第一節 十 「仕度の日」


 ●




 課題その二、属性の『静・動』について。


 魔法属性の『静・動』とは、六属性それぞれに属する魔法について、『静的・動的』の二種に分けた時の分類である。

 魔法の六属性は主に『何を対象として魔法を発動するか』という点を主眼に置いた分類であるが、そこからさらに派生した静的・動的の分類は、『その魔法が対象に対してどのように働くか』という点を注視している。

 動的魔法とは変化を司る魔法であり、元来あった状態や性質を別のものへと変化させるもの。

 対して静的魔法は維持を司る魔法であり、対象となるものの状態や性質を一定に保ち続けるものである。

 一般的な魔法には、静的・動的両方の側面が含まれているものが多い。例を挙げれば物体属性の硬化魔法などは『物体の硬化(動的)』『硬化状態の維持(静的)』の二つで成り立っており、一見すると両者を区別する意味合いが薄いように見える。

 が、魔法使いは大抵、静的・動的の素養に偏りがあり、その素養に応じて扱うことの出来る魔法、得意とする魔法に違いが出る。

 個人資質に依る部分の多い魔法という分野において、自分が何の魔法の素養を持つかを知ることは極めて重要であり、その点においては六属性同様、『静・動』の素養分けは大きな役割を担っている。

 魔法そのものの種別分けと魔法素養の区別、二種の意味合いがある六属性と比べて、『静・動』は魔法素養の区別の方に大きく比重が置かれている、と言い換えることも出来るだろう。

 尚、『大陸』において個人の魔法素養の指標は、六属性に静的・動的の二分類を組み合わせた十二の項目で定められている。




 ◇




 王立学園の南側区域は、学園生の生活拠点と言ってもいいだろう。


 各学科の寮や異界人学生寮などはその全てが南側に固まっている上、講義に必要な文具や器具、参考書などを扱う店も数多く立ち並んでいる。生活雑貨や食料品を扱う店も多い。

 加えて、南門が森の庭への出口であることから、戦闘訓練や野外訓練などの際に必要な武器や道具類も、南側一帯で揃えることが可能である。


 『バルタザール武器店』も、そんな南側地区の一角に存在していた。店の佇まいは実に簡素であり、一見したところ民家と変わり無いように見える。そよ風にゆられてきいきいと揺れる青色の吊り看板が無ければ、そも商店であることすら気付かれないだろう。

 宣言通り早朝に叩き起こされたクレールは、相変わらず不機嫌そうなアンブルに連れられ、この『バルタザール武器店』の前まで訪れていた。


「早く用事を終わらせるぞ」


 そう言ってさっさと店の扉を開けたアンブルは、からんとドアベルが鳴らして足取り速く店内へと進んでいく。

 慌てて追いかけるクレールが閉まりかけの扉を再び開き、からころと二度目のベルが響く。店へと足を踏み入れると、煙草のにおいがクレールの鼻を突いた。

 一目で見渡せるほどの広さの店内には、棚や机などに整然と武器が置かれている。剣や槍、斧などが目立つところを見るに、刃物を専門に扱う武具店なのだろう。

 店の奥のカウンターテーブルでは、初老の男性がゆるりと葉巻を吹かしていた。入店した二人に気付いた男性は、モノクル越しに柔和な笑みを浮かべる。


「いらっしゃい。……なんだ、アンブルじゃないか」


 白髪とモノクルが印象的なその男性は、アンブルの姿を確かめるとほんの少しだけ目を見開き、片手で襟元を正して葉巻を灰皿へと乗せた。

 どうやらこの男性とアンブルは知り合いであるらしく、彼女の方も「なんだとはなんだ。私は客だぞ」ときつい言葉を吐きつつも、比較的態度を崩している様子であった。


「で、また剣の買い替えかい? それとも隣に立つ彼の剣を壊しでもして、弁償をしに来たのかな?」


「違う、この新入りの武器を買いに来たんだ。ずぶの素人でも扱えるやつをくれ」


 如何にも面倒臭い雰囲気をかもしつつ、アンブルは親指でクレールの方を指した。その様子に「ほう?」と関心と驚きを示したのはモノクルの男性である。

 

