第4話

 軍港から出港して一時間余り。

 クイジーナ2はラ・ムール星系外縁部を目指して加速を続けていた。


「進路クリア。航路問題なし」


 一〇時からの当直ワッチ交代に伴って、船橋の航法席に着いたばかりのダンが航海長のマシュー・ラングーンへと報告している。

 マシューは自分の航海長席の背凭れにだらしなく凭れていた。

 彼の目の前の操作卓コンソール上には彼の目にしか映らないように視野角を調整されたホログラムディスプレイが幾つも浮かんでいる。


「うし。加速度を保って前進……ッ!」


 鼻毛を抜きつつ答えた。

 だがその目は、ホログラムディスプレイに投影され、目まぐるしく増減する幾つもの数値を鋭い目つきで走査している。


 宇宙空間での航法は星系内の通常空間での航法が全ての基本となる。

 簡単に言うと、星系内の各惑星や衛星の地表上にある電波基地から発信され続けている電波の位相差を計測する、非常に進化した双曲線航法とも言える。また、これと併せて星系太陽からの電磁波や光照射量を計測して星系内での現在位置を特定している。


 宇宙での航法とは、これらの電波などを計測してその強弱や到達方向から計算によって現在地を導き出すことが全ての土台であると言えた。

 要は、星系内の各所に設置された電波基地などの設備や、膨大な年月に及ぶ太陽の観察データが無ければお話にならないのだ。


 当然、普通は全て航法コンピューターが自動的に、且つ瞬時に計算してくれる。


 とは言えそういった設備が整っていない星系もあるし、ましてクイジーナ2は未知の宇宙空間を切り拓く先駆者的な存在なのでかなり遠距離から発信された電波を受信可能な超高性能のセンサーをふんだんに装備している。

 電子・光学装備だけは宇宙軍の強行偵察・データ収集艦もかくやというほど贅沢な装備品に埋もれていた。


 数千光年も離れた場所から何千年も前に発信された電波を拾い、瞬時に解析出来る船は官民併せて一〇万単位の宇宙船を保有する合星国にも四桁とない。そのうちの貴重な一隻であった。


 しかし、現在は宇宙軍術科学校の練習航海を兼ねているため、それらの計算は各航法士席に備わっている機材を使用せずに小型の電子計算機に数値を手や口頭で入力して行わねばならない。


――えっと、次は……。


「加速度報告、まだかっ! おせーぞノロマ!」


 マシューに怒鳴られるダン。

 因みに、特に遅いと言う程ではない。


「は、はいっ……現在加速度、標準重力四・八五七!」

「小数点以下は二桁でいいんだよっ! 三桁目は四捨五入しろっ! ボケ!」

「申し訳ありません! 現在加速度、標準重力四・八六!」

――教本には四桁目を四捨五入しろって……国土省は違うのか?


 ダンは思わず傍の補助席に視線を送った。

 そこに座っている筈のロッシ教官はつい先程マシュー航海長に請われて第二四光学センサーの調子を見に行ってしまっていた。


――くそ。教官がいない時を狙って俺をいびってるのか?


 確かに術科学校でのシミュレーションや去年行ったゴモラン星系での星系内航海実習では四桁目を四捨五入しろと言われていた筈だ。

 些か納得しがたい思いを抱きながらもダンは今後の為にも“三桁目を四捨五入”と心に刻む。

 この程度の理不尽などは今までにも幾らでもあった。

 言っている方も理不尽を承知で口にしているのだ。

 同じミスを繰り返さなければそれでいい。


「機関長、エンジンの調子はどうか?」


 船橋で一段高い位置に足を組んで座し、今まで黙っていたバーグウェル船長が機関長に尋ねた。


「二番が息を吐きそうですが……ま、大丈夫でしょう」


 落ち着いた様子で機関長が返事をする。

 船長は鷹揚に頷くと「航海長、ポイント二五、座標ツェー五六到達までに加速度を七まで引っ張れ」と更なる加速を命じた。


「了解しました。おい、ノロマのナメクジ。ポイント二五、座標ツェー五六到達までに加速度を七まで引き上げる。エンジンの加速率は? 幾らに設定すればいい?」


 ニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべながらマシューがダンに尋ねた。

 ダンは船長が発言し始めた時から手元の計算機を使って計算を始めていた。


「は……現在時より一分後から毎秒一〇二・二五%であります!」

――間違いない。これなら指定された位置の一光秒くらい手前で加速度は標準重力七を超える筈……。


「一〇二・四七だ、ダァホ! 間違えた理由を言え、コオロギ野郎!」


――何で!?


