第17話 奈美恵
アパートのリビングで、ひとりビールを煽る。奈美恵は女性らしくチビチビなんて飲み方はできない。一杯目はもちろんのこと、二杯目以降も喉を鳴らしながらビールを飲む。アルコールは全般的に好きだが、あればビールを頼む。制約がなければ無限に飲めると豪語もしている。
この所、八月十五日の夜はひとりでビールを飲むことが多かった。なぜか夜勤ではなく、夜勤明けで休日の前夜になっているか日勤終わりで、病院で過ごすことはなかった。
陸も去年あたりから、夜になるとひとりで部屋にこもることが多くなり、テレビで流れる精霊流しの様子を見ながら談笑することもなくなった。
奈美恵にとってそれは、寂しいと思う反面、幾分ホットすることでもあった。毎年、存在しない父親のことを、いつ聞かれるか、いつ聞かれるかと思い、事前に設定を復習しなくてもいいからだ。
奈美恵は四本目のビールをグビっと飲みながら、作っておいたキュウリの短冊を味噌に付けて口に入れた。テレビではちょうど芸能人が集まって、東大生にクイズで挑戦する番組が始まった。
それと同時に玄関のドアが開く音が聞こえた。陸が帰ってきたのだろう。ソファにもたれたまま、おかえりぃと声をかける。
現れた陸もただいまと言ってソファに腰掛ける。そこが一番クーラーの風が当たるところなのだ。奈美恵はいつもと違う陸の動きに敏感だった。
「あら、いつもは真っ直ぐ部屋に行くのに、どうしたの」
陸は少しビックリしたような顔をして、すぐに照れ隠しに口を尖らせて、
「今日は暑いから涼もうと思って」と言い訳をした。
「別に、母さんは嬉しいよ。陸とゆっくり話せるんだからさ」
奈美恵は言葉通り、嬉しそうな頬を緩めながらビールを口に運んだ。
「で、今日はどなたとどちらへ行ってきたの」半分丁寧な口調で尋ねた後、キュウリをひと欠片箸で挟んで頬張った。口の中でポキポキと音を立てながら咀嚼する。
「母さんが考えてるような人たちじゃないよ。でも、会って良かったと思ってるよ」
「あんたはそうやって、すぐに話を終わらせようとする。もう少し会話をしようとは思わないの?」
嘘をついたり隠し事が多い子と、口数が少ない子は頭のいい子が多いと言うが、陸はその典型だと奈美恵は思っていた。
嘘や隠し事はないと思っているが、何しろ口数が少ない。
話には起承転結が必要だと聞くが、陸の話には起と結しかない。相手との関係性、質問の意図、話の要点、そして言うべきことと言わざるべきこと。それらを瞬時に判断した結果、起と結の話だけで済ます話法ができあがったと見ている。
奈美恵に言われ、自分でも良くないと思ったのか、陸はしばらく考えて話し始めた。
「母さんが思ってるように、中学の友だちとどこかへ行ってきた訳じゃないんだ。三十歳くらの大人の男性ふたりと七十くらいの老人ひとりと、偶然知り合って、その人たちに会うために香焚町の円徳寺に行ってきたんだ」
今日の振り返りを聞いているうちに、奈美恵の顔から血の気が引いてきた。それは、顔を見ていれば話している陸から見ても明らかなほどハッキリなほど、顔の色が灰色になっていった。しかし、陸はその時、奈美恵の後方に座っており、見えていたのは奈美恵の後頭部、風呂上がりの濡れた髪だけだった。
「心配しなくても大丈夫だよ。ひとりは東京で塾をやってる人で、もうひとりはこっちで精神科のお医者さんなんだって。だから、悪いことは何にもやってないよ」
ひとりでしゃべりながら、奈美恵の、ビールを持つ手が止まっていることにもら気づかない。それは多分、佑樹たちとの出会いが楽しく、意義のあるものだった証拠だろう。
「ああ、それと、円徳寺の和尚さんとも会ったよ。母さんのこと知ってるって言ってたよ。母さん、香焚町の出身なんだね」
