第二節 四 「現れるもの」




 来るべき衝撃と痛みは、浮遊感に変わってクレールを襲った。


 突如として自身の体から重みが消え失せ、ふわりと高く宙を舞う。自分の身に何が起きたのかクレールには理解できなかった。眼下には、攻撃を外して体勢を崩した二頭の猿が映る。

 一体これは何事なのか。中空で戸惑うクレールを更に変化が襲う。何者かに首を掴まれ、勢いよく引っ張られた。森の景色が瞬間に流れゆく。


「ぐっ――――」


 襟元を締め付けられて苦悶の声を上げるクレール。逃れようともがけども意味を為さず、引かれるがままに飛び、そして地面へと吸い寄せられる。 

 着地の瞬間は、気味が悪い程に衝撃を感じなかった。まるで見えない何かに受け止められたかのように勢いが殺され、クレールは地面へと転がる。


 首元の拘束が緩んだのを感じたクレールは、すぐさまに立ち上がり振り返った。一体誰がこんなことを――――


「な、に……?」


 灰色の双眸と黒曜の瞳が交差する。目が覚めるような黒毛を全身に隈なく纏い、四つの脚で凛と立つその姿は冷徹、精悍。


 野生と理性の双方を併せ持つかのような冷たい眼差しで、黒狼の魔獣はクレールの目を真直ぐに射抜いていた。


 何故ここに黒狼が居る。何故僕を助けた。瞬時にして駆ける疑問は刃のような視線によって氷らされる。その脅威から反射的にクレールは、己の『目』を働かせていた。

 ――――そして直後、彼の身体に異変が生じる。 


「が、ぁ――――――――」


 突然脳に痛みが奔り、眼球に魔力が『吸い込まれる』。まるで『目』が意志を示すかのように独りでに大きく魔を喰らった。

 勝手に発露した恩恵はクレールの視界を鮮明にするだけに留まらず、黒狼の情報を残らず吸い出そうと力を振るう。

 流れ来る情報の奔流。悲鳴を上げる脳。眼球にまで波及する痛み。頭の中を掻きまわされているような苦痛と不快感に、クレールは思わずうずくまる。


 こんなことをしている場合では無い。目の前の黒狼に灰色の猿達と、直ぐ傍に危機が迫っているというのに。動かなければ、動かなければ。


 響く痛みと焦る内心に抗い歯を食いしばるクレールに、穏やかで微かな音が届いた。それは、黒狼が喉を鳴らす優しい音色。

 次の瞬間、熱を帯びた柔らかな感触がクレールの頬を撫でた。艶やかな黒が慈しみを湛えた表情で以て、顔を摺り寄せる。すると。


「あ、れ」


 奔る痛みが全て消え、頭の中が鮮明となり、そして。


「なんで」


 暖かいものが頬を伝う。溢れ流れて止まらないこれは、何だ。一体なぜ、どうして僕は、これほどまでに心を揺さぶられているのか。

 分からない。自身が抱く感情の出処が、クレールには何一つ分からなかった。ただ、一つだけ。流れる涙が悲しみによるものではないことだけは理解する。


 嬉しい。そう、嬉しいのだ。何よりも黒狼に、『彼女』に再びまみえたことが。そこまで考えてクレールは再び疑問に囚われる。何だこれは、『彼女』とは何だ、黒狼は僕にとっての何だというのか。何より、この激しい心の動きは何なのか。


 まるで自分ではない何かが、勝手に喜怒哀楽を操っているかのような感覚。だがそれがまるきり自分の意志に反しているかと言えば、決してそうではなく。

 溢れ出る喜の感情とそれを疑問に思う理性が混じり合い、その混沌にクレールが混乱していると。

 とん、と軽い衝撃。鼻先で肩を押され、クレールは弾かれたように顔を上げる。再び、黒曜の瞳と視線が交錯する。


 立て。前を見ろ。そう言われている気がして、クレールは何故か迷いなく、己の足に力を入れ立ち上がることが出来た。


「……そうだな。君の言うとおりだ」


 まるで旧来の友からの激を受けたかのように、クレールの気持ちは高揚していた。

 この感情の正体は相変わらずよく分からない。けれども、嘘偽りでこれ程に気分が高まる筈など無く、故にクレールは断ずる。


 今はまだ何も思い出せないけれど。彼女は、この黒狼は、きっと僕にとって大切な存在だったのだと。


「済まない、君のことが分からなくて。……けれど、ありがとう」


 僕に会いに来てくれて。僕を探しに来てくれて。己の頬に再び涙が伝うのを、クレールは止められなかった。


 凛とした表情を崩さない黒狼は、促すように鼻先を振る。今はそんなことなどどうでもいいと、その眼差しは毅然と語っていた。

 クレールはその意を解し、こくりと頷き涙を拭いた。隣に彼女が居るだけで、不思議と勇気が湧いてくる。ぼやけていた意識が綺麗に晴れ、周囲が『目』によって鮮明に映し出された。


 そこで彼はふと、その光景の不自然さに気付く。


「これは……」


 やや遠くに見える灰色の猿達が、こちらに全く『気付いていない』のだ。何かを探すように周囲をつぶさに見まわしている。

 あれだけ派手に浮き上がって飛んだのだから、姿を捉えることが出来なかったということはないだろう。視界が遮られやすい森の中とはいえ、人と狼が共に宙を舞う光景を見逃すことは考え辛い。


 であるならば、その理由は数える程多くはないだろう。隣の黒狼に目を遣れば、自ずと『目』が働きその情報を掴み取った。――精神・環境の複合。視聴覚に波及する気配の隠匿魔法――。理解したクレールは思わず呟いた。