 ダンは自信を持って答えていた。

 クソ、一体どこで間違えた!?

 もう一度計算……おかしい、合ってる筈だ!

 もう一度……。


「遅ぇ! 戦闘中なら全員死んでるぞ、蛆虫! お前はヴェルダイの回し者か? あぁん!?」


 く……。


「機関長、二番は他のエンジンの何割まで出せる?」

「九二%までは保証出来ますよ、船長。エンジンの出力曲線はギム八でモニターできます」


 船長と機関長の会話を耳にしたダンは愕然とする。


――それだ! 二番エンジンの調子が悪い分、他のエンジンを調整して加速を稼がなきゃ……でもそんなの聞いてねぇし、知らねぇよ! さっきからコンソールを見る暇もくれずに手計算ばかりさせやがって……くそ! 大体この船は国土省に行ってから機関不良は安定したって……。


「申し訳ありません! 全エンジンの出力が均一であると思い込んでおりましたっ!」


 勿論エンジン出力の調整は航海科であるダンには直接関わりはない。機関科の範疇である。

 聞いていないから出来ない、知らない、自分の担当範囲に関係無いから興味が無いと言うのは通用しない。

 ダンが“全部のエンジンは正常に運転中である”と勝手に仮定していただけのことだ。


 常に周囲の事象を観察し、聞き耳を立て、今の想定で本当に正しいのか疑念を持って確認をしてから初めて実行に移す。

 学ぶにおいて一見効率が悪いようにも思えるが、これを習慣づけて常に無意識に出来るようにならないと何年経っても自分一人で対処することが出来なくなる。

 自分以外の者が犯したミスに気付くことも出来ない。

 すっかり忘れていたが、軍に入ってすぐに入校した下士官養成の兵学校で一番最初に言われたことだ。


――上官が全員戦死したらどうする? そんな時でも聞いていないから知らないなんて通用しない。貴様らは兵の手本となる下士官になるんだ! 場合によっては分隊や小隊を指揮することもある! 周囲には常に何でも知っている奴がいると思うな! 習ったことなら子供でも出来るんだよ! 一人前の下士官になりたきゃ一を聞いて十を知れ! 聞かされていない事、習っていない事でも完璧にやってのけろ! ……死にたくなきゃ、そうしろ。そうするしかないんだ。


 当時はあまりに理不尽なことを言うので、同期生達と冗談がきついと笑い合っていた。


 だが、練習航海は実戦を想定して行われる。

 勿論、“練習”なので本物の戦闘発生は想定されていないが、過去には練習航海中の巡航艦がヴェルダイ連邦の強行偵察艦と遭遇して戦闘が発生。その結果、二〇〇人余りの訓練生諸共撃沈されてしまった例もある。


 再度全エンジンだけでなく、積み荷であるたねや燃料の質量ばかりか食料や水の質量までチェックし直し、おまけにチェックや計算に掛かった経過時間まで考慮に入れて、ダンは回答を口にした。


