第二節 七 「歩き出すもの」(一章・終)




 見上げれば青。雲一つない晴天に、クレールの表情が柔らかく崩れる。目映い朝日に灰色の目が細まった。

 薄緑屋根の『旅烏の梢亭』は、朝露と陽の光を受けてか心なしきらめいているようにも見える。

 今日は、七日に一度訪れる学園の休日。講義も何もない休息の日だというのに、クレールは朝から身なりを整え、背筋を伸ばしている。その顔からは、内心のやる気が漏れ出していた。


「さて、忙しくなりそうだ」


 呟いたクレールは、鞄を片手に足取り軽く歩き出す。


 買わなければいけないものがある。行かなければいけないところもある。手間もお金も惜しむつもりは無い。例のギルド依頼で得た報酬は全て使い切るつもりであった。

 まずは何処へ向かおうか。考えながら歩くクレールのふくらはぎに、つんつんと軽い感触が伝わってきた。視線を下へ遣ると、そこには。


「何だ、君か」


 すまし顔の黒狼が、クレールの顔を見上げて軽くがう、と吠えた。その場にしゃがみこみ頭から背にかけてを撫でてやれば、黒狼は目を細めて体を震わせる。


「部屋に居ないと思ったら、表に出ていたのか。散歩でもしていたのかな」


 艶やかな黒を撫でながらクレールが問うと、黒狼は短く鼻を鳴らした。違うのか、とクレールは首を傾げる。

 ならばなぜ、と考えようとしたクレールに、黒狼は鼻先をしゃくるような動きで応えた。それは歩みを促しているような仕草に見えて、クレールはそういうことかとひとつ頷く。


「一緒に行きたい、と?」


 そうクレールが言葉に出すと、黒狼は急に不機嫌を露わに唸り始めた。しまいには体ごとどん、とクレールの足に体当たりを掛ける始末。

 急な衝撃を受け転びそうになったクレールは、突然何をと口に出そうとして――――すぐに言葉を呑み込んだ。黒曜の瞳から滲む、その感情を読み取ったからだ。


 なるほどどうやら、彼女は随分とデリケートな性格をしているようだ。クレールは何とはなしにおかしみを感じ、こっそりと含み笑う。

 しかし、潜めたつもりのその笑いはしっかりと黒狼の耳に届いていたようで、クレールはもう一度体当たりを喰らう。やはりまた、その衝撃に転びそうになった。


「あはは、済まない。少しからかい過ぎたみたいだ」


 そう言ってクレールは黒狼をまたひと撫でし、毛並と機嫌を整える。黒狼が落ち着いたのを見て、クレールはさて、と呟いた。


「丁度良かった、君にも用事があったんだ。……一緒に行こうか、エクリプス」


 名を呼ばれた黒狼――エクリプスは、軽やかな声色で短く吠える。歩き出すクレールの真横に付いた彼女は、どこか誇らしげに胸を張っていた。


 そして、ふと。こうして彼女と並んで歩いていることが、何故だか奇跡のように思えて。クレールはまた、青い空を仰ぎ見る。

 真白の陽の差す、果ての見えない広大な空。湧き上がるのは希望と憧憬、そして幾ばくかの寂寥。

 僕はまだ何も思い出せていないし、何も知らない。だから思い出したいと思うし、知りたいと願う。きっとそれが、成長することに繋がるから。

 色を思い出すために、彩りを知るために、もっともっと前に進まなければ。決意するクレールはしかし、その前に、と少しだけ気分を楽にして。


「まずは、用事を済ませるとしよう」


 灰色の少年は一歩を踏み出す。喜んでくれるといいが、という期待と不安の両方を抱きながら。




 ◇




 ダイニングの扉を開けると、トマトの香りが鼻を突いた。どうやら夕飯の支度の最中であったようだ。

 思いのほか時間が掛かってしまったな、とクレールは反省しつつ「ただいま」と声を上げる。連れ立っていたエクリプスは、ダイニングの扉の脇――彼女の定位置だ――に座り込んだ。


 炊事場のカウンターからひょっこりと顔を出したのは、エプロン姿のキトリーである。


『おかえりなさい、クレール君。エクリプスも、おかえりなさい。……随分遅かったですね?』


「済まない、色々なところを回っていたんだ。予想外に時間が掛かってしまった」


「いろんなところって?」と問うたのは、いつものテーブル席で何かの資料をぱらぱらとめくっているリナであった。

 その正面には、クレールに一瞥すらくれず、マグに満たしたホットミルクをちびちびと啜るアンブルの姿もある。


「テオのところと、ゼナイド女史の研究室に、バルタザールさんの武器屋だな。あと、一般事務棟に届け物を頼みに行った」


「届け物? 提出物とかそういう系の奴?」


「いや違う。どちらかと言えば、こういった系統のものだ」


 言いつつクレールは、手に持っていた木の箱をゆっくりとテーブルの上に置く。「なになに?」とリナが身を乗り出して興味を示した。ホットミルクに集中していたアンブルもまた、置かれた木箱へと視線を移した。