それを聞く奈美恵の様子がおかしいことに、ようやく気づいた陸は、母親の方を向いて、こう言った。
「母さん、何やってんだよ。聞いてるの? そう言えば、その和尚さんからお母さんに伝言を頼まれたよ。『そろそろいい頃合いかも知れん』って言ってた。そう言えばわかるって。母さん、わかる?」
そう言って見つめる息子を振り返りながら、奈美恵は頬を涙が伝って落ちるのを自覚した。それでも、声は普通のままで、
「陸、ちょっとこれから大事な話があるから、そこに座りなさい」と言った。
さっきから感じている、全く喋らなかった違和感と、突然の強い口調、そして何よりも流れ出るままにしている涙を目の当たりにして、陸はただ事ではないと考えていた。
しかし、「どうした」と口を挟ませない威厳のようなもののため、陸はソファを降り、テーブルの一辺に座った。
奈美恵は身体は正面を向いたまま、首だけを陸に向けて話し始めた。
それが、世にもおぞましい劇の、最後の幕開けになるとは夢にも思っていなかった。
澤口奈美恵は、元々は離島だった香焚町でも特に辺鄙な地域である海老ノ口で育った。民家といえばほんの数軒の、海と断崖に挟まれた海老ノ口、その更に奥まったところに澤口家はあった。
母親は早くに亡くなり、左官をしている父親とふたりきりの生活だった。
小学校五年の時に、父親が脳梗塞に倒れた。比較的軽かったが、左半身に麻痺が残った。
無職になった父親は、パチンコやスロットに通うようになり、夜は酒で寂しさを紛らしていた。生活のため貯金を切り崩しながら暮らしたが、中学二年生の頃にはそれも尽きてしまい、生活保護を申請することになった。
しかし、父親がやる気を起こすことはなく、定期的に借金取りが取り立てにやってくるようになった。
奈美恵の学生生活は、まるで台風が接近し、いつも胸がざわついている、そんな感じの日々が続いた。
高校はお金のかからない公立の鶴南高校に進学したが、大学進学など全く考えられなかった。
ただ、成績の良かった奈美恵は、町から返す必要のない奨学金をもらい、日曜日には町や学校には内緒で、コンビニでバイトをしたりして借金返済の足しにした。
そんな生活も高校三年生のときに終焉を迎えた。父親が二度目の脳梗塞を発症し、帰らぬ人となったのだ。
奈美恵は奈良県にある看護師の専門学校に行った。専門学校時代の三年間は猛勉強した。やっと学生らしい生活ができると、奈美恵はきつくても嬉しかった。
晴れて看護師となって香焚に戻ってきて、香焚から長崎市内に向けて、バスで二十分ほど行った戸部町にある小さな総合病院で働くことになった。
学生時代とは全く違う生活が待っているはずだった。
半年ほど経った頃、奈美恵は若い医師と恋に落ちた。
初恋だった。
若いとは言っても、奈美恵とは十歳以上も離れていて、妻子もいる、いわゆる不倫の関係だった。
しかし奈美恵は、そんな道徳的な制約など関係なかった。灰色の青春時代しか過ごしたことがない奈美恵は、世間のモラルに縛られるよりも、激しい恋の炎に身体全体を焦がしていたかった。
一年ほどで奈美恵は妊娠した。嬉しかった。自分は女なんだと実感した。
彼氏に話すと、飛び上がるほど大喜びしてくれた。ふたりで抱き合って嬉し泣きした。
しかし、現実問題として、彼は人の夫で、自分は不貞を働いている愛人だと、奈美恵は自覚していた。だから、認知は必要ないと彼氏には常々伝えていたのだ。
そんなある日、奈美恵がひとりでアパートに帰宅し、酷い悪阻のため少し横になりウトウトしていたとき、布団に誰かが忍び入ってくるのに気づいた。右肩を下にして寝ていたが、腕が右の頬の下を潜ってきた。
すぐに彼氏だろうと思った。
「ごめん、まだ具合が悪くて・・・・・・」
