第二節 五 「挫かれたもの」




 飛び出した灰毛の小猿。小さな魔獣が見せたその変化。……変質。進化。覚醒。数ある言葉もそれを言い表すには不足であった。

 何より急変。そして異質。毛皮を破って骨が出で、血飛沫を撒き肉が湧く。あまりに急激なその成長は、吐き気を催す程に気味が悪い。

 一体何が起きている。即座に『目』を発動させたクレールは、掴み得た情報に瞠目する。――肉体の増強・変質。発熱の常時発動。種としての性質変化――。


「『魔物化』か……!」


 魔法を身体能力として落とし込み、生物種としての個性を超える力・特性を持つに至った魔獣を特別に『魔物』と呼ぶ。


 魔物は即ち獣に非ず。彼らは一個の存在として既存の生物の枠組みから外れている。その危険度は元となった魔獣の比ではない。

 命の危機に、クレールの心臓が激しく暴れ始める。両の手で魔銅杖をしっかりと握り、臨戦態勢となった直後。


 ――――赤熱の咆哮が響く。絶叫の波動が木や葉を焦がす。紅蓮の蹂躙が始まった。


 打ち合えば拙い。クレールが選択したのは逃走であった。

 襲い来る赤き魔物は肥大化した肉体によって生来の素早さを失っているが、代わりに並外れた膂力と周囲を焦がす発熱魔法を手に入れている。

 一撃貰えばただでは済まないし、近付くだけでもダメージを負うだろう。赤の魔物が乱暴に森を踏み荒らす度、枯葉や枝が火を帯びて瞬く間に灰となっていく。あの灼熱の領域を超えるのは自殺行為だ。


「とはいえ」


 逃げ通しでは拙い。なにせ相手は火焔を誘うほどの熱を発している。長時間放置しておけば森の庭へと延焼しかねない。

 そうなれば戦闘どころではなくなるだろう。調査の依頼で来ている他の学園生まで危険が及ぶかもしれない。危機の大きさにクレールは焦燥の念に駆られる。

 ただ、目の前の魔物を含めた灰猿達の目的は『僕達』だったのだと、クレールは直感していた。故にこそ分かることがある。


「ここで僕が食い止めれば」


 全てが丸く収まるのだ。これ以上誰も傷つかずに済む。黒狼も既に戦おうとしているが、僕が矢面に立ちさえすれば彼女が血を流すことも無い。灰色の瞳は決意に細まる。

 覚悟は決めた。まずは相手の足を止めることが先決か。クレールがそう判断した瞬間、魔物の周囲の空間が歪みを帯びる。


「でかした」


 重力の檻。いつの間にか気配を消した黒狼からの援護であった。赤い大猿の動きが目に見えて鈍る。

 好機と見たクレールは、大地に向けて魔銅の杖を突き魔法を発動。直後に魔を帯びた銅が蠢き、細く地中へと伸びていく。途中根を張る様に枝分かれして、広がっていくのは大魔猿の真下の大地。

 やがて銅の根を引き終えたクレールは、続けざまに魔力を練り現象を想起する。炎を伴う広範の破壊。地中這う銅索の根は、破壊を導く道標。


「――――発破!」


 その声と共に、大猿の足元が爆発する。音を立てて炸裂した大地は瞬時に掘り起こされ、即席の落とし穴へと早変わる。


 巨躯ゆえの重みと重力増加、二つが相まって崩れるように落ちゆく大猿。立ち上る土煙が焦熱の領域に焼かれ、焦げゆく腐葉土の臭気が立ち込める。

 風に砂煙が払われると、胸辺りまでを土に埋められた赤き大猿の姿が露わとなった。柔土が焼かれゆく中、もがく魔猿が穴から抜け出でる前に、クレールは次なる一手を打つ。


 対象は大地。付き立てたままの魔銅の杖からさらに魔法を注ぎこむ。――――物質・運動魔法、土流操作。土壌そのものに魔を纏わせ、地中にて土の渦を創り出した。

 重力増加域の効力も相まって、土流の渦はじわりじわりと赤い魔猿の肉体を沈み込ませていく。


「このまま引き摺り込む――――!」


 狙うは生き埋め。周囲に無用な被害を出さない方法はこれしかない。クレールと黒狼はそれぞれ己の魔法の維持に腐心する。この調子で行けば封じ切るのも時間の問題か。


 しかし、そう簡単に事は運ばない。赤の猿はその長大な手、強大な膂力によって即席の蟻地獄を突破しようともがく。その滅茶苦茶な力技はしかし、尋常でない筋力によって確たる効果を及ぼし始めた。

