第二節 六 「向き合うもの」




 目が覚めた場所に、見覚えはなかった。

 しかし、匂う薬草と清潔な白の雰囲気から、クレールは己が居る場所を医務室の類だと感じ取る。恐らくは森の庭の管理棟にある一室だろう。

 体感として、あまり長い時間を寝た感覚は無かった。無理やりに意識を奪われたせいだろうか。寝ている体を起こして部屋の窓の外を見れば、陽が傾きつつあった。

 夕暮れの橙が目に染みる。クレールの瞳から、つ、と涙の筋が伝った。腕にも顔にも腹にも、痛みなど僅かすら残っていないというのに。涙は止まってなどくれなかった。


「何をしていたんだろう、僕は」


 顔を伏せる。表情が歪む。それが何に対しての言葉なのかすら、クレールには分からなかった。ただただ自嘲の念が、自責の念が重く重くのしかかる。


 テオの叱責が頭を過った。……僕は弱い。そうだ、何を勘違いしていたのか。それは火を見るよりも明らかな事だった。

 初めから魔法が使える異界人は珍しいとリナに言われて。剣を振る様が素人のそれではないとアンブルに言われて。それで調子に乗ったというのか。だとすれば、なんて。


「なんて、情けない……」


 振り返れば、自分は何も為せてなどいない。頼ってばかりで、助けられてばかりで、結局ひとりの力で何かを成し遂げられてなどいないのだ。

 恩を返すと。義理を果たすと。そんな過去の言葉があまりにも軽薄に思えて、愚かしく思えて、クレールはひとり涙を呑む。

 これほどの醜態を晒す情けない人間が、誰かに何かを返すなどと。……馬鹿らしいにも程がある、少しは身の程を弁えろ。他でもないクレール自身が、絶え間なくそう責め立てる。