そう言おうとして振り返ろうとした矢先、強い力で口を塞がれた。潜ってきた男の右腕が口を覆い、惹き付けられて身動きが取れず、鼻も塞がれているのか息もできなかった。
腕も足も使えず、苦しさにもがきながら、奈美恵は誰かが押し入ってきたのだと思った。
すると耳元で声がした。
「そろそろ遊びははお終いにしようか。外に子どもなんか作ったら、お嫁ちゃんたちに逃げられちゃうじゃん」
その声は、紛うことなき彼氏の声だった。
強引に塞がれている自分の口元と、己の身体で身動きもできない右腕、そしていつの間にか掴まれている左手。どれもピクリとも動かない。奈美恵は慄然とした。
「そうだよ。抵抗しなきゃ時間はかからないんだから」
彼氏はそう言うと、ゆっくりと馬乗りの形になった。口の戒めは外されていないし、両腕は膝で抑え込まれた。
奈美恵は抵抗せず、目を見開いて彼氏を凝視していた。
暗闇でよく見えないが、たしかに彼氏はニコリと笑った。
次の瞬間、頭に衝撃を感じた。首ごと横に振られ、直後にまた口を塞がれた。五秒後に真っ黒になった意識が回復し、左頬の外側に鈍痛、内側に血が滲んでいるのがわかった。
彼氏が顔を近づけて言った。
「殴られて流産するのと、薬で堕胎するの、どっちがいいか、わかるよね? 俺はどっちでもいいけど」
奈美恵はただ頷くしかなかった。涙が溢れ息が苦しい。顔の左半分に焼きごてを当てられたかのように熱かった。
頷きを了解と理解したのか、彼氏は左手で口を塞ぎながら、右手で何かをまさぐり取り出した。
「これからこの錠剤を飲んでくれ。痛みはない。少し出血するかもだけど、二、三日で収まるはずだよ」
そう言うと、肩から膝をずらし、ゆっくりと奈美恵の身体を起こしてくれた。思っていたよりも両肩が痛かった。
いつも枕元に置いてある飲みさしのペットボトルを持ち上げ、手に持った錠剤二粒と一緒に差し出す。
奈美恵は海外では使用されている「堕胎薬」を思い出した。日本では妊婦の身体に負担が大きいとして認可されていない。
ああ、そういうことなのかと、奈美恵は理解した。この子は望まれてはいなかったのだ。そして、この男は奈美恵のことなど、これっぽっちも心配しておらず、自分の立ち位置だけが心配なのだと。
さっきまで恐怖と苦痛のため流れていた涙が、今は悲しみと侮蔑のための涙になっていた。
薬を飲み、出血が止まらず、産院に行って先生に叱られ、二度と子どもの産めない身体になった。
勤めていた病院は辞め、彼氏からはほんの少しだけ慰謝料をもらった。
呆然と過ごしていた奈美恵は、海辺を散歩している間に、ふと「死のう」と思いついた。ザブザブと波間に入って行き、海中に顔まで浸かったとき、誰かに抱えられて岸まで戻った。
助けてくれたのは髪の短い初老の男だった。男は肩で息をしながら奈美恵を叱りつけた。
「この馬鹿たれが! 自殺などする暇があったら、ゴミでも拾え! 死なんて考える時間があれば、人のために飯を作ってやれ! 死にたくとも死ぬことなどできない人もいることを知れ!」
それからも老人は、聞いているのかいないのかわからない奈美恵に、思う限りの叱咤を続けた。老人声が枯れてきた頃、奈美恵は大粒の涙を零して泣いた。
「死のうと思ったときに、出会ったのが世話好きの寺の坊主じゃ。諦めてもうちょっと生きてみろや」
老人はほっとしたような顔をして、笑いながらいつまでも傍にいてくれた。
彼氏に襲撃を受けてからずっと、時の感覚が麻痺していたのだが、その時初めて、もうおくんちも終わったのだと気づいた。
老人は円徳寺の住職で、親身になって世話をしてくれた。同じ香焚にいたのだと聞くと、父親のことなどもよく知っていた。その日から半年ほど、円徳寺の宿坊で暮らし、掃除、洗濯、お坊さんの食事の世話から仏具の買い出しなどにも付き合うようになった。