「珍しいこともあるものだ。まさか君が、友達の扱う武器を買いに来るなんてね」


「友人じゃない、ただの常識知らずの後輩だ」


「こらこら、照れ隠しにしたってもう少し言い方があるんじゃないのかい?」


「はっ、照れも隠しもしていない。単なる事実だからな」


 冷淡にそう言ったアンブルの様子に呆れたようにモノクルの男性は溜め息を吐き、「全く、相変わらずだね」と呟く。一方、一笑に付されたクレールは眉尻を下げて困り気味に笑んだ。


「君も、言われっぱなしは癪だろうに」


「いえ、正直なところ何一つ反論できませんから」


「む、それはいけないなあ少年。言われるがまま、というのは損をするよ? 嘘でもはったりでも強がりでも、何かを主張するのは大事なことさ」


 言いながらモノクルの男性は立ち上がり、クレールに向けて右手を差し出した。反射的にクレールも右手を差し出し、深い皺の刻まれた思いの外分厚い男性の手と握手を交わす。「初めまして」とテノールが響いた。


「申し遅れたね、私はここの店主のバルタザールだよ。ええと、君は」


「クレールと言います。よろしくお願いします、バルタザールさん」


「はい、よろしく。……礼儀正しくていい子だ、どこかの誰かさんと違ってね」


「ふん」


 そっぽを向くアンブルに「やれやれ」と呟いたバルタザールは、握手を解いて元居た椅子へと座り直す。脚を組んで背もたれにゆったりと体を預けるその姿には、懐の広さと余裕が感じられた。

