第二章 その手は黄昏色に届かない

序節 「落日ノ二・奇想:断章」




「つまらんなあ、貴様はァ」


 全ては戯れ。全ては虚ろ。彼の言葉には何一つ誠意など籠ってはいない。


 何よりも不遜に、尊大に、思うがままに人を弄うその姿は、児戯に耽る子供と何一つ変わらない。

 言い逃れできぬほどに愚かなのである。それは誰もが知る公然の事実であるが故に、彼の権威と暴威が隔絶した領域にある証左でもある。

 深淵の色をした髪が揺れる。白黒の反転した人外の瞳が喜悦を示し、裂けんばかりの口は三日月を描いた。その嗤いは特異なまでに悍ましく、皆を震え上がらせるには十二分。


「余の為の貴様等であろうがよ。余の享楽の糧とならずして何になる」


 豪奢なローブから延びるのは、幽鬼が如く真白い腕。白蛇を思わせる禍々しいその手は、浅黒い首へと噛み付くように掴み掛る。


 抵抗など出来ない。下手に動けばその瞬間に命が散ることになる。この男の眼前に立つとはつまりそういうことだ。玩具になることを覚悟せねばならない。

 弄われ弄ばれ、それに耐えた上でなければ会話にすらならないのだ。間違っても彼の意に反してはならない。機嫌を損ねるなど以ての外。

 かの王は常人ではないのだ。人民全ての生殺与奪を握ると言っても過言でなく、そのような怪物に対して牙を剥くなど愚の骨頂という他無い。


「申し開きがあるのならば聞こうではないか。余は寛大であるからなァ?」


「……ただ、お許しを戴きたく」


 首を締め上げられながらも、消え入るようなかすれ声で灰髪の少年は言う。敬意を示すことを忘れずに。

 いくら相手が人外の狂人であるといえど、立場ある者には違いない。それに、かの王は己への不敬に対して獣以上の嗅覚を持っている。

 下手な嘘など通じない。気持ちを偽れば見抜かれる。王としての彼の矜持はこの世の何よりも高く、故に己を敬わぬ者を、己を畏れぬ者を彼は決して許しはしない。


 だからこそ息を詰まらせながらも、少年は出来得る限りの礼節で以て王へと接する。

 その誠意が伝わったのか、僅かばかり表情を緩ませた王は、穏やかな口調で以て平然と告げる。


「なれば貴様、何を差し出す?」


 柔和な表情に反して、その言葉にはやはりと言うべきか、慈悲の一欠片も存在してはいなかった。


「目か耳か、手か脚かァ? 許しを得たければ相応の価値を差し出す必要があろう? さあ選べ、選べよォ」


 反転した白黒の瞳を大きく見開き、悪魔が如き声色で叫び嗤う。喜悦に染まる白貌はただただ悍ましい。

 これが、自分と同じ人間だというのか。驚愕と共に少なくない嫌悪を少年は抱いた、抱いてしまった。……それ故であろうか。

 突如として笑うことを止めた王は、零下の表情で以て少年の瞳を射抜き、そして。


「――――答えが遅いぞ」


 ――――瞬間、独りでに少年の腕が根本から捻じ切れた。ぼとりと落ちる浅黒い右の腕。少年はその尋常ならざる激痛に声ならぬ叫びを上げる。


 目を見開き苦痛に喘ぐ少年の姿を受け、深淵の王は再び表情を喜色に歪めた。物言いたげな少年の視線に応えるように、王は高らかに叫ぶ。


「千金に値する余の時間を奪ったのだ。その対価として腕一本……大いに安かろうがよ! ああ、余の慈悲深きは比するもの無きよなァ、あはははははァ――――!」


 首を絞める手を幾ばくも緩めることなく、深淵の王は哄笑を上げる。響く呵々大笑はどこまでも他者を震え上がらせ、大衆に恐怖を植え付ける。


 恐怖の権化、怠惰の支配者。かの王は愚かであり傲岸であり傍若無人。暗君暴君の類であることに疑いなど無く、にも拘らず王座に君臨し続ける超常の存在。

 深淵の君、謳われし異名は『百年王』。其の名の通り百を超える歳月の間、王として在り続ける真の怪物。その王道を阻む者など居はしない。


「さあ選べ、差し出すものを選ぶのだ。余の機嫌が良い内になァ、くはは、あはははァ――――!」


 人を越えたる深淵の王は、世の嘲笑を以て独我の非道を悠々と歩む。

 誰彼にも『あれを阻め』と願われながら、誰彼をも彼の眼前に現れることなど無く。きっとかの王の覇道は、この先も果て無く続くのであろう。人々に恐怖と嫌悪を植え付けながらも、憚ることなく堂々と。


 しかしながら少年は、クレールは、諦める訳にはいかなかった。友を護る為、喜悦に歪み大笑する百年王を必ずや説き伏せねばならない。

 それがどれ程の苦難であろうとも、止まることなど出来はしないのだ。確たる決意は、堅く心に宿っていた。



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