「……よぉし。アブラムシにしては上出来だ。俺のカウントダウンに合わせて加速度を一〇二・四八三に上げろ。……四八」


 マシューの言葉を聞いてダンはゴクリと唾を飲み込み、コンソールから数値を入力した。

 四捨五入は三桁目じゃないのかよ!……と思いながら。

 そしてコンソールに投射されたホロキーボードの実行キーの上に指先を置く。

 ホロキーボードはキー位置から指を離した時に感知されるのだ。


「全乗組員に達する。こちら船長。これより再度加速シーケンスに入る。重力制御エリア外に居る者は直ちに身体を固定し加速に備えよ。以上」


 船長が襟元のマイクに向かって船内全てに警告を発している。

 勿論、現時点ではセンサーを見に行ったロッシ教官も含めてバイタルスーツを身に着けている全員が重力制御エリアに居る事はダンも確認済みである。

 彼が様子を見に行った第二四光学センサーはそもそも重力エリア内にある。


――流石にあの子……カミラも加速が続く今日明日は重力エリアでおとなしくしてるだろう。


 重力エリア内であれば加速による高重力下に曝されることはない。

 尤も、現在の加速度である約四・八六Gから僅か二・五%加速度が増える程度なので重力制御エリア外だとしても体に掛かる影響はあまり変わりはない。


「……三〇……二〇……一五……」


 航海長が読み上げるカウントダウンは順調に進んでいく。


「……一〇……五……四……三……二……一……今!」


 ダンはホロキーボードから手を離した。


 そして、クイジーナ2は無事に規定速度に達した。

 この後も何度か今のような加速を行っていけば、明後日の朝にはラ・ムール星系からたっぷり一〇〇光秒は離れた地点に到達が可能なスケジュールに乗ることが出来た。




■□■




 その日の夜。

 ダンは勤務時間である当直ワッチから開放された後、さっとシャワーを浴びてから食堂に向かった。

 食堂は当直交代直後のために喧騒に包まれているかと思ったらそれ程でもなかった。

 本来は大型輸送艦であったために便乗者もここで食事を採ることを考慮した設計になっているので乗組員の数よりも大分広いからだ。

 食堂内を見回すとダンと同様に現在のシフトに入っていない乗組員や術科学校の生徒達が思い思いにテーブルに固まって雑談をしたり食事を摂ったりしている。


「あー、もう……たまんねぇよ……」


 その中に同じ航海科の同期であるミッシュの顔を見つけたダンは、彼の居るテーブルの椅子を引いて座ると同時にぼやいた。


「お前もこってりやられてたな、ダン。俺も……」

「知ってるよ。一六〇〇ヒトロクマルマルから俺の隣に居たんだから」

「ああ。でもよ、やっぱり軍の船じゃないからかな? 殴られなかっただけラッキーだとでも思わなきゃやってられなかったぜ」


 二人共、本物の加速の合間に何度も加速計算シュミレーションをやらされ、回答までの時間が遅いとか、想定内容に聞き漏らしがあるとか、何かと難癖を付けられては殴られる代わりに腕立てや腹筋運動をさせられていた。

