可能性など皆無であることに彼は気付く。……ならば次は北門通りの教会で構わないだろう。


「聖約教会までは少し歩く。今まで歩き通しだったから、ゆっくり休憩してから向かおう」


「よぉし、そんじゃあ張り切って休憩! 小休止! ってわけでボクもちょっと林檎食べたくなってきたし買ってくるね! クレールは?」


「僕は構わない。ここで待っている」


「そんじゃあひとっ走りいってきまーすっ!」


 言うや否や脱兎のごとく走りだし、人通りの多い東門をするすると縫うように駆けていくリナ。

 その後ろ姿を見守るクレールは「元気な事だ」と九の感心と一の呆れを含ませて呟く。それを耳にしてか「あ、あの」とツィスカが恐る恐ると声を上げた。


「お二人って本当に、その、特別な関係じゃないん、ですか?」


「む? ああ、先ほど言っていたことか」と返すクレール。しかしながら、彼はツィスカの問いへの答えを持ち合わせてはいなかった。代わりに、という訳ではないが彼は己の本心をツィスカへと伝える。


「その、恥ずかしい話なのかもしれないが、僕にはその『特別な関係』というのがよく分からない。君にこれを尋ねるのも恥ずかしい話なんだろうが……どういう意味なんだろうか?」


「うえぇ!? えと、あの、その……それ、本気で、聞いてます、か? からかってるとかじゃあ」


「済まない、本心だ。あまり声に出して言うことでもないんだが、僕はかなり世事に疎い。こちらに来たての異界人だからな」


「う、あ、そう、なんですね……それじゃあ、分からないのも、仕方ないの、かも……?」


 顔を真っ赤にして語尾を上げるツィスカ。緊張がぶり返したのだろうか。いや、緊張とは別の色合いも感じるが。

 などとクレールが考えを回している間、ツィスカはもごもごと口を動かして言いづらそうにしている。……が、やがて何かしらの覚悟を決めたのか、少女は長い前髪越しにじっとクレールを見つめて。


「つまり、ですね、特別な関係っていうのは、こ――――――」


「こーそくすらいだー!」


 という掛け声とともに顔面向けて飛来した赤い塊に、クレールは機敏に反応して片手でそれを受け止める。運よく掴んだその赤いものは、瑞々しい小ぶりな林檎であった。


「ゆ、油断大敵なのだよクレール君! あっはっはぁ」と投げた張本人、リナが引きつった笑いを見せる。彼女が見せた突飛な行動の意図がいまいち掴めなかったクレールは首を傾げてぽつりと、つい先ほどと同じような言葉を零した。


「……なんだろう。リナはたまによく分からないな」




 ◇




 夕日を背にそびえる白亜の城は今日も勇壮な姿を誇り、眼下に広がる王立学園を見守っていた。


 かつて街の領主の居城であったその城郭は建造以降一度たりとも損壊した記録が無いことから、暗き夜を迎えぬ城『不夜城』という異名が広く知れ渡っている。

 ちなみに、王立学園における城の正式名称は『学園管理棟』である。この実務的な呼称が『不夜城』という名を通称足らしめる一助となっているのは、疑いようが無い。


 黄昏に縁取られた巨大な白は陰にありながらもどこか目映く、その堂々たる姿に少女ツィスカは、前髪に隠れたつぶらな瞳をきらきらと輝かせていた。


「すごい、きれい、です」


 眼鏡の奥の輝く瞳で夕日と城を見つめるツィスカの表情に、クレールとリナは満足げに笑う。


 様々な場所を見て回った王立学園巡り。その最後を締め括るならここでなければ。そんな二人の判断は間違っていなかったのだろう。

 茜色の光景に見惚れるツィスカの様子から、クレールは自身が初めてこの光景を見た時のことを思い出す。あの時の胸に迫るような感動を、彼女も今味わっているのだろうか。そう思うと少し羨ましく思う反面、なぜか誇らしくもあった。