世間よりほんの少しだけ早い春がやってきた時、久佑は奈美恵に言った。
「そろそろ看護師に復帰してみてはどうかね。あんたもそろそろ大丈夫のようじゃ」
そうして、深原町にある今の病院を紹介してくれたのだった。
その年のペーロン大会が行われる七月頃、久佑から連絡が入った。
助けて欲しい、と。
生まれたばかりの嬰児を育ててくれないか、と。
奈美恵にとって、久佑がくれたこのチャンスは、喉から手を出しても欲しいものだった。
自分の手で子どもを育てられる。
奈美恵は一も二もなく承諾した。どう手を回したのか、その子は奈美恵の私生児ということになっていた。
子どもは可愛い男の子で、頭と目の大きな可愛らしい子どもだった。
名前も決めていいと言うので、「陸」と名づけた。
奈美恵は小さい頃からいつも波に揺られる小舟のように、波任せの人生だった。この子には、もっと地に足のついた生き方をして欲しい。そういう思いでつけた名前だった。
それからの奈美恵は病院と子育てで大忙しの日々だった。
ある程度大きくなるまではと言うことで、円徳寺の宿坊で暮らし、勤務の時は久佑か誰かが面倒を見て、帰ったら奈美恵が世話をする。そんなリズムができた。
ちょうど一歳の誕生日の頃、病院から帰ってみると、久佑が珍くはしゃいでいた。どうしたのか聞いても、「どうもしないがいいことが起きたのじゃ」と、要領を得ない答えしか帰ってこなこった。
そしてそれからすぐ、奈美恵と陸は深原町の公営アパートの抽選が当たり、引っ越すことになった。
何度も頭を下げる奈美恵に対し、久佑は、
「いつかはこの子に、本当の親ではないと知らせねばならん。その時がきたら、わしが必ずその時じゃと知らせる。それまでは、本当の親子じゃ」
奈美恵は涙を堪え、まるで試合前の選手のように、はいとだけ応えて出ていった。
あれから十数年の月日が経ち、今日、陸が久佑和尚に会ったと言った。そして、
「そろそろ頃合かも知れん」という言伝を預かってきた。
その言葉を聞いた時、なぜか気持ちがスーッと覚めていき、ただ涙だけが流れ始めた。そして、陸に向かって最後にこう言った。
「陸、あんたの『あの力』、人を不幸にするあの恐るべき『悪魔の力』の源泉を教えてあげるから、住職の『心』に忍んできてご覧なさい」
奈美恵は自分で何を言ってるのかわからなかった。「あの力」とか「心に忍んでいく」とか、意味がわからない言葉を、理路整然とはなす自分のことを、おかしいおかしいと思いながら、それでも口は止まらなかった。
「母さん、嘘だよね」
陸は奈美恵の肩を掴もうとやってくる。
しかし、奈美恵はそうやって差し出してきた陸の手を払い除けた。
「あんたは私の本当の子どもじゃない。私の子どもは、私が薬で殺したあの子だけ。あんたは私の子どもじゃあないんだよ」
ただ涙を流すだけの機械のように、奈美恵はずっと虚空を見つめていた。心の中では、陸を可哀想と思いつつも、口が勝手に喋っているのだ。
無表情に泣き続ける奈美恵の傍らで、スマホのバイブ機能が響きはじめた。
奈美恵が泣きながらスマホに出た。
「はい、お久しぶりです。はい。はい。ええ、今話しました。はい」
しばらく時候の挨拶を交わし、電話を陸に渡した。
「もしもし」
「よお、少年。さっきぶりじゃな。お母さんから話を聞いたか?」
不遜な声でそう尋ねる久佑。
「はい、聞きました。でも、どういうことなんですか?」
すると軽くため息をついたように息を吐きながら、
「なんじゃ、意外と頭の回転が遅いんじゃのぅ。もうちょっと賢いかと思っておったが。それとも、まだまだお母さんのおっぱいが恋しい頃かのぉ」
