第二節 三 「陥れるもの」
「拙い」
森を駆けながらクレールは独りごちる。現状は、考え得る限り最悪である。
肉体強化魔法は既に施しており、疾走の速度は普段よりも遥かに速い。にも拘らず、振切れない。そればかりか距離を詰められる有様である。
茂る緑色の景色が尾を引いて通り過ぎゆく中、木々の上から感じる二つの気配。最早害意を隠すつもりはないのだろう、甲高い鳴き声で追い立てる二頭の獣。ちらりと背後を窺えば、枝葉の間に灰色の影が見えた。クレールは冷や汗を流す。
「くそ、せめて誰かと合流できれば……」
彼の隣には今、誰の姿も無い。テオもアンブルも恐らくは、それぞれ灰色の猿らと相対していることであろう。
この分断は偶然ではない。魔獣らが敷いた狡猾な策に怖気が奔る。彼らは何処まで視ていたのか。何処まで考えていたのか。迫る脅威にクレールの焦燥は頂点に達しつつあった。
――――事を遡ること数分前。状況の変化は一瞬であった。
「見つけた」
言った瞬間に超絶の速度で以て駆けだしたのはアンブルであった。先を見れば、木の上に二頭の猿が陣取っている。灰色の体毛、長い手。依頼にあった猿の魔獣に違いなかった。
逸ったアンブルに「てめえ、勝手に行くな!」と叫んだテオは、斧槍を構えて彼女を追おうと駆け出す。その三歩目であった。
「――――なッ」
テオの驚愕。側面の草場から何かが飛び出した。異常な速度。灰色の影。死角からの奇襲。テオは身をよじるも間に合わない。
がきん、と斧槍と何かがぶち当たる音。かろうじて攻撃を防いだテオはしかし、突撃の勢いを逸らすことまでは出来ず、灰色の影と共に吹き飛んでいく。
囮、奇襲。クレールの脳裏に悪い予感が奔る。もしやと考える間もなく背後の木がざわめく音。クレールは咄嗟に前へと転がった。
後で何かが降り立つ音。最早確認するまでも無い。二つ目の影が視界の端に映った。
この状況での二対一は非常に拙い。逃走の判断は一瞬。クレールは即座に肉体を強化し、一目散に駆けたのだった。
――――翻って現在。クレールの遁走は続いている。
地図など最早追えてはいない。故に自分が何処を走っているのか見当もつかない。ともすれば『奥地』に近づいている可能性もあり得る。
しかしそのような事を気にする余裕など、今のクレールには無かった。灰髪が浅黒い額に張り付いている。粘りつく疲労が、無視できない水準まで蓄積しつつあった。
体力や魔力が尽きる前に状況を打開しなければ。焦るクレールはしかし、具体策を思いつくことが出来ない。
「これは、厄介だな」
灰色の猿は付かず離れず、しかし確実に追い立ててくる。真正面から攻めることはせず、どちらか一方は必ず死角を陣取りながら、まるで嬲る様にこちらを追い回している。
こちらから攻めに転じようとすれば、死角に居る方の猿が即座に襲ってくるだろう。その周到な位置取りにクレールは舌を打つ。
だが、二頭ともを一定の時間、視界の中に入れられれば勝機はある。一度『目』で捉えることが出来さえすれば。クレールは思考を回転させながらひた走る。
何がある、何が出来る。疾走を続けながらも考えを止めなかった彼が、ある一つの策に行きついた、その瞬間。
「――――しまっ」
体勢が崩れる。脚に堅い感触。木の根に躓いたのか。上体がふらりと地に吸い寄せられる。
敏に動いたのは二つの灰の影。転倒する灰髪の少年。そこへ覆いかぶさるように、狂気の魔獣が襲い来る。
――――その様子を、倒れ伏したクレールは『三歩分手前』から観察していた。
「掛かった」
精神と現象の応用。光の屈折を利用した幻覚魔法。光の軌道を強引に曲げることで、自身の『見かけ上の位置』と『本来の位置』にズレを生じさせる。
これによってクレールは、己の三歩前の位置に自分の像が結ばれるように細工をした後、わざと転倒したのだ。猿の魔獣を、虚像の隙によって釣り出す為に。
目論見は成功。即座に立ち上がったクレールは『目』の魔法を展開するとともに、魔銅杖を剣へと変化させる。
致命的な隙を晒す、二頭の猿の魔獣。それらに施されている魔法を解析しつつも、この絶好機を逃すまいとクレールは剣を振り被る。