 そうしてしばしの無言が続く中、ツィスカがぽそりと言葉を零す。


「……あたし、旅を、しているんです」


 たどたどしいその言葉に、クレールとリナは黙して聞き入る。


「元々住んでたところに、住めなくなって、仕方なく、なんですけど。結構長いこと、旅してて。

 赤も、白も、黒も、一回は行ったこと、あるんです。両手じゃ数えきれないくらいに、いろんな街に、行きました」


 ゆっくりと日が傾き、白亜の城の陰影は徐々にその表情を変えていく。帳が降りるまであと幾ばくか、しかして不夜城はその姿を欠片も陰らせない。

 何処へも移ろわず何者にもまつろわぬ不夜城の姿は、ツィスカの揺れる瞳にはどのように映っているのだろうか。


「でも、あたし、行ったことある街のこと、あんまり覚えてなくて。用事があるとき以外、外歩いたりしなかった、から。

 ……それってちょっとさみしいなって、思って。だから思い切って、飛び出して、みたんです」


 ツィスカは目を伏せ、長い前髪がさらりと揺れる。その声は何かに怯えるかのように震えていて。


「けど、人ごみが凄くて、怖くて、迷って……喋るの苦手だから、他の人に道聞いたりも、出来なくって……楽しいことより、不安の方が、強くって。

 クラウスさんとかに、迷惑かけてるって思うと、それも気になって……帰らなきゃって、思っちゃって。外になんか出なきゃよかった、って、落ち込んで、自分が嫌になって……でも」


 独白には後悔が滲んでいた。ツィスカはきっと臆病で怖がりで、それ以上に優しいのだ。

 そんな彼女が振り絞った勇気はなけなしのものだったのだろう。吹けば飛ぶような弱弱しいものだったのかもしれない。

 けれど、そんな小さな熱と光を消すまいと、守ろうとした人が居た。ツィスカのか弱く小さな手を、少しばかり強引に引いた人が。


「今は思います……勇気出して、よかった」


「楽しかった?」


 リナの問いに、ツィスカは大きく頷いた。


「ならボクとしても万々歳だ。案内した甲斐があったってもんだね」


「はい、一生の思い出に、します……」


「おおっと、それはボク的にはちょーっと困るなあ」


 おどけたように肩をすくめて、リナは悪戯っぽい笑みを浮かべる。首を傾げるツィスカに、彼女は努めて明るく言葉を紡ぐ。


「こんなもんはただのきっかけ。後生大事に抱えとくもんじゃないってね。外に出て楽しいって思ったんなら、それを過去にするんじゃなくて次に生かさなきゃだよ。

 一歩目を踏み出せたなら、二歩目からは案外簡単だからさ」


「リナ、さん……」


「さん付けは要らないよん。そーいうのくすぐったいからさ」


 あはは、と朗らかに笑ったリナは、ツィスカの頭を優しく撫でる。「頑張ったんだね、ツィスカは。今日の一歩は無駄になんてならないよ」と、黒髪の少女は目を細める。

 一瞬だけびっくりしたような表情を浮かべたツィスカは、次の瞬間には少しばかり目を潤ませて「……はい、がんばりました」と消え入りそうに、しかし芯を感じさせる言葉を零した。