 沈降が止まる。赤熱する剛腕が土の流れを焼きながらかき出し推進していた。沈み込む力に抗う赤猿のその姿に、クレールは脅威を感じつつも土流を維持し続ける。

 こうなれば後は根競べである。クレールたちが沈め切るか、赤き魔物が抜け切るか。


「……く、ぅ」


 滝のように汗が流れ、浅黒い肌を伝っていく。体力と魔力が削られる中、赤の猿の灼熱が風に乗って伝わり、クレールはさらに精神を蝕まれる。


 大猿の激しい動きに乗って襲い来る熱の波。それは痛みを感じる程のものでは無いが、代わりに酷く不快を煽ってくる。視界の端に見えた黒狼も、纏わりつく熱に顔を歪めている。

 猿が意図したものではないのだろうが、これは非常に厄介だ。クレールは目に入りかけた汗を拭いながらも、必死で魔力を練り続ける。これ以上出力を上げることは出来そうもない。


 周囲は大猿の暴れる轟音だけが響いている。ひりつく空気。均衡の時間。上がる土煙が妙に目障りで、クレールは思わず舌を打った。

 均衡は続く。まだか、まだ折れないのか。既に拘束から分を数えている。クレールの疲労も尋常でない域に達しつつあるが、赤猿の動きも初め程の精彩は見受けられれない。

 もう少し。もう少し耐えさえすれば。クレールは歯を食いしばり、苦痛に耐える。……そこで、何かが小さく弾ける音が聞こえてきた。

 ぱち、ぱちぱち、と。不穏な音のする方角へと目線を遣り――――クレールは後悔する。


 ――――燃える枯れ枝。焼ける木葉。小さな火種が炎へと変じ、森の草木を舐めていた。


「拙い――――」


 火災の種。放ってはおけない。消さなければ。その意識の逸れが致命的な結果を生む。


 土流の拘束が微かに緩む。ほんの一瞬出来た体の自由を逃さなかった大猿は、巨大な手で土をがさりと引っ掴み、思い切り放り投げた。

 飛んだ先は黒狼。大量の土を投げ付けられて、悲鳴にも似た鳴声が上がる。瞬間、重力の檻が乱れが生じ、歪みが丸ごと消え失せた。

 状況の急変。大猿は勢い良く跳び上がり、土の拘束をも優に抜け切った。着地と共に地が響く。均衡はここに崩れ去った。


「く、そ――――」


 己の行動を悔いる間もなく、紅蓮の猛進がクレールへと襲い来る。近付く巨躯。焼け付く空気。灼熱の波動に皮膚が焦げゆく感覚。『目』でも反応が間に合わない。最早防ぐことは不可能。


 肉体強化、運動操作、後ろへ跳んで衝撃を逸らす。しかし迫り来る赤熱の拳はそれ以上の速度を持って――――


「ぐ、あぁあ――――!」


 楯にした左腕が壊れる、歪な音を耳が拾った。その勢いのままに、クレールは後方へと吹き飛ばされる。杖が手から離れた。枯れ葉や土を体に付けながら転がっていく彼の体は、木の幹にぶつかってようやくその動きを止めた。


 苦悶、痛み、熱さ。焼ける様な感覚が左腕を中心に全身を襲う。伝わる激痛で声すら真面に出すことが出来ない。言葉にならない低い呻き声が、クレールの口から漏れ出していた。

 その間も脳内では危急の警鐘が鳴り響く。このまま倒れていては駄目だ、追撃をどうにか凌がなければ。

 全力で肉体回復を試みるクレールであったが、そんなものなど間に合う筈もなく――――


 ――――突如の浮遊感。再び味わうその感覚に、クレールは近付く黒狼の存在を感じ取った。再び迫った赤熱の拳が空を切る。


 魔法にて空を駆ける黒狼は、クレールの服をすれ違い様に咥え、強引に引っ張りつつ飛翔する。黒狼の側にも余裕が無かったのだろう。着地の勢いは殺されることなく、一人と一匹は強かに地面へとぶつかった。