「まず一頭――――」
大上段からの振り降ろし。強化を施された剣の一撃は、猿の肩口を切り裂き、確実に仕留める筈であった。
――――がきん、と堅い感触。
手に痛みと痺れが伝わる。通らない刃。気色に笑む猿の魔獣。弾かれたのか。まさかそんな。
ほぼ同時に『目』の魔法から情報が流れ込み、クレールは己の失態を悟る。灰色の爪が、クレールの肌を引き裂かんと迫った。
◇
「この、クソッたれがぁ!」
ハルバードを振り、灰色の突撃を退けるテオ。伝わる重い感触は、まるで鉄の塊を弾いたかのよう。
幾度もそんなものを受け止めていては、自慢の腕力もやがて尽きてしまう。斧槍の負担も無視できない。乱れた赤髪から汗の雫が落ちる。
「堅ってえなあオイ! どんな毛してやがんだよテメエら!」
大声での悪態は猿の嘲笑を買うばかり。神経を逆撫でる獣の奇声に、テオの心はどんどんと怒りに熱されていく。
――――肉体属性込みの物質強化に吹っ切れてやがる。骨から皮から肉から毛から、馬鹿みてえに堅え。
猿の魔獣が纏う魔の力、その厄介さにテオは表情を歪ませる。
肉体の強度は鉄の鎧に等しく、しかしながら猿生来の柔軟かつ機敏な動作は毛ほども失われていない。加えて。
「そんだけ堅えくせにチョロチョロチョロチョロと……!」
慎重かつ狡猾なのだ。三人を分断したこともそうだが、立ち回りそのものに高い知性が感じられる。
徹底して距離を取って木の上や茂みに隠れながら動き回り、反撃されない機を上手く伺って攻撃を仕掛ける。深追いはせず、一撃中てて即座に退避を繰り返す。
嫌な相手だ、とテオは苛立つ。脚を止め腰を据えた戦いを得意とする彼にとっては戦いにくい相手であった。
「早く合流してやんなきゃなんねえってのに!」
背後からの奇襲をしゃがんで回避する。離れてしまったクレールが何より心配であった。猿の魔獣は想像以上に手強い。多少動けるといえど、殆ど実戦経験の無いクレールが相手取るには荷が勝ちすぎている。
故に焦りを募らせるテオ。そんな急く内心を弄ぶかのように、灰色の襲撃者は付かず離れずの戦いを続ける。きいきいと互いを呼びかわす鳴声が耳に付く。
「ああ、くそ、鬱陶しい!」
その声、その貌、その動き。全てがこちらを馬鹿にしているかのようで腹立たしい。ふつふつとわき上がる怒りは止め処ない。
幾度目かの襲撃をハルバードで薙いで防ぐ。直後に、がり、と嫌な音。慌ててハルバードの柄を確認したテオは、そこにはっきりと刻まれた傷を目の当たりにする。
汚らしい三本の傷。大枚叩いた折角の新品を、買って三日で傷物にされるとは。ふざけている。馬鹿にしている。冗談じゃない――――
そこで、テオの思考は真っ白に染まった。赤を通り過ぎた白熱の嚇怒が、テオの心に満ち充ちる。
「――――いい加減に」
物質属性、強度操作。斧槍の強化・硬質化。攻撃対象の脆性促進。肉体属性、肉体強化。攻撃対象の肉体強度減衰。彼の体に最も染みついた魔の力が、秒を数える間もなく次々に顕現する。
力の限りハルバードを振り回し、やつ当たるのは近くの大木。百年以上の年月を重ねたと思しき太く逞しいその幹に、斧槍の刃がめり込んだその瞬間。
「しろやあぁぁああァ――――!」
――――重なる百余の年輪が、木端微塵に吹き飛んだ。
その衝撃に森が震える。全ての音が掻き消える。それでも彼の怒りは収まらない。倒れようとする大木に向けて全力の蹴りが撃ち込まれる。
再びの爆音。打たれた部分の樹皮が破裂し、大木の幹が勢いよく吹き飛んでいく。それは灰の猿が陣取る別の木にぶち当り、三度大きな音を上げた。猿はその衝撃に耐えかね、無様な恰好で地に落ちる。
――――類稀な物質・肉体魔法素養による強引な破壊。己を強く、他を弱くすることで、どんな強度を誇る物をも一撃にて粉砕する。
テオにとっては樹齢百を超える大木程度、そこらの枯れ木と変わらない。ぶち中て、へし折り、吹き飛ばすなど造作もなく。そして当然、鉄が如き強度を誇る猿の肉体もまた――――
「おらァ!」
一刀の下に両断することなど、朝飯前なのである。振り下された斧槍の刃は易々と猿の体を引き裂き、勢い余って地面へ叩き付けられる。