 しばらく撫でられるがままであったツィスカは、リナが手を放すとほんの少し名残惜しそうに手を見つめて……ふと思い出したかのようにクレールの方を向いた。


「あ、あの、クレールさんも、ありがとうございました……」


「僕も呼びつけで構わない。礼も不要だ。リナと比べてさほど君に何かをしてあげられたとも思わない」


「そんなこと、ないです。最初の時、助けてくれました。それに、人ごみから、かばってくれたりとか、してくれてました」 


 優しいツィスカの言葉にクレールは苦笑する。自分に出来たのは最低限の気遣いだけで、結局のところ大したことは出来ていないというのに。

 結局のところ、彼女の背を押したのはリナである。だから自分には礼など要らない。クレールが改めてその思いを口にしようとした時、ぱちん、と軽く額を叩かれた。


「クレール、そーいうのは謙虚じゃなくて卑屈っていうの。『ありがとう』って言われたら『どういたしまして』でいいんだよ」


 おどけ気味に、しかしながらほんの少しの真剣みを滲ませたリナの言葉にクレールは二、三度瞬く。

 言われて彼はふと思い出した。騎士科でアンブルに初めて会った際、感謝の言葉を跳ねのけられたあの時のもやもやとした寂しい感情を。

 なるほど確かに、あれは良く無いものだ。味わうのも味わわせるのも、あまり誉められたものではないな。思い直したクレールは「ツィスカ」と改めて少女の名を呼ぶ。


「どういたしまして」


 と深く頭を下げたクレールに、ツィスカはどもりながら「ええと、その。本当に、ありがとうございました」と丁寧に礼を返した。


「さてさて、お互いに礼! ってやったところで今日はお開きかなぁ?」


 黒い髪を指で弄いながら、リナはすっと横目に何かを見る。視線を追ってみれば、遠めにいつぞやの白金色の髪が見えた。恐らくリナが恩恵魔法を行使して彼、クラウスをこの場所に導いたのだろう。