「ま、ずい」


 なんとか距離は離れたものの、先の灰猿の時と違い、黒狼は気配隠匿の魔法を使用していない。

 稼ぐことが出来た時間はほんの少し。未だ左腕からは尋常でない痛み。黒狼も着地の折にどこかを痛めたのか、立ち上がるその動きに苦痛が覗く。


 赤熱の進撃を続ける大猿の姿が、再び近づいてくる。このままでは共倒れ。こんな場所で死ぬわけにはいかない、死なれるわけにはいかない。


 そう思いクレールが痛む体に鞭打って立ち上がり、魔法の力を以て強引に飛び出そうとしたその瞬間。


 ――――それを追い抜くようにして、赤毛の影が大猿の真正面へと突撃する。



「おらァ! ――――って熱っちぃ!? んだこいつァ!?」



 ハルバードで赤猿の拳を弾いたテオの後ろ姿を見て、思わずクレールは呆けた表情で口を開いた。


「死んではいないな。ならいい」


 凛とした、自身に満ちたその声が響くと共に、クレールの左肩に綺麗な白い手が乗る。それと同時に浸透していく魔力が、苛む痛みが消していく。折れていたはずの腕に自由が戻った。


 振り返れば、なびく金色の髪が目に入る。琥珀色の視線は常と変らず冷たく鋭い。緊迫を感じさせる雰囲気が、今はやけに頼もしく感じた。「アンブル」とクレールが零せば、少女は不遜に鼻で笑う。


「言った筈だ、死なん限りは治してやると。それにしても……魔物か、面白い敵を釣ったものだな」


「言ってる場合かバカヤロー! さっさと手伝えアンブル!」


 正面から赤い大猿の攻撃を受け、弾き、受け流しながらテオは叫ぶ。

 ……あの威力の殴打を小細工無しに受け止めるのか。左腕に受けた衝撃を思い出しながらクレールは、テオの勇壮な槍捌きに見惚れる。


「は、言われるまでも無い。おい、クレール」


 テオの言葉に常の調子で冷たく返したアンブルは、視線を赤猿へと向けたままにクレールへと言葉を投げる。


「音で位置を知らせたこと『だけは』上出来だったな。……そこで休んでいろ」


 瞬く間に風となり消え失せた黄金色の残影は、大猿の首筋に鎌鼬を見舞う。深々と刻まれる太刀筋。吹き出す鮮血は焦熱によって大気へと散ってゆく。

 猿が動きを鈍らせたその隙に、テオが雄叫びを上げてハルバードを思い切り振り上げた。下顎に食い込んだその刃はそのまま顔面を縦一文字に切り裂く。


 断末魔すら上げる暇を与えられず、赤き大猿は静かに命を終わらせる。どさり、と音を立てて倒れ伏す巨躯。大地の焼ける音と共に、流れゆく血が蒸発して赤い霞と成り果てた。


 文字通りの瞬殺。息つく暇すら与えない、とはこのことなのだろう。視界の端では、アンブルが無造作に剣を振っていた。その太刀風で、燃えていた火が瞬時に消し飛ばされてゆく。