 いつのまにかキッチンから出ていたキトリーも、『なんだか良い匂いがします』とテーブルの傍に寄ってくる。夕飯の支度をしていたのにの匂いを嗅ぎつけたのか、とクレールは少し驚きつつ。


 皆の視線が集まったところで、木箱の蓋をぱかりと空ける。中から覗いたのは、円の中に敷き詰められた真赤の果実達であった。

 焼き菓子に似たパートシュクレという生地の上に、新鮮な苺をふんだんに乗せた菓子、苺のタルト。中々に値の張ったそのケーキを目にして、いの一番に声を上げたのはキトリーであった。


『うわあ……! とってもおいしそうです!』


「なにこれ、なんかのお祝い?」


「お礼、のつもりだ。今日までありがとうと、今日からもよろしくという意味も込めつつの」


「ほっほーう、ボク達全員にってことだよね? なにさなにさ、嬉しいことしてくれんじゃん!」


 立ち上がってばんばんとクレールの肩を叩くリナ。ケーキどうこうというより、これを贈った気持ちに対して彼女は喜んでくれているようだった。

 笑顔で「ありがとね!」と言ってくれるリナや、きらきらと目を輝かせてタルトに見入るキトリーを見ていて、クレールは自分の選んだものが間違いではなかったことを実感する。

 これだけ喜んでくれるならば、悩んだ甲斐もあったものだ。そう思いほっとしたクレールに冷や水を浴びせたのは、やはりと言うべきかアンブルであった。


「私は要らんぞ。受け取る義理が無い」


 マグをテーブルに置いて、アンブルは冷たくそう突っ撥ねる。


「森の庭の一件で、お前への借りは余すところなく返し終えた筈だ。今更余計な恩など願い下げ――――」


「アンブル」


 そう名前を呼んで言葉を遮るクレール。アンブルの言い分も理解は出来る。元々の彼女のスタンスからしてそうだったのだ。

 勝手に恩を作るなと、貸し借りに縛られるのはごめんだと、アンブルは言葉と態度に出し続けている。それを間違った考えだとは思わないし、否定するつもりもクレールにはさらさら無かった。


 ただ、そちらがそこまで言うならば、こっちにだって言い分がある。僕は君に何かを貸した記憶など無いのだから。そんな気持ちを込めて、少し皮肉も混ぜながら、クレールは言う。



「こちらの身に覚えのない借りを勝手に返さないでほしい。不愉快だ……とまでは言わないが、少し困ってしまう」



 いつかの言葉の鸚鵡返し。それが意外だったのか、アンブルは少しだけ目を見開いた後、不機嫌そうに顔を歪めた。


「…………ち、生意気だぞ、新参」


 そう言ってそっぽを向き、またマグを手にしてホットミルクを口にし始めるアンブル。マグを傾け過ぎたのか「熱っ」と小さな声が漏れた。

 クレールとアンブルのやりとりに、首を傾げるリナとキトリー。「何の話?」と問うリナに「こちらの話だ」とクレールは返す。何にせよ、これでアンブルも礼を受け取ってくれるだろう。


 気がつけば、クレールの周りには寮生三人がちょうど集まっていた。いい機会だとクレールは、少しばかり居住まいを正した。


「今の僕には、この程度のことしか出来ない」


 そう。結局のところ今回も大したことはしていないのだ。皆のおかげで得た報酬を皆に返しているだけの話。けれども、だからこそと、クレールは己の想いをこうして吐露する。


「いつか本当の意味で、恩を返したいと思っている。これはその宣誓代わりだと思ってほしい」


 このことだけは、絶対に伝えたかった。周りに甘えて恩を忘れることが無いように、誰かに聞いていて欲しかった。

 初心を忘れないようにするための宣誓。そんな気持ちも結局は我儘に過ぎないのかもしれない。それでも、とクレールは本心を誓いとして言葉にした。逃げないために。忘れないために。


 一通り自分の気持ちを語り終え、心なしかすっきりとした表情のクレールに対して、改めて三つの視線が注がれる。

 それはら何やら、ぽかんと呆然とした色合いを含んでいて……ややあって、キトリーとリナとアンブルが口を開く。


『やっぱりクレール君って』


「変なやつだよねぇ」


「同意見だ」


 がう、と吠えたエクリプスの首には、三日月の首飾りが輝いていた。


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