「君の力、なのか」


 黒狼は小さく鼻を鳴らす。殊更に誇ることはせず、だからどうしたと言わんばかりに。

 その態度が何故か妙に可笑しくて、思わず頬が緩む。不機嫌そうにがう、と低く吠えた黒狼にクレールはもう一度「ありがとう」と言い、そして。


「――――大丈夫だ。もう行ける」


 その言葉を合図として、何かの解ける音がした。瞬間、遠巻きの魔猿が二頭ともこちらを向く。


 灰色の猿達は、クレールと黒狼を交互に見やった後、甲高い奇声を上げ始めた。嘲りや威嚇とはまた違うその声色に、クレールは瞬時に考えを奔らせる。

 仲間を呼んだ? しかしなぜこの機に。もしや猿達の狙いはそもそも黒狼だったのか。何にせよこのままでは少し拙い。


 即座の判断で肉体強化の魔法を発動したクレールよりも早く、黒い影が音も無く森へと駆け出す。


 その疾走は低く暗く、何より捉え難い。『目』を以てしても駆け抜ける影を追うのが限界であった。真黒い体躯がなぜあれほどに緑に溶け込むのか。不可思議に思うクレールは同時に、黒狼の疾走を頼もしくも感じる。

 彼女に任せていれば大丈夫だ。根拠の無い、しかしながら何故か疑う余地も無いその予測は、結果として正しいものとなる。


「……合わせればいいんだな」


 黒い影の駆ける背、その体が上下する拍子を見て呟き、クレールもまた走り出す。言葉を交わさずとも、彼には黒狼の意図がはっきりと理解できた。

 その間に灰色の猿達は近場の木へと駆け上がり、クレールらと一定の距離を取ろうとする。それを許さなかったのは黒狼だ。

 重く響く呻り声と共に、黒狼の周囲が徐々に歪みを帯び始める。靄のような歪曲は空間に波を描くように灰の猿達へと伝播し、そして。


 ――運動・環境の複合。重量軽減・引力増加効果を持つ重力異常領域の展開――。『目』がそれを捉え、敏に反応した。


「三」


 歪みに包まれた二頭の魔猿が、不可視の糸に吊り上げられ不自然に浮き上がる。


「二」


 その糸は二頭を繋ぐように絡み合い、恐ろしい速度で巻き上げられてゆく。灰色のつがいは見えざる重力の糸によって互いに引かれ合い、そして。


「一」


 中空で勢い良く、正面からぶつかり合った。奇声か悲鳴かわからない金切り声が上がったその瞬間。


「――――ここだ」


 歪みが消える。その機を捉えたクレールは全力で跳躍した。直後に運動加速を追加発動。黒狼を飛び越え、落ちゆく灰色の猿達の真上を取る。

 体を捻れば、強化された筋肉へきりきりと力が溜め込まれた。最大限に発条を引絞り、開放。魔銅の杖が風を切って呻る。

 重く、しかし高く響いた堅い二つの音。二頭の猿は真上からの打撃を受け、地面へと鋭く叩き付けられる。二頭の苦悶が森に響いた。


「まだだ」


 着地をして振り向いたクレールは、二頭の猿を挟んで向こう側の黒狼が、再び吠えるその姿を視界に収める。再び空間が歪んだ。――運動・環境の複合。重力増加領域――。

 立ち上がろうとした二頭の灰猿を押し込めたのは重力の檻。猿達に出来た多大な隙をクレールはやはり見逃さない。


 魔銅杖に形状変化を施す。想起するのは二つの角錐。樫の芯が露出しその両端に大きな『矢尻』が出現した。続けて重量増加・強度変化。重く強く魔の力を宿した一対の『矢尻』をクレールは、さらに運動操作魔法にて樫の芯から切り離す。


 飛ばす先は上空。銅の矢尻が魔の力に弾かれ、高く放物線を描くように空へと駆け昇っていく。そして、重力の檻の真上に差し掛かったその瞬間。


 ――――当然の結果として、二つの矢尻は急激な落下を始める。


 魔法によって増した重力は矢尻の落下速度を暴力的に跳ね上げた。そこへさらに運動制御の魔法を施したのはクレールだ。


 一人と一頭の魔法が乗った銅の矢尻は、正しく超常の速度で以て轟音を上げ空気を穿ち、その二つともが灰色の猿の体を無慈悲に襲う。鋼鉄の肉体など、最早意味を為さなかった。


 二頭のそれぞれ胸と肩に突き刺さった矢尻は、血肉を貫き楔のように大地へと打ち付けられる。鮮血が飛び散り二頭が共に絶命へと至るまで、然程の時間は掛からなかった。


「く……は」


 緊張の糸が切れ、クレールは短く息を吐く。溜まった疲労は心身ともに並ではなく、思わず膝から崩れ落ちた。地面に手を突き土の冷たい感触を掴みながら、クレールは目を瞑り呼吸を整える。


 すると、手元に何かが当たる感触。薄く目を開いてみればそこには、猿の死骸に突き刺さっていたはずの二つの矢尻があった。

 顔を上げれば黒曜の狼が、促すような鋭い眼差しでクレールの灰色の目を射抜いている。臥せっている場合では無い、とクレールは形状変化の魔法を使い、銅の矢尻を溶かして樫の芯に纏わせ、元の杖の形に戻した。


 クレールは立ち上がり、膝の泥を払う。そう、まだ終わりではない。黒狼はクレールから目線を外し、森の奥を睨み低く唸り声を上げている。

 何かが来る。灰色の猿達が呼んだ何かが。戦端は未だ、閉じる気配を見せてはいなかった。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る