 次元の違い。それを改めて感じ、呆けているクレールに、駆けて近づいてきたのはテオだった。――――彼は眉間にしわを寄せながら、拳を握りしめて全力で走り、そして。


「この、馬ッ鹿野郎が!」


 渾身の力で、クレールの頬をぶん殴った。その重い衝撃にたたらを踏み、こらえきれずに尻餅をつく。


「こんな化けモン相手になんで立ち向かった! 死にてえのかお前は!」


「己を見誤ったな。それとも何か、少しばかりそやされて思い上がったか?」


 戻ってきたアンブルが、嘲笑を交えながらクレールへ痛烈な皮肉を投げかける。彼はその言葉に反論することが出来なかった。

 痛む頬を押さえ、クレールは目を伏せる。その胸倉をぐっと掴み、テオは無理矢理に彼の体を引き上げた。


「舐めすぎだテメエ。こいつら殺すのに命かけてる奴がいんだぞ? たった一日二日剣振っただけの素人が、討伐屋の真似事なんてすんじゃねえよ!」


 再びテオの拳がクレールを打つ。今度は踏ん張ることすらできず、吹き飛ばされて無様に倒れ込んだ。

 顔を上げたクレールへ浴びせられたのは怒りと侮蔑、二つの視線。それらを正面から受け止められるほど、クレールの心は強くなどなくて。


「――――僕だって、逃げたかった」


 込み上げるその感情のままに、彼は全てを曝け出す。感じた恐怖と理不尽をぶつけるように。


「脚が震えたよ、手だってまともに動かなかった、歯を食いしばらなければ涙だって零れそうだった! でも!」


 立ち向かう理由があった、対峙しなければならなかったのだと、クレールは叫ぶ。


「あの魔物は僕達を狙っていた! だったら戦うしかないじゃないか! 戦って止めなければ他の誰かまで巻き添えに――――」


「逃げればよかった。それで済んだ話だ」


 アンブルが、そのどこまでも冷たい声色でクレールの言葉を断つ。それは端的で、故に正鵠を得ていた。


「何を気にすることも無く、全力で逃げて助けを呼べばよかった。違うか? 事実、あの猿は私にとってみれば雑魚も雑魚だった」


「それは、でも! ただ逃げるだけでは火が燃え広がって――――」


「だから、それが思い上がりと言っている。火、火だと? 庭から上がった小火ひとつ、天下の王立学園が捌けないとでも思ったか?

 お前ごときで止められる火事ならば、そんなものは小火とすら言わん。恥を知れよ新参」


 アンブルは冷酷に言い捨てる。その琥珀色の瞳にはいつも以上の酷薄さが滲んでいた。苛立ちを募らせたテオが、アンブルに続いてクレールに言葉と怒りをぶつける。


「つーかよ、ズレてんだよテメエは。気にするとこはそこじゃねえ。森が燃える? んなもん放っときゃあよかったんだ」


「な、君は、森が延焼したところでどうでもいいと、そう言うのか!?」


「――――それがズレてるっつってんだよ! 死にかけてた軟弱野郎が偉そうにくっちゃべんじゃねえ!」


 その大喝は今までのどんな声よりも大きく森へと響き、クレールの心を酷く揺さぶった。


「いいか、勘違いすんじゃねえぞ、俺もお前も弱えんだ。多少体が丈夫なだけ、多少魔法を扱えるだけでまだまだカスだ、守られてる立場なんだよ。

 ――――そんな雑魚が他の何かを守るとか、んなこと言える立場なわけねえだろうが!」


 再びクレールに掴みかかるテオ。握り締められた拳の内から血が流れているのが見えた。それ程に彼の怒りは強く、なにより深い。

 そして、テオのその言葉は何故か、彼自身に対しても向けられているようにも感じられて。クレールは何一つ言い返すことも出来ず、その叱責を受ける他無かった。


「自分の命も守れねえ奴が、何言ったって意味ねえんだよ! そんくらい分かれ、この――――痛ってえ!?」


 テオの腕に黒い影が襲い掛かった。黒曜の瞳が敵意に揺れている。革の小手越しに鋭く牙を立てたのは、今まで黙し佇んでいた黒狼であった。

 突然の出来事にテオは慌て、クレールは戸惑うことしか出来ない。


「んだこいつ、急に――――」


「止せ、やめるんだ! テオは、彼は敵じゃない!」


 叫ぶクレールの声など届いていないのか、低く唸りながら黒狼は牙を剥き続ける。それはまるで、友を傷つけられたことに激しく怒っているかのようで。

 その光景に、耐えきれず手を出した者が居た。――――黄金色の風がほんの一瞬、吹き荒ぶ。


「鬱陶しい」


 短い一言、唸る拳。黒狼はその一撃の下に吹き飛ばされ、蹴られた路傍の石のように地面を転がる。アンブルの凶行にクレールは強く叫んだ。


「アンブル!? 何を――――」


「あれはお前の飼い犬か。だったら――――」


 クレールの腹に拳が減り込む。只ならぬ衝撃が内蔵を襲い、クレールは声ならぬ声を吐き出した。意識が強引に塗り潰されていく。

 やりすぎだ、とテオの声が聞こえた気がした。それを掻き消すかのように、アンブルの冷酷な言葉がクレールの鼓膜を震わせる。


「――――お前も同罪だ。厄介を持ち込んだ責任は取ってもらおう」


 そうしてクレールは、森の中で再び精神の手綱を手放すこととなった。



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