 さて、とバルタザールは一言置き、改めてクレールと視線を交わす。


「武器を選びに来た、ということだけども……どういったものがいいのかな?」


「だから、ずぶの素人でも扱えるようなものだと言っただろうが」


「私は本人に聞いているんだけどねえ」


「いえ、アンブルの言う通りですよ。恥ずかしながら僕も自分で何を使えばいいのか、見当すら付いていない状況でして」


 クレールが言うと、バルタザールは「ふむふむ」と頷く。


「素人、というのはあながち誇張でも無かったわけだね」


「さっきからそう言っているだろうが」とのアンブルの呟きを聞き流し、バルタザールは顎に手を当てて唸った。


「そうだな……クレール君、君はどんな魔法が得意なんだい?」


 唐突に変わった話題に、クレールは一瞬反応が遅れてしまった。「……得意な魔法、ですか」と反駁した後、彼は頭に手を当てて考え込む。

 その様子を見てか、苛立ち気味にアンブルは「聞いても無駄だぞ、バルタザール」と口を挟んだ。


「こいつはこちら側に来たばかりの異界人だからな。多少魔法は使えるようだが、得意不得意を自覚出来る程使い慣れてはないだろうさ」


「そうなのかい?」


「ええ。魔法そのものは数えるほどしか使ったことがありません」


 正直にそう言うと、バルタザールは再び考え込む姿勢になり「となると、何が良いんだろうね」と頭を悩ませ始めた。

 何の武器も扱ったことの無い正真正銘の素人、しかも自分がどんな魔法を使えるか把握もしていない人間に相応しい武器を勧めるのは、やはり難しいだろう。

 せめて、自分の得意不得意を知りたいところだが……と、そこまで考えたクレールの頭の中に、ふと一つの案が思い浮かぶ。


「すみません……鏡を貸してもらえますか?」


「は? 何だいきなり。こんな時に身嗜みでも整えるつもりか?」


 しかめ面で遠まわしに非難を表すアンブルに「少し試したいことがあるんだ」とクレールは返す。

 バルタザールは小首を傾げつつ「少し待っていてくれ」と店の奥に引っ込む。どうやら鏡を出しに行ったようであった。

 待つことしばらくして、バルタザールが手鏡を持って店の奥から姿を現す。「これでいいのかな?」とその手鏡を差し出されたクレールは、丁寧に一礼をして受け取った。


「ありがとうございます。……では」


 手鏡の真ん中に自らの顔を映すクレール。灰髪灰目、浅黒い肌の相貌と視線を合わせると、彼は『目』の魔法を行使した。

 淡く光る瞳。鮮明になりゆく視界。その中でクレールは『あること』を望み、更なる魔力を眼球へと注ぎ込んだ。すると────


 ──対象の魔法素養判断、開始。……解析完了、限界値を十として数値化。情報を開示。

 物質・動:六。物質・静:六。運動・動:六。運動・静:六。

 肉体・動:六。肉体・静:六。精神・動:六。精神・静:六。

 現象・動:六。現象・静:六。環境・動:六。環境・静:六。

 全素養において可も不可も偏移も無し。本解析結果を基準値として設定し、以後の素養解析の指標とする──


 流れ込んだ情報を確認するように一つ頷くと、クレールは静かに口を開いた。


「……得意な魔法は、特に無いようですね。苦手なものもありません」


「お前、今何をしたんだ」


 不思議そうな顔で問うアンブルに、クレールは「恩恵魔法で僕自身の魔法素養について調べてみたんだ」と簡潔に返す。


「は、便利な目をしている。……だが信用できるかどうかは分からんな。その恩恵は、私の素養も分かるのか?」


「恐らくは。……やってみようか?」


 アンブルは頷く。ならば試しにと、再びクレールは己の双眸へと魔力を注ぎこむ。琥珀色の瞳と目線が合うと同時に、情報の流動が始まった。


 ──対象の魔法素養判断、開始。……解析完了、限界値を十として数値化。情報を開示。

 物質・動:八。物質・静:六。運動・動:十。運動・静:六。

 肉体・動:十。肉体・静:六。精神・動:六。精神・静:六。

 現象・動:四。現象・静:三。環境・動:四。環境・静:二。

 運動及び肉体の動的素養著しく、瞬時の自己加速力は天賦の才と評すべき。その他物質素養にも優れる。現象及び環境魔法は不得手──


 クレールは、現れた結果をそのままアンブルに伝える。すると彼女は「ほう」と感心したような声を上げた。


「なるほど、効果自体は信用は出来そうだな」


「……アンブル、君はもしかして凄い人なんじゃないのか」


 素養の解析結果からして、得手不得手の差は激しいものの得意分野においては並外れた才覚を持っていることが分かる。

 昨夜リナが言っていた『二年目最強』の名は伊達ではないということなのだろう。


「は、今更だな」


 自慢げに鼻で笑うアンブルを「まあ、それはそれとして」とバルタザールが流す。彼女が苛立ちの言葉を発する前に、バルタザールは言葉を並べ始めた。


「クレール君もなかなか珍しい魔法素養を持っているみたいだね。大抵の場合は、静・動どちらかに寄るなり属性が偏るなりするものなんだけど」


「そうですか……となるとやはり、武器を選ぶのも難しいのでしょうか?」


「いやいや、そんなことはないよ? むしろ、君にちょうど良いのがあるんだ。済まないが、少し待っていてくれるかな」


 そう言うとバルタザールは再び店の奥へと引っ込んでしまった。ぱたりとドアが閉まる音を聞き、静寂が訪れた店内でクレールは戸惑いがちにアンブルの方を見る。


「どうすればいいんだろうか」