 止まらない涙が服を濡らす。泥だらけだった一張羅はいつの間にか、麻の病衣へと変わっていた。ぽたりぽたりと、大粒の涙が音を立てて病衣へと染みていく。

 そこで、ふと。

 頬に暖かい何かが触れた。それは懐かしく、胸を締め付ける感覚をクレールに与えるもので――――


「君、は」


 目を開けば、黒狼がその舌で涙を拭ってくれていた。後悔と自嘲がすうっと消えてゆく。その双眸は純粋な、優しい黒を湛えていた。

 彼女は静かに、クレールの灰色の瞳をじっと見つめ、必死で何かを伝えようとしているように見えた。……そうして彼は思いだす。過去の夢を。その『今』の思いを。


 ――――安らいだなら。目が覚めたなら。

 ――――その時はもう一度、その目で私を見つけてほしい。

 ――――待っているから。いつまでも。


 その思いに辿り着き、涙が零れた。しかしこれは、自責の念によるものなどでは、断じてなくて。


「そうか、君が」


 言い掛けて――――――――――――クレールは、自分が言うべき言葉を見失った。


 それは不自然な忘却。先ほどまで言い掛かっていた言葉が、何かに片手で攫われた

かような気味の悪さ。

 なぜ。どうして僕はこんな場面で、大切な言葉を失ってしまうのか。再び彼が自分を責めようとした、その時に。


 ――――見つけてくれて、ありがとう。


 何処からかそんな言葉が、クレールの胸に流れ込んだ。目を見張る。なぜ君は、そんなに優しい言葉を僕に与えてくれるのか。

 衝動に駆られ、クレールは黒狼を強く抱きしめた。艶やかな毛並と確かな命の暖かさを感じて、灰色の瞳からは滂沱の涙が流れ続ける。

 こんな情けない僕に、君は感謝をくれるというのか。何も為せていないどころか、命を助けて貰ってすらいるというのに。


 黒狼は低く唸る。どこか悲しげに、しかし凛とした音で。……泣かないでと、そんな意味を覗かせながら。


「ありが、とう」


 涙に喉を詰まらせながら、やっとのことでその言葉を口にしたクレールは、黒狼をさらに強く抱き寄せる。

 本当に、誰にも彼にも世話になってばかりだ。今の僕に、返せるものがあるだろうか。……いや、違う。そうじゃない。今の僕は無力なのだ。それは認めなければならない。


 ――――何かを返せるようになるために、今の僕が出来ることを、やれることをやるんだ。一個ずつ、しっかりと。


 ゼロからの出発。今の僕はまっさらで透明で、人の手を借りなければ立つことだって出来やしない。

 だからそう、そんな僕が何かを返すなんて、思い上がりも甚だしい。

 まずは成るんだ。育たなければならない。何かを返せるような人間に。恩に報いることが出来る人間に。

 理想の形を下絵に描き、経験という色を塗る。それが先決。今の僕には一本の線すら描かれてはいないのだから。


「……頑張らなければ、いけないな」


 決意新たに、クレールは黒狼を抱きしめる腕を解き、顔を上げる。涙はもう流れない、流さない。

 まず手始めに、頭を下げなければいけない人が居る。伝えなければならない言葉がある。思い立ったクレールは勢いよく寝台から抜け出でた。

 両の足に力を籠めて立ち上がる。夕日に照らされた灰髪の少年は、ただ真直ぐに前を見つめていた。




 ◇




 所謂、土下座の姿勢である。応接室の赤絨毯に額を擦り付けているのは、乱れた赤毛の少年であった。


「あいつがぶっ倒れたのも、森が焼けそうになったのも、全部俺の責任です。すんませんでした」


 テオのその姿を見て顔をしかめ、言葉を詰まらせているのはゼナイドである。金髪の女史はこめかみに指を当て、碧眼を細める。


「だからテオ、何度も言っているだろう。貴様らは灰の猿共を残らず駆除し、黒狼をも確保したのだ。こちらとしては報酬を支払いこそすれ、謝罪を受ける理由など無い」


「ですけど、俺は――――」


「は、言っても無駄だぞゼナイド。コレは一度言い始めたら聞かん奴だ」


 皮肉を多分に込めて言ったのはアンブルだ。応接用のソファに横柄に腰掛けながら、横目にテオを見る琥珀の瞳には嘲笑が浮かんでいる。


「罰してほしいんだよ、こいつは。力の無さを自覚せずに後輩の世話を焼こうとした馬鹿な自分を叱ってほしい、とな。

 は、気味の悪い。程々にぶん殴って手打ちにしておけばいい。それで済む話だろうが」


 適当に言い捨て鼻で笑う少女に、険しい視線を送るゼナイド。アンブルもまた、その鋭い琥珀の瞳にて応じる。

 髪色に加えて纏う空気感の似通ったゼナイドとアンブルはしかし、芯に通る考えがまるで違っていた。


「その理由が無い、と言っている。私は教育者だ。生徒に手を上げる時には、相応の理由が無ければならない」


「コレは別だろう。殴ってほしいと擦り付いて来ているなら望み通り拳を喰らわせてやればいい」


「馬鹿を言うな、それこそ御免被る。……いいから貴様は黙っていろ、アンブル」


 ゼナイドが言い切るとアンブルはふん、と鼻を鳴らして視線を外した。手の甲で何かを払い除けるかのようなその仕草は、こちらこそ願い下げだという意味だろう。

 相変わらず可愛げの無い餓鬼だ、とゼナイドは内心で扱き下ろしつつ、アンブルを意識の外へ置く。そして改めて、地面に座り込んで頭を下げるテオの方を向いた。


「罰が欲しいか、テオ」


 端的に問う。するとテオは頭を下げたままに「はい」と、震える声で答えて。


「クレールが痛い目に遭ったのは、俺が調子に乗ってあいつをここへ連れてきたからです。だから――――」


「甘えるな。私は貴様の親ではない」


 鋭い言葉と共に、ゼナイドはテオの赤毛を引っ掴んで無理矢理に顔を上げさせた。赤く腫れた目が驚愕と畏怖に見開かれる。


「叱られたいなら親元へ行け。懺悔したいなら教会へ行け。貴様がやらかしたことなど、本来私の知るところではない」


 つまるところそこに帰結する。途中の過程を判断する材料など、そもそもゼナイドは持ち合わせていないのだ。

 テオが言う『失態』の現場を見ていない以上、目に見える結果と彼の語る言葉が全てなのである。ならばそれらのみを基準にして教育的指導を行うのか。……それは、ゼナイドの矜持が許さなかった。