 ツィスカもまた長身のその青年の姿を視界に捉えたようで、後ろめたそうな表情で「クラウス、さん……」と彼の名を漏らしていた。


「お迎えが来たみたいだね。そんじゃあツィスカ、ボク達はこれで失礼するよ」


「え、もう行っちゃうん、ですか……?」


 途端に寂しそうな顔を見せるツィスカの頭を、リナはもう一度優しく撫でる。


「しばらく学園に居るんでしょ? 近いうちにおねーさん、また会いに行っちゃうからさ。今はお別れ」


「……また会えるん、ですか?」


「会おうと思えばいくらでもね。それより、あのイケメンさんにはちゃんと謝っとくんだよ?」


 そういって悪戯っぽい笑みを浮かべたリナは、ツィスカの肩を掴んでくるりと彼女の体を回し、ぽんと背中を押した。

 戸惑いながら顔だけをリナの方へ向けるツィスカ。黒髪を弄いながら軽く片手を振って「またね、ばいばーい」と言うリナは、どこまでもお気楽な調子を崩さない。

 それがあるいは、彼女なりの気遣いなのだろう。後ろ髪引かれるツィスカの気持ちを少しでも軽くするための心配りか。


 達者な気の回し方をするリナに感心しつつ、クレールもまた考える。自分から今のツィスカに掛けるべき言葉は、どういうものなのか。


「ツィスカ」と、気付けばクレールは彼女を呼び止めていた。


 振り返るツィスカ。前髪と眼鏡の奥に輝くその瞳を見て『ああ、やはり』とクレールは心の中である一つの確信を抱き。

 同時に、自分が言うべき言葉を見つけることが出来た。優しい笑みを浮かべたクレールは、端的にその言葉を放つ。


「楽しみにしている」


 一瞬だけ、ツィスカの表情が驚愕に染まる。不意を突かれたように動きを止めた彼女はしかし、次の瞬間には笑顔となっていた。

 クレールの言葉の意味を余すことなく理解したのであろうツィスカは、今日一番かもしれないほどに元気よく。


「――――はい……!」


 と返事をして前へと向き直り、クラウスの方へと早足で駆けて行った。

 その後ろ姿を見守るクレールの横から、リナが小さな声で「……何のこと?」と問う。恐らく彼女は気付いていないのだろう。

 ならば別段、こちらから言うことでもない。ツィスカが自分から言わなかったことを敢えて晒す気にはなれなかった。故にクレールははぐらかす。


「さて、な」


「なにそれ意味深! 気になる気になる、リナちゃんにも教えてよー!」


「明日になれば分かる……かもしれないな」


 言い合いながら二人は茜色の街を歩いていく。遠い空の彼方から、夜の足音が聞こえ始めていた。




 ◇




 己の執務室にて書類をがさごそと漁るのは、サーコートを纏ったままの教導騎士であった。


「あった、これか……!」


 書類が雑多に積まれた机の上。掘り起こした書類の中にその手紙を見つけ、ベルトランはほっと安堵する。納期までに間に合うならば、とりあえずは一安心である。

 武器屋のバルタザールとは旧知の仲とはいえ、あれだけの数の剣の手入れを頼むとなると流石に気が引けた。しかしながら万一の不備があってはいけないと、仕事が早く腕の立つ彼に依頼する他無かったのだ。


 とにかく時間が無かった。その『知らせ』を聞いたのは今日より七日ほど前の話であり、そこから剣の整備を含む全ての段取りを整えるのは骨が折れるどころの騒ぎではなかった。


 襲い来る疲労感は尋常ではない。今すぐに机に突っ伏して眠ってしまいたい衝動に駆られるが、ベルトランはその誘惑を気合で振り切る。


「まだ、終っとらんぞ」


 自らに言い聞かせるように、ベルトランは改めて机に向かう。カップに注がれた途轍もなく濃いコーヒーを一口啜り、その強烈な苦味によって自身に喝を入れた。


 武器の整備に目途が付いた段階で、装備の段取りはほぼ完璧と言って良い。来たる日までに、剣や鎧の類は新品同様の輝きを取り戻すことだろう。

 使用の予定があるから手入れを行ったのではない。……否が応にも『見られてしまう』が故に状態を仕上げておく必要があったのだ。万一汚れなど目に付けば、何が起こるかわからない。


「その心配も、もう必要ない」


 バルタザールが納期を遅らせることなど考えられない。その点は何一つ疑いようのない事実である。

 となればあとは、来たる日においての騎士団員配置の確認か。ベルトランは机に築かれた書類の山から数枚一組となっている紙束を引っ張り出した。


 描かれているのは、王立学園の全体地図。その上から朱色で丸印と数字が点々と書かれている。二枚目、三枚目、それ以降も同様の――書かれてる印の位置や数字の差異はあれども――朱入れされた地図であった。