 傍で見ていたロッシ教官は何も言わず、やれやれとばかりに溜め息を吐いて首を振るだけで特に何も口を挟むことはなかった。


「それ、旨いか?」


 ミッシュの食べていた何かの揚げ物を見て尋ねるダン。


「ん? ああ、そこそこだな」


 それに、適当な返事を返すミッシュ。

 同時にバイタルスーツに内蔵されている時計で時刻を確認すると、ミッシュは食べる速度を上げてあっという間に食べ終わってしまった。


「悪ぃ。俺、明日の〇四〇〇マルヨンマルマルから次の当直ワッチなんだ。寝れるうちに寝とくわ」

「おう、じゃあな」


 現在時刻は二二二八フタフタフタハチ

 ミッシュは五時間程度寝るだけで、すぐに次の六時間当直が待っている。

 対してダンはこれから連続十二時間の休憩となる。

 船の航海科は通常六つの班で構成され、それぞれ六時間から二四時間の勤務が不定期に回ってくる。

 常に三つから四つの班が持ち場に就いている状態を保っているのだ。

 それは軍艦であるなしに区別はない。

 因みに戦闘中でも余程の状況――被弾したりして艦のダメージコントロールや応急修理が必要になるなど――でない限りはどれか一つの班は休憩中である。


「俺も飯食おう」


 独り言を言いながらミールベンダーに向かい、何を食べようか少し悩んでいた。


「ふーむ……」


 ミールベンダーのモニターに表示されるメニューの説明に見入っていたダンは近づいてきた人に気が付かなかった。


「早く選べよ」


 横から手が伸び、決定ボタンをタップした。


「あ? 何す……ゲインか」


 疲労困憊と言った様相ながらもニヤリと笑うゲインが居た。

 バイタルスーツもまだ着たままである。


「それな、俺の故郷の料理だ。ダージルって動物の肉なんだけど、旨いぜ」

「へぇ。ま、折角だから食うよ」

「おう、そうしろ。俺もそれにする」


 二人は料理のプレートを持って空いているテーブルに着いた。


「お前の方、どうだった? 俺はこってりやられた。あの航海長……意地悪すぎるわ」


 ダージル肉の煮込みにフォークを突き刺しながらダンが零す。


「ああ、俺の方も似たようなもんだ。一基、エンジンの調子が悪くてな……」


 ゲインは付け合せのサラダから片付けるようだ。


「知ってる、二番だろ? 俺はそれを知らなくてさぁ……」

「俺の班もそれでくっそどやされた。この十八時間、テスター持って駆けずり回ってたわ」

「そりゃ大変だったな」

「おうよ。久々に座って飯が食える有り難みを噛み締めてるよ」


 二人がぶつぶつと不平を言いながら食事を摂っていると、当直交代から多少時間が経ったこともあって食堂で過ごす人の数も大分減ってきた。


「ところでお前、まだシャワー浴びてねぇの?」


 ダンは食後のお茶を飲みながら、ゲインの汗でべとついた髪を見た。

 長時間勤務であればバイタルスーツに覆われていない頭部と排泄器官周辺はどうしても汗を掻いてしまうのは仕方のない事である。


「ん? ああ、機関科はエンジン状態の引き継ぎがあるから当直は一〇分前集合、一〇分遅れ解散なんだ。臭うか?」


 少しだけ遠慮したような顔でゲインが言う。


「いや。当直が一〇分遅れって知らなかっただけだ。だから、交代してすぐにシャワーも浴びず、飯に来た訳でもないんだな、と。一体何してたのかと気になってな。まぁでも疑問は解決した」


 お茶のカップを口に運びながらダンは納得したような声で頷いた。


「探偵か、お前。それはそうと、十八時間の当直明けでまず飯食いに来ない奴なんかいねぇよ」


 こうして二人が就寝前の時間を潰していると……。


「ここ、いい?」


 突然に声を掛けられた。


「え、エリスナーさんじゃありませんか! どうぞこちらに!」


 声の主を見上げたゲインは弾かれたように席から立つと自分の隣の椅子を引く。


「どうも……」


 カミラは一つ礼を述べると軽く会釈をして席に着いた。

 手にはお茶か何かが入ったカップを持っており、昨日とはデザインの異なる小洒落た服に身を包んでいる。


「どうしたんです? 私に御用でも?」


 ゲインはニコニコしながら声を掛ける。


「……やぁ」

「……やぁ」


 ダンが簡単に挨拶をするとカミラも同じように返してきた。


「今日はしっかりと着てるみたいだな」

「ええ……」


 襟元から覗くバイタルスーツの制御コンピューターユニット。

 そして手の指先までを覆っているセンサーフィルム。

 しっかりとバイタルスーツを着込んでいるのは明白である。

 ダンの方は当直が終わり、休憩時間に入ったこととシャワーを浴びた直後であるのでバイタルスーツは身に着けていない。


「え? 着てるって何を?」


 ゲインはカミラの方を見たが特に変わったものを身に着けているようには見えなかった。


「おい、ダン。何を言ってるんだ?」

「ん? ああ、ちょっとな」

「ちょっとって何だよ? 何親しげに着てるとか言ってんだ?」

「いや、今日はバイタルスーツを着ているんだなってだけだ」

「……着てない所を知ってるってことか?」

「変な風に言うなよ」

「変な風に捉えるなよ」


 その間カミラは苛ついたようにカップを弄んでいた。

 しかし、思い切ったように中身を一息に飲み干す。

 タン、とカップをテーブルに置いた音がダンとゲインとの間に響いた。


「すみません、ちょっとこの人と話したいので黙ってて貰えます?」

「はい……」


 カミラはゲインにピシャリと言って黙らせたものの、自分に話があると聞いてカミラを見つめるダンと目を合わせることは何故だか出来なかった。

 ダンは訝しげな顔をしてカミラを見ている。


 やがて、奇妙な沈黙に耐えられなくなったダンは「話って?」と先を促した。


「……うん、あの……」


 歯切れの悪い返答だけがダンの耳に届く。


「き、勤務表を見たの。それで、今日は二二時で終わりみたいだから、その後にここに来れば会えると思って……」


 ダンには少々意外なことに、カミラはダンに会う事が目的で食堂に来たらしい。


「その、しょ、食事は?」

「ああ、たった今食べ終わった所だよ」

「え? そう……なんだ」

「エリスナーさんは? もう食べたの?」

「と、当然でしょ! こんな時間だもの。とっくに食べたわ」


 カミラは少し慌てたように言うが、言っていることは至極当然だ。船内勤務に組み込まれている訳でもない学術調査隊の面々であれば数時間前に夕食を済ませていて当たり前の時刻であった。