 叱ってほしいと思う人間の言葉を丸ごと信じ、その思い通りに頬を打つ。そんなものは断じて教育などではない。ねだる物を買ってやるのと何が違う。それでは何も意味が無い。


 重要なのは導くこと。事象や人間の模様を俯瞰し、その中で彼ら彼女らにとって本当に必要な事を知り、正しい道筋を示してやるのが自分の仕事。やるべき責務だ。


 だからこそ、ゼナイドは厳しい口調で、突き放すように言う。


「罪悪感を秘めていたくないのは理解してやる。だがそれならば晒す相手が違うと知れ。……ここまで言って分からないなら、別口で貴様を縊らねばならん」


 言い終えたゼナイドは、掴んでいた赤毛を乱暴に放す。糸が切れた人形のように、テオはその場にへたり込んだ。

 俯いたまま肩を震わせる赤毛の少年。彼の中でどんな葛藤があるのか、ゼナイドには分からない。しかし。


「くそ――――――――すんません、失礼します!」


 弾かれるように立ち上がり、応接室の扉を勢いよく開いて出て行ったテオを見る限り、肝要な事は伝わったのだろう。ゼナイドは小さく息を吐いた。

 開かれたままとなったダークブラウンの扉を、ゼナイドは魔法によってばたりと締める。応接室には、静けさだけが残されていた。


「相変わらず騒がしい奴だ」とアンブルは呆れ交じりに呟く。


「斜に構えるよりは余程良い。ああいう点は貴様も見習うべきだ、アンブル」


「私にあれを真似ろと? 性質の悪い冗談だな」


 アンブルは立ち上がり、ゆったりとした足取りで扉へと近づいていく。白い手がノブに触れた時「そういえば」と、琥珀の瞳がゼナイドの方をちらりと向いた。


「白黒もあの犬も、結局お咎めは無しなのか」


「ああ、そうなるだろう。クレールと黒狼の関係性が分からん以上、下手には裁けまい。あの黒狼も直接誰かに被害を出したわけではないからな」


「は、何ともお優しい限りだ。後悔しなければいいがな」


 嗤いを滲ませたアンブルが捨て台詞のように吐いたその言葉を、ゼナイドは看過できなかった。扉へと視線を戻しノブを回しかけたその背に向け、ゼナイドは「待て、どういう意味だ」と声をぶつける。

 呼び止められてぴたりと動きを止めたアンブルは、しばし間を置くと、振り向きもせずに「私の勘の話になるがな」と、前置いて。


「あれらは相当な厄介の種だ。摘んでおくなら、早い方が良いぞ」


 それだけを言い残し、金髪の少女はダークブラウンの扉を開けて出て行った。ぱたり、と静かに閉まるドアの音。

 ゼナイドは自分が息を呑んでいたことに、しばらくの間気が付かなかった。苦しさを感じて息を吐いたところでようやく、己に戻る。

 ミシュリーヌの興味を一身に惹き、アンブルをして厄介と言わしめる、灰髪灰目の少年クレール。

 一目見て思った『純朴な少年』という印象は、最早ゼナイドの中から綺麗に吹き飛んでいた。彼は何なのだ、一体どんな存在だというのか。

 心がざわつくのを肌で感じながらも、ゼナイドはその感情の遣るべき場所を見つけられず、ひとり舌を打った。




 ◇




 それは或いは引き寄せられるかのように。夕焼けが照らす廊下にて、彼ら二人は対峙する。


 乱れた赤毛の少年は息荒く、灰髪灰目の少年は腫れた瞳で、互いの姿を見つけ出し立ち止まった。

 しばらくは、二人ともが言葉を発することをしなかった。語るべきことを吟味するように、自分の心をきちんと相手に伝えるために。この時はただただ、互いの目を見つめ合う。


 荒い吐息が聞こえる。唾を呑む音が響く。茜色の静寂は躊躇いとなって纏わりつき、緊迫の鼓動がやけにうるさく耳を打つ。


 でも、伝えなければいけない。彼には、彼だけには。少年たちはその意志だけで、纏わりつくものを振り払う。ここで引いたら恥になると、未熟な意地を押し通す。

 不器用で、無理矢理で、けれども優しい気持ちで以て。格好悪くたって構わないと、思いのたけを振り絞って。


 ――――奇しくも、二人は同時に頭を下げて、口を開いた。


「――――ありがとう、テオ」


「――――済まねえ、クレール」


 ざあ、と風が吹いて。二人の少年は、互いが放った短い言葉を噛み締めるように押し黙り、やがて顔を上げる。

 ……しばらく振りに改めて見る互いの表情は、何故だかとてもおかしく思えて。


「酷い顔だな」


「テメエもだろうが」


 二人して言い合って、笑い合った。



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