どういうつもりでこんな軽口を叩くのかは知らないが、陸は何も言わずに続きを待った。
「お母さん、澤口奈美恵が話したように、お前は奈美恵の子ではない。お前の本当の母親は、土雲幹子、わしの娘じゃ」
自分の母親を呼び捨てにし、あまつさえその母親が母親ではないなどと言う言い分に、陸は耳が熱くなるほどの怒りを覚えた。そして、実の母は土雲幹子。久佑の娘であるという。それは、とりもなおさず佑樹の母親のことではないのか。
陸は彼の言葉が真実かどうか、一生懸命検証し始めた。しかし、もちろん結論は出るはずがない。
「もう少し詳しく話すとじゃな」
そう言いながら、久佑が話し出す。
「その昔、奈美恵の身の上に起きたことは本当じゃ。それを儂が助けた。儂の寺にしばらく住まわせ、奈美恵は出ていった。その後、儂の方から連絡したんじゃ。お主を育ててくれんか、とな。そこまではよいか?」
陸は納得していないながらも「はい」と返事をした。
「そしてお主と奈美恵が出会い、深原に引っ越すのじゃが、ここからは奈美恵も話せないはずじゃ。なんせ、そういう風に催眠術をかけたんじゃからのぉ」
ますます混乱してきた。が、奈美恵が真顔で涙を流し続けていたことと一致するような気もする。
「そんなことできるのか? とでも考えておるじゃろう。それができるんじゃよ。だから、奈美恵は、話したくないことも話したじゃろ。さすがに十数年、お主の母親をしてきたら、情がうつたんじゃろうなぁ。しかし、話してもらわんと儂の予定がたたんからな」
平然とそう言ってのけて、なぜか久佑は豪快に笑った。スマホ越しにも彼が悦に入っているのがわかった。
「わかったか、少年。お主は生まれてからずっと、儂らに弄ばれておったんじゃよ。お主という血と肉は、儂と奈美恵の意のままだったんじゃ」
頭がクラクラして、世界が回るような気がした。どんなに大人びていても、所詮は中学二年生なのだ。
「だからじゃ、お主はあの『力』を使って、儂の『心』に入ってこい。そして、儂の『心』を食い荒らすのじゃ」
陸は怒りを抑えた。
『力』を使って久佑に陸の悔しさをわからせることはできる。しかし、そういう怒りの連鎖を断ち切ることが大事だと、土雲佑樹は言わなかったか。
怒る気持ちはわかるが、それではダメだと、一生懸命相手を理解しようと努めた時津駿太郎に申し訳が立たないとも思った。
そんな風に自分の心にブレーキをかけている陸を知ってか知らずか、久佑は軽い口調で、
「そうじゃそうじゃ。これを忘れてはいかん。儂の催眠術がもう終わったと思ったら大間違いじゃぞ」
その意味を咀嚼した陸は、ふと気づいて辺りを見回した。奈美恵の姿が見えない。通話口からは久佑のしわがれた嘲笑が響いていた。
「母さん!」
陸はその場で部屋の中を見回した。奈美恵はどこにもいない。
玄関に行ってみた。いない。寝室に行ってみた。ここにもいない。
「母さん」
隣の陸の部屋へ小走りで行き、覗いてみた。いなかった。
「母さん!!」
そこから一番遠い風呂場へと走る。シャワーの流れる音が聞こえる。心臓が一瞬で冷える。
ドアを殴るように開けると、そこに倒れている奈美恵がいた。見た目は眠ったように穏やかだが、最悪なほど動かない。
「母さん!」
りくが抱き起こす。身体が冷たい。唇に赤さが全くない。目は微かに見開いたままだ。左手から何かの瓶がこぼれ落ちる。
「母さん! 母さん!」
呼んでも帰らない人を、陸は呼び続けた。そして、その声がすすり泣きに変わり、その声も止んだ。
陸はその体勢のまま、眠っていた。
いつの間にか、その横にはカイチがいて、早く散歩に行こうとせがむように、尻尾を振っていた。
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