「黙って待っていろ。バルタザールは逐一私をいらつかせる奴だが、腕と目だけは確かだからな」


 冷たく言い放つとアンブルは、腕を組んで店の柱にもたれ掛った。

 苛立つ理由を作っているのはそもそも君自身ではないのだろうか、と考えたクレールであったが、それを口にするほど彼は愚かでも勇敢でもなかった。




 ◇




「お待たせ、クレール君」


 バルタザールが持ち出して来たのは、やや白味の強い銅色をした棒であった。長さは、床から立てれば胸のあたりまで届くかどうかというところである。

 てっきり剣や槍の類が出てくるものだと思い込んでいたクレールは、拍子抜けした様子で言葉を零した。


「それは……棒、ですか?」


「おい、耄碌したかバルタザール。武器を寄越せと言ったのに何故銅の棒切れが出てくるんだ」


「棒ではなく杖と言ってほしいところだね。これは『魔銅杖』というんだ。樫の木に青銅を纏わせた杖でね。青銅の中にはほんの僅かに銀が含まれている」


「はあ……青銅に銀、ですか」


 思わず気の抜けた返事を返す。クレールにはそれが意味のある組成だとは思えなかった。

 柔らかい上に重い銀は、そもそも武器類には向かない金属である。それをわざわざ青銅に加える理由が分からなかったのだ。

 というよりも青銅自体、鉄や鋼に比べれば強度も低く重量もかさみ、武器の主材料としては一段劣るのではないだろうか。

 そんなクレールの疑問を察したのか、バルタザールはゆっくりとした口調で説明を続ける。


「青銅も銀も、魔力をとてもよく通す性質を持ってる。特に銀は顕著だね。要は、魔法の影響を受けやすいんだよ」


「……それはつまり、魔法による強化を前提とした武器、ということですか?」


「正解だよクレール君。ではちょっと実践してみようか」


 そう言うとバルタザールは、両手で魔銅杖を端を握り軽く一振りする。すると、棒状であった杖の形が流れるように変化し、片刃の剣となった。

 その後も杖は、二度三度と振られるたびに槍、鎌、斧とその姿を変えていく。その不可思議な光景に、クレールはしばし見入っていた。


「とまあこんな具合に、扱いに慣れれば自在に形を変えることが出来る。強度や重量も思いのままさ」


「そんなもの、普通の鉄剣でやればいいんじゃないのか」


「やろうと思えば出来るだろうけどね。でも言ったろう? 青銅と銀は魔力をよく通すと。これだけのことを少ない魔力で出来るのが、魔銅杖の特徴なんだよ。

 さらに言えば、使える魔法の数が多ければそれだけ魔銅杖の用途は広がるんだ。主に使うのは物質魔法と運動魔法だけど、他人に肉体魔法や精神魔法の掛ける時の媒介としても使えるし、炎を纏わせて魔獣を追い払ったりも出来る」


「金属なのに燃えるのか?」


「燃えるというより現象魔法の発生源になる、というイメージかな。まあ、慣れない間は重量軽減と強度操作程度の魔法を掛けておけば鈍器として十分扱いやすいものになるから、魔獣を追い払うくらいは出来るんじゃあないかな」


 一通り説明を終えたバルタザールが「で、どうだろうか」とクレールヘ問う。

 既に魔銅杖に心奪われていたクレールは、是非に手に取ってみたいという衝動に駆られたが、同時に非常に気になる点があった。


「面白そうな武器だとは思います。……ですが、その、値段の方は」


「ただで持って行って構わないよ」


「え!? それは……その、いいんですか?」


 多分に驚きを含んだ声でクレールは聞き直す。バルタザールはやはり柔和な笑顔を浮かべて「ああ、大丈夫さ」と大らかに言い、クレールに魔銅杖を手渡した。

 しっかりとした重みと、金属の冷たさが手に伝わる。本当に良いのか、と申し訳なさを含ませてクレールが確認の言葉を口にしようとする前に、バルタザールがそれを察して喋り始めた。


「実はその魔銅杖、私の娘が作った習作なんだよ。店に置いておけるくらいのいい出来なんだけど、本人が『習作にお金なんて出してもらえない』と売ることを渋っていてね。……ただで譲ったのならあの子も文句は言わないだろう」


「ほう、ロロットがか。いい出来のものなら売ってしまえばいいものを、あいつも相変わらず頑固だな」


「はは、アンブルがそう言っていたと伝えておくよ。どの口が言ってるんですか、なんて返されるだろうけどね」


 そう語るバルタザールの表情は、先ほどにも増して緩んでいる。娘のことを大切にしている気持ちがにじみ出ているような表情であった。 


「武器屋というのは、作ったものを使って貰うところまでが商売だからね。あの子には出来るだけ早く、その経験をしてほしいんだ」


「お子さん思いなんですね」


「は、唯の親バカだろうが」


「どちらも否定はしないよ。うちの子は目に入れても痛くないからね」


 何一つ恥じ入ることなど無い、と言いたげにバルタザールは断言し胸を叩いた。余程自慢の娘なのだろう、とクレールの頬もつられて緩む。


「クレール君も、もしかしたら娘に会うことがあるかもしれないね。背が低くて少し小生意気なロロットという総合科生を見かけたら、その時はよろしく頼むよ」


「はい。その時は武器の礼も含めて、きっちりと挨拶をしておきます。ありがとうございました」


 ひとつの約束して、クレールは今一度魔銅杖を強く握り込み深く一礼をした。




 ◇




 ミシュリーヌには、暗い紅を身の回りに置きたがる癖があった。故に学園長室の床には深紅のカーペットが敷かれており、キャビネットや机などにも赤い装飾があしらわれている。