「ん、そりゃそうだ。当直に組み込まれると時間の感覚がずれちゃってね」


 照れくさそうに言うダン。


「ああ、船って全員が休めないものね。順番に休みを取ればそうなるわね」


 カミラも納得顔をして頷いた。


「……ところでエリスナーさんは何を選んだの? 俺はダージリャードって奴を食べた。こいつの故郷の料理らしいんだけど結構美味かったよ」


 カミラは話があるというのに一向に本題に触れて来ない。

 内心で首を傾げながらダンは適当な話題を振る。


「うん。ダージリャードは美味いよ。一度食べて……そんな冷たい目で見なくても……」


 話題に加わろうとしたゲインにカミラは氷の一瞥を与え、再び黙らせた。


「うーんと。エリスナーさん。話があるなら早めにお願いできないかな? こいつは連続一八時間の当直を終えたばかりだし、俺も半日の勤務が終わったばかりなんだ」


 カミラの態度に少しばかり苛つきを露わにしながらダンが言う。


「……そう、よね。疲れてるとこだもんね……」


 ダンの言葉を聞いてもじもじと自分の指先を見つめるカミラ。


「その……昨日は……あ、あり、がと……」


 真っ赤になって俯きながら、カミラはボソボソと小声で喋る。


「お礼なら昨日も言って貰ったし、そんなに気にしないでいいよ」


 何を言われるのかと思っていたら昨日助けたお礼……何かころころと印象が変わる子だな、と思いながらダンは答えた。


「は、話したかったのはちゃんとお礼を言いたかったから……その……昨日は思わずあんな態度で……あと、私のせいで怒られちゃって、ご、ごめんなさい」


――俺が航海長に嫌味を言われたことを気にしてくれていたのか……。この子も嫌な思いをしただろうに……。


 ダンの顔には自然と微笑みが浮かんでいた。


「何があったんだ?」


 思わず疑問を口にするゲイン。

 しかし、今度はカミラも何も言わず、また、態度も変わらなかった。


「ん、ちょっとな……エリスナーさん、無重力は初めてらしくてさ」

「ふーん、で?」

「遊泳のコツを教えて貰っただけ。そこに航海長さんが来て、この人にサボってるんじゃないって……」


 ちょっとだけ慌てたように説明をするカミラだが、その内容は意図的にフィルターが掛けられている。

 それに気がついたダンは苦笑しながら「それだけだよ」と答えて席を立った。


「あの……」


 トレーを持って席を立ったダンに、遠慮がちに声を掛けるカミラ。


「無重力遊泳を……」


 小さくなる語尾。

 ダンは彼女が言いたいことを理解した。


「教えるのは構わないけど、今日はこの後、勤務報告を書かなきゃならない。それに、申し訳ないけどちょっと疲れていてね。今は寝たいんだ。それに無重力遊泳なら俺なんかよりゲインこいつの方がずっと上手な筈。普段、重力調整されてない機関区画に張り付いてるからさ」

「そうそう! 無重力遊泳なら俺は得意だぜ! 俺は十八時間の休みだからこいつと違って余裕あるよ。なんならこれからすぐにでも手取り足取り……」


 水を得た魚のようにゲインが捲し立てるが、カミラの「汗臭い人は……」という言葉と再び放射された氷の刃のような視線に口を閉ざした。


 カミラが食堂を出て行くダンとゲインの背中を見つめていると、彼女の腹の虫がくぅっと小さな音を立てた。

 誰かに聞かれていないかと慌てて周囲を見回すが、近くのテーブルで駄弁っている乗組員達には気付かれなかったようで、ほっと胸を撫で下ろすカミラであった。




☆★☆




「明日の朝……予定通りなら八時五五分頃に最初の跳躍移動ハイパードライブをする。絶対に忘れないでくれよ」

「勿論だ」


 第三船倉制御室カーゴコントロールルームで背の低い男が背の高い男と話をしていた。

 

「こいつのモニターラインにはダミー情報を流してあるし、記録も取られないようにしているから使ってもバレることはない。でも、その御蔭で動作しているかモニターも出来ないから……絶対にその時間までには冷凍睡眠コールドスリープしておいてくれよ?」


 光速を超えるどころか、瞬間移動ワープとも呼ばれる跳躍移動ハイパードライブ

 簡単に説明をすると、跳躍移動ハイパードライブとは、船をまるごと別次元に移動させ、その後、予め指定しておいた通常空間座標に戻すことである。その際、船の中で流れる時間は通常空間の物理的な距離に応じたものとなるが、一〇〇〇光年もの移動を行っても二〇時間ほどしか経過しない。

 しかし、その二〇時間が問題になるのだ。


 異次元空間内は暗黒物質ダークマター未知の物質コートニーで充満しており、それが移動距離に応じて体内を透過する。

 その際に固体のごとく固定化されていない生物は透過量に応じて体組織を構成するタンパク質が破壊されてしまう。

 それを防ぐには冷凍睡眠コールドスリープによる固体化が必要になる。

 二〇時間もの長期に亘って毛程も身動きせず、心臓の鼓動を含む不随意運動すらも止め、体内を巡る血液や体液の移動さえも完全に抑えられるのであれば冷凍睡眠コールドスリープは必要ないが、そんな生物は数万年前にゴムク星系で発見された珪素系シリコン生物だけであった。