「穴は、隙は無いか……」


 呟きながら、団員配置図をじっくりと吟味していくベルトラン。厄介なのは、当日のことが予測し辛いという点だ。

 旅楽団側からは事前に『この日にこの場所を使わせて貰いたい』という申請の連絡が来ていた為、いつどのあたりで公演が行われるのかは把握できている。

 しかしながら、そもそもの話、『来たる日』が具体的に何日後なのかが分からない。それが問題であった。

 はっきりとした日時が分からない以上、団員を配する機も分からなければ重点的に警備しなければならない場所も判然としない。だからこそ複数の警備計画が必要なのであった。


 せめてはっきりとした日付さえ分かっていれば。……さしもの学園長の恩恵魔法と言えど、万能ではないと言うことなのだろう。


「む、いかんいかん……!」


 良からぬ方向に逸れかけた思考を強引に引き戻すため、ベルトランは己の頬を引っ叩いた。学園長は十二分に責を務めていらっしゃる。これ以上は我等の領分だ。

 痛みで幾分か晴れた気分でもって、再び地図へと視線を落とす。続きを気張らねば、と張り切って集中したその時。


「西側が幾分か甘いように感じるが」


「む? ああ、中央広場案か。この配置の場合、有事には西門周辺に通行制限の結界魔法が敷かれる。人員は最低限で構わんのだ」


「結界……なぜ西だけにそんなことを」


「何かあった時、極力帝国側へ人を流したくはないからな。大きな声では言えんが、ある種王国の恥部を晒すようなもの――――」


 慌てて言葉を切り、背後へとゆっくり顔を向ける。そこには、琥珀の瞳と金髪が目を引くひとりの少女が立っていた。

 小憎たらしい仏頂面でベルトランと視線を交錯させた少女アンブルは、彼のその呆然とした表情を見て「何だ」と眉をひそめる。感情の波は遅れてやってきた。


「――――お前、アンブル!? 何時からそこに居た!?」


「つい先ほどだ。コーヒーを煽ったあたりだったか」


「言え! それ以前にノックをしろ!」


「言ったしノックもした。反応しなかったのはそっちだろうが」


 アンブルは不機嫌にそう言い放つと、広げられた地図の上へ向けて紙の束を叩き付けた。ばさり、と乱暴な音が響く。


「『騎士礼節』の講義資料の写し、百部。……強引に雑用を頼んでおいて随分な言い草をするんだな、ベルトラン教導官殿は」


「す、すまんすまん。助かった」


 そういえば、とベルトランは思い出す。休講中で人の少ない騎士科の訓練場でひとり汗を流していたアンブルに、資料の写しを頼んでいたのだった。

 彼女は休日でも自主訓練をしに騎士科を訪れることが多い。執務室へ来る道中、期待を込めてちらりと訓練場の様子を覗いて正解だった。おかげでひとつ、面倒な仕事が片付いた。

 日頃から生意気な言動の多いアンブルであるが、意外な事に彼女は教員陣の指示や指導には絶対に逆らわない。普段の態度や協調性の無さを度外視するなら、彼女は十分に優等生なのである。

 ただ、その態度や協調性があまりにあまりで頂けないのもまた事実ではあるが。


「暇と金があれば、今度何か差し入れてやろう」


「話半分に聞いておく。金の方は知らんが暇なら当分無いだろうからな、騎士館長殿は」


 教導騎士ベルトランにはもう一つの顔がある。……王立騎士団西方騎士館長。国境中部周辺の守護を司る騎士の筆頭である。


 もっとも、ベルトラン自身は王立学園内でそう呼ばれることはあまり好んではいない。教え子らの前ではあくまで自分は『教導騎士』なのだという自覚があるからだった。

 故に年端もいかない小娘に騎士館長などと呼ばれるとどうも居心地が悪く、苦虫をかみつぶしたような顔を浮かべてしまう。


「アンブル、ここでその呼び名はやめろと言ってるだろう。堅っ苦しくて敵わん」


「は、机の上のそれは騎士館長の仕事だろうに」


「それでも俺は教導騎士だ。少なくともお前たちの前ではな」


 そう言ってベルトランは受け取った資料の束を脇へと置き、団員の配置図を裏返す。……正真正銘の機密文書である。生徒にいつまでも見せていていいものではなかった。

 とはいえ配置確認の仕事は早急に終わらせねばならない。ベルトランは「他に要件はあるか? 無ければ済まんが席を外してくれ、少し忙しいんだ」とアンブルに退出を促した。


 すると彼女は琥珀の視線を少しばかり伏せ、何かを悩むようなそぶりを見せる。珍しい反応だ、とベルトランは僅かに瞠目した。


「……ひとつ、聞こうか聞くまいか迷っている。秘されているままの方が精神衛生上良いのか、とも思うんだがな」


 やけに持って回った言い方をするアンブルに、ベルトランは首をひねる。


「気になるものはやはり気になる。答えなくてもいいが問うだけ問わせてほしい」


 ……結果から言うならば、アンブルにはその問いを吐かせるべきでなかったし、ベルトランはその問いを聞くべきではなかった。


 複数の警備計画。王国の恥部という表現。複数人に配布するのであろう『騎士礼節』講義の資料。それらの材料からアンブルが辿り着いたひとつの結論。勘と判断力に優れた彼女の推論が、大きく違っていることなど万一にも有り得ず。

 腹芸の苦手なベルトランが予想外の方向から核心に迫る言葉を投げられ、表情を崩さないということもまた有り得ない。


 故にその問いは、ある種致命的な意味を持っていたのだった。


「――――王が、来るのか」




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