どごお、と地鳴りを伴い土塊が弾けた。まるで何かが爆発したかのようなその衝撃に、猿の死骸は鮮血を散らして四散する。
先ほどまで嘲笑を上げていた片割れの猿は、身を翻して逃走を図ろうとしていた。その背には怯えが見え、余裕など欠片も感じられない。
狩る側と狩られる側が、ここに逆転する。魔法にて強化された肉体は、逃げ惑う猿を必ずや捕えるであろう。――――地の底から響くような声で、テオが唸る。
「綺麗に死ねると思うんじゃねえぞ」
結果の見えた狩りの時間が、始まる。
◇
「足りんな」
襲い掛かってきた灰の猿に目線すらくれず、左手に持った円盾で弾き飛ばす。地面に転がり大きな隙を晒す猿を、それでもアンブルは視界に入れようとすらしなかった。
金色の髪が風になびく。息も乱さず汗すら掻かず、その琥珀の瞳は退屈の色を帯びている。アンブルを囲う猿の群れは四匹。テオやクレールの倍を相手取って尚、彼女には過ぎたる余裕が感じられる。
様子見、奇襲、一撃離脱。総じて甘く生温い。これで私を殺す気なのかと、アンブルは顔をしかめて不愉快を露わにする。
「骨はある。というのに必死さが足りん」
剣を無造作に振り、死角からの攻撃を叩き落とす。……見るべきところはある。鋼鉄並の強固な肉体と野生の機敏さを合わせ持つ魔獣などそうそう居ないだろう。
だがやり口が姑息に過ぎる。その筋力と堅さで以て強引に攻め立ててくれば、まだ歯応えも出てきそうなものであるが。まして数の優位もある。というのにこの小狡さは一体何なのか。
どうも敵意や害意が足りない。そも魔獣というのは普通の獣よりも臆病さに欠ける筈なのだ。魔法という大きな力を得ることで、魔獣は己の敵対者に対して増長する傾向にある。だというのに、何故この猿共はここまで腰が引けているのか。
――――そこでアンブルは、一つの答えを直感する。
「なるほど、本命は別か」
つまるところ時間稼ぎ。テオとクレールを分断したことにも意味があるのだろう。恐らくあの二人のどちらかが標的となっている。
ならばどちらが、などと考える必要性をアンブルは感じなかった。そんなものは推理を働かせるまでも無く明らかであるし、何よりそれに気を回す意味が無い。
重要なのはただ一点。この猿共との戦闘が実のある経験となるか否か。強くなるための糧となり得るかどうか。上へ昇るために、高みを目指すために、果たしてこの魔獣の群れは役に立つのか。アンブルは冷徹な視線で灰色の猿達を観察する。
再び死角からの突撃。最早武具すらも使わずに、アンブルは剣を握る拳の甲を猿の顔面へと振り抜いた。それだけで灰色の猿は弾かれるように飛ばされる。
……木々に隠れて付かず離れず。つまりは深入りし過ぎず、いざという時の退路を確保している。要はこの猿共は逃げられる気でいるし逃げる気でいる。その事実にアンブルは失望を露わにした。
今の戦況を見て尚そのような判断を下すというのなら、見るべき点は皆無である。退くか進むか。多少頭の働く魔獣であれば、今がその択一の機であると理解できるだろう。
だというのに、この猿共は。……所詮は文字通りの浅知恵ということか。ならば、お前達は私の役には立たんのだろう。小さな嘲笑と共にアンブルは目を細め、そして。
「――――もういい」
放たれた殺意に、周囲の音が死滅する。閾を越えた感情が無意識のうちに魔力と結び付き、殺気の波動となって伝播した。
時が止まったかのように、四匹の魔猿が動きを止める。息を呑む暇も無く、一つの首が刎ね飛んだ。鉄の如き硬さなど、彼女の剣を阻むには不足も不足。
速く動き速く斬る。彼女が為すのはただそれだけ。身体と運動の強化のみであらゆるものを捻じ伏せる。そこには工夫も技術も何もなく、故にこそ何一つ抗い様がない。
見えず、躱せず、防げない。そのような刃と対峙して、命が繋がるなど有り得ない。琥珀の瞳が敵意にぎらつき、刎頚の剣が鎌首をもたげる。
「時間は掛けん。一匹残らず、刎ね飛ばす」
宣告と共に、黄金色の死の風が吹いた。
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