 つまり、跳躍移動ハイパードライブを行う際には船の乗員は全て冷凍睡眠コールドスリープに入っている必要がある。

 勿論、冷凍睡眠コールドスリープと言っても本当に微細な動きは行われるが、その程度であれば問題にはならない。だが、過去の実験により、速度が一定値を超えると未知の物質コートニーがタンパク質を透過する際に致命的な破壊を引き起こしてしまうことが判明している。


 例外としてごく僅かな移動距離――例えば通常空間座標位置で数㎞程度の転移装置など――であれば体内を透過する未知の物質コートニーの量もゼロと言っても過言ではないので生命活動についてなんの影響も及ぼさない。


 また、跳躍移動ハイパードライブには他にも未だに解決出来ていない問題点を抱えていた。

 一つは跳躍移動ハイパードライブを行う物体の重心点から一定の範囲内に、その質量の一億分の一以上の質量の別の物体が存在すると次元間移動は失敗し、宇宙の藻屑と消えてしまうことだ。だがこれは高精度なセンサーと範囲や質量の閾値が判明している以上、周囲の安全確認さえ取れれば回避可能である。


 もう一つは一定以上に大きな質量――僅か1t程度――を別次元に送るためには光速の二%以上の速度(この速度は質量に左右されず一定値である)が必要なことである。

 それに加えて、指定座標である通常空間に戻る際には運動エネルギーは全て失われてしまうのだが、この問題については現在の科学力では解決のしようがなかった。


 要するに跳躍移動ハイパードライブに入る時は光速の二%以上の速度が必要だが、入った瞬間に速度はゼロになる。そして別次元にいる間、ゼロに近い速度を保っていないタンパク質は全て変質してしまうのだ。その為、戦闘中に跳躍移動ハイパードライブに入ることは非常に難しい。別次元への移動を行う前には船の乗員は完全に冷凍睡眠コールドスリープに入っていなければならず、操船や迎撃も完全にコンピューター任せとなってしまう時間が発生してしまうからだ。


 また、運良く跳躍移動ハイパードライブに成功したとしても、観察側からある程度の範囲内であれば跳躍移動ハイパードライブの航跡を追うのは容易であり、追撃をするのも容易いのだ。逃げた相手を撃破するには跳躍移動ハイパードライブ用の対消滅エンジンを搭載した無人の誘導弾に目標をロックさせて後を追わせればいい。相手の艦船より誘導弾の質量が小さければ、対象を上回る高加速も可能なために通常空間に戻って運動エネルギーが失われている目標には結構簡単に命中する。


 とにかく、タンパク質の破壊を回避すための冷凍睡眠コールドスリープである。

 当然食材なども常に冷凍されていないと変質してしまう。

 生きた植物も同様なので、妙な表現になるが場合によっては植物にも冷凍睡眠コールドスリープ?を施す必要がある。

 この現象によって、跳躍移動ハイパードライブを行うと船内にいた大半の昆虫や微生物も死滅するのでそこは数少ない利点であるとも言える。体内に巣食い、宿主と一緒に冷凍されない限りは生き延びる方法がないのだ。


「カプセルに入ったら跳躍移動ハイパードライブ連動モードにしてスタートさせれば、あとは寝てればいいんだろ? 俺だって何回か使ったことくらいあるから大丈夫だ」


 背の高い男は弟を安心させるように言った。


「ん、そうだな。でも、くれぐれも時間だけは間違えないようにしてくれよ」

「そこは気を付けるさ」




■□■




 無事に最初の跳躍移動ハイパードライブを終え、次の跳躍移動ハイパードライブの為の加速を始めたクイジーナ2は、船内時間で約半月後に最初の目的地であるドゥーヴァイン4星系の近傍に到着していた。


「ドゥーヴァイン4-4とドゥーヴァイン4-5の間に小惑星帯があるな。ドゥーヴァイン4-3からの距離は……たねからのデータ通信には充分だろう。航海長、この辺りで船を停船させる」


 船長が宣言すると、航海長以下の全員がその命に従って動き始めた。


 また、翌日から開始されるデータのダウンロードに備えて、ファクナー教授を代表とする学術調査隊も生のデータに触れられる貴重な機会を見逃すはずもない。

 船内のデータバンクには彼らが持ち込んだ機材が接続され始め、学者たちも真剣な表情で仕事の準備を始めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る