 部屋の奥に置かれた大きめの木製のデスクの上には、書類の束と深紅のペーパーウェイトが乗っている。書類の表紙には『森の庭の異常調査』と記されていた。


「では、当日の監督はよろしく頼むわね、ゼナイド」


「承知しました、学園長」


 自席に座る白髪の老女ミシュリーヌの言葉に、ゼナイドははっきりとした口調で返す。仕事として依頼されたことだ、完遂せねばなるまい、と彼女は気を引き締める。

 しかしながら、気になることがあるのも確かであった。件の異界人に、何故学園長自らここまで手を回すのだろうか。

 衣食住を与えた件は、他の異界人学園生もほぼ同条件であるからまだ良い。現金を与えることも、彼の事情を鑑みれば理解できる。

 だが。

 『予知』を使ってまで彼の行動を把握し、私やバルタザール、アンブル、テオに引き合せるよう手を回すなどと。そこまでのことをする理由が分からない。

 ゼナイドは密かに訝る。なぜ―――


「なぜそこまでするのか、かしら」


「っ、いえ、そのような――」


「誤魔化さなくても、分かるわよ。人よりも長く生きているとこういうことばかり得意になるわね」


 少しの自嘲を滲ませてミシュリーヌは目を細める。恐らく彼女は読心すら使わず、ゼナイドの心中を察したのだろう。

 寂しげな遠い目をする彼女にどのような言葉を返せばいいのか、ゼナイドが逡巡していると、ミシュリーヌはぽろりと、本当に自然に、その言葉を放り投げた。


「――――クレールは、異界人ではないわ」


 ゼナイドは言葉を失う。初めは言葉の意味が分からず、次に聞き違いかと感じ、しばし二の句を継げなかった。

 やっとのことで「……それは、どういうことでしょうか」と絞り出すと、ミシュリーヌは嫌に真剣みを帯びた声で言う。


「私が彼の深層に触れたことは、以前話したわね? 

 あの子は、本当に『初めから』魔法を知っていた。それどころか、この世界においてのある程度の文化や常識も『初めから』知っていたのよ。

 わかるかしら。森の庭に立った瞬間、それよりももっと前からよ」


「……どういう、意味でしょうか」 


 ゼナイドの今の内心を表すのに、それ以上の言葉は見つからなかった。そしてミシュリーヌは、彼女の疑問に簡潔に答える。


「────彼の深層心理には、莫大な量の情報が保管されていたの。のね」


 今度こそ、ゼナイドは返す言葉を失った。理解が追い付かず、表情が驚愕に氷る。


「十年や二十年分では利かないわ。恐らく百年単位、ともすればもっと……とにかく、常識では考えられない量の情報が、彼の深層には詰め込まれていた」


「…………そんなことが、あり得るのですか?」


「わからないけれど、事実としてクレールの精神はそうなっている。もっとも、その情報が保管されていたのは本当に深層の奥底だったから、彼自身はほとんど自覚していないでしょうけれどね」


 ここに来てゼナイドはようやく、ミシュリーヌがクレールを特別視する理由を理解する。

 ……そのような奇特な存在を、放置しておく方がどうかしている。


「遠くない未来に、きっと何かが起こるわ。……私の恩恵がそう告げている。彼が現れたことも、森の庭でのことも、恐らくはその前触れ」


 深刻な表情でミシュリーヌが告げる。彼女の恩恵が、『予知』がそう告げているのならば、その確率は限りなく十割に近いのだろう。

 ゼナイドの表情に緊張が走る。切れ長の鋭い目は、さらに険しさを増していた。


「森の庭での一件、危険な事になっては来ているけれど、貴女になら十分に任せられるわ。ゼナイド、もしもの時は頼むわね」


「……承知しました」


 ゼナイドの返答を聞いたミシュリーヌは、すっと目を伏せる。これから何が起こるというのか、ゼナイドの心は不安と焦燥に炙られ始めていた。



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