第16話 円徳寺
母にちょっと出かけてくると言うと、やはり母は勘違いをしていた。
「うんうん、いいよ。母さんは友だちと一緒に精霊流しを見に行くから。どこかで会っても、そっちが気を利かせてちょうだいよ」
違うと言っても勘違いはやまないだろうから、そのままにして家を出た。
長崎市街に向かうのとは逆方向のバスに乗り、人もまばらな車内でぼんやりと外を眺めた。
気の早い若者が、爆竹を「試し打ち」と称して鳴らしているらしい。すでにお酒も入っているのだろう。
この時間帯のバスに乗ると、車の下に爆竹を投げ込まれることは多々ある。長崎市内に行くと、自動車が巻き込まれるのは精霊流しの日常光景だった。
香炊本村に着いた。夕暮れにはあとしばしの間がある。円徳寺はここから石段をのぼったところにあるらしい。
石段をのぼる前にも、石段をのぼる途中にも、そして石段をのぼり切った後にも、一艘ずつのもやい船を見かけた。石段をのぼったところにあるそれは、もう動き始めていた。
薄紅の夕暮れに、艫に入れてあるロウソクの灯りが映え、白い半纏を着た若い衆が、鉦の後に「ドーイドイ」と声を合わせる。爆竹がそこら中でら鳴り響き、慣れていない人や女子どもは、煙にむせ返っている。精霊船の本体の方には発電機が付いていて、精霊船自体を大きな光の塊に化けさせている。
寺の前から見下ろすと、山の中腹には墓に灯した提灯の群れがいくつもあり、オレンジ色の光を放つ精霊船の大きな艫と、その中に書かれた西方丸という文字があちこちに見える。暗くなればなるほど、そのコントラストは際立つ。
長崎にいて、長崎の昔からの風習を目にしながら、異国に紛れ込んだ感覚をおぼえる。そして、この光景がどこか懐かしいものにも思える。そんな感覚を楽しみながら、陸は目的の山門を潜った。
そこで、明々とロウソクで照り出された墓地と、それを本堂の中から静かに見守っている仏像が陸を迎えてくれた。
「よお、来たな」
右側から声をかけられた。初めてだが、初めてではない。心の中で聞いた声だ。
「こんにちは」と、陸は頭を下げた。
「うんうん。よく来たな。そこの石段、キツかったろ」
佑樹は猫なで声に近いほど、気を遣って陸を出迎えた。『意識』の中では気の良い少年でも、現実の世界では、一枚も二枚も皮を被っているのが人間だ。
「いいえ。思ったほどは疲れませんでした。それよりも、夕暮れと精霊船ご見事で、しばらく見蕩れてしまいました」
そういう陸は、佑樹の思惑をしなやかに飛び越えて、ありのまま素直な気持ちを曝け出している。本当に頭のいい子は、根が純粋なのだ。
「こちらはひとつ謝らなきゃいけないことがある。君の担任の時津先生、彼女の兄貴がどうしても会談に加えろと言って聞かないんだ」
そう言う佑樹の後ろから、背の高い男が一歩前に出てきた。
「時津あずさの兄の時津駿太郎だ」と横柄と取られかねない態度で言う。含みがあるのは当然のことだろう。
「こんにちは。澤口陸と言います。信じてもらえるかどうかわかりませんが、今回のあずさ先生の発熱の原因は僕です。申し訳ありませんでした」
そう言うと陸は、やおら膝だちになり、その場に手をついて頭を下げた。今日はできる限り真摯に謝ろうと思ってやってきた。そして、今できることはそれくらいしかない。
「顔をあげなさい。これでは大人が子どもをいじめてるみたいじゃないか」
と、駿太郎が背筋を伸ばしたまま言った。陸が身体を起こすのを待って、隣に立つ佑樹を指して、また声を募らせた。
「おれはこいつの能力を高校生の頃から知っている。目の前で力を行使するのを見たこともある。だからこそ、君の言うことは信用できると思っている」
駿太郎は硬い声で言った。声が震えている。
「だからと言って、妹があんな目に遭った今、はい、わかりましたとはとても言えないんだ!」
そう言うと、駿太郎はしばらく声を詰まらせた。
陸は項垂れていた。とても顔をあげられない。しかし、言い返す言葉など最初からない。
「謝って済む問題じゃないのは重々承知です。お兄さんはもとより、時津先生ご本人にも、会って直接謝罪しなければと思っています」
「謝罪したからって、許してもらえるとは限らないぞ。それに、妹以外にも被害者はいるんだろうからな」
駿太郎が追撃するように言った。そこを責められると、陸にはぐうの音も出ない。
そんな駿太郎を、佑樹はただ黙って見ていた。
初めて出会った、自分と同じ能力を持つ少年を、それ以上追い詰めないでやってくれと思う気持ちはある。しかし親友の妹であり、名乗りはしていないが、実は佑樹の腹違いの妹でもあるあずさのことを思うと、何を言っても言い過ぎにはならない気もする。
「しかしな、妹や他の人たちについて、ああだこうだと言っても始まらない。そこでおれは、この件に関しては佑樹に任せることにした。言い方は悪いけど、能力を持つものしか、この件は制御できない気がするんだ。もちろん、この件がちゃんと片付いたら、妹への謝罪はして欲しい。まぁ、妹に君の能力を説明できないだろうから、何て言うかは、そっちで考えてくれよな」
駿太郎が不承不承という体で折れた。佑樹の見立てでは、最初から着地地点は決めていたようだが、陸に「大人は簡単だ」などという安易な感想を持って欲しくなかったのだろう。これも駿太郎なりの優しさと言うべきか。
そう言われた陸は、じっと駿太郎を見つめたあと、長いこと頭を下げていた。
一艘の精霊船の一団が、円徳寺の前を通って行った。鉦の悲しげな響きが、爆竹の爆音の中でも際立って耳に残るのは、きっと精霊流しが魂を沈める儀式だからだろう。
自然と騒がしくも整然とした一団が通り過ぎるまで、三人はお互いを見合っていた。
「おれの家には言い伝えが残っている」
しばらくしてから、佑樹が口を切った。
「土雲の家には、代々人の心を食べる能力を持つ男子が生まれる。うちではそれを『巣食い』の力と呼んでいるんだが、『巣食い』の力は女子には発現しない。しかし、その力は種としては内包されていて、次の世代へと引き継がれると言われているんだ。澤口君はそういう話を誰かに聞いた事はないかい」
そう聞かれて陸はしばらくよく考えてから答えた。
「いえ。そんなことは聞いた覚えがないですね」
「そうか。では、君のお母さんはどうしてる?」
質問の意味がわからず、陸は佑樹を訝しそうに見つめた。
「いや、おれんちの場合、おれがその能力を発言したとき、母親に抱かれていたんだ。そして、最初の被害者が母親だったんだ。だから、うちの母は今でも幼稚園児くらいの知能しか持っていない」
陸は驚きを隠せず、薄暮れの中、自分を見つめる佑樹から目を逸らし、駿太郎を見た。駿太郎は頷いて、陸に先を促した。
「うちはそんなことないです。母親は元気ですし、言い方は変ですが、普通の母親だと思います」
陸の話を聞いて、佑樹は首を傾げて考え込んでしまった。
今までに出会ったことがないから、この能力を使えるのは自分だけだ、この『巣食い』の力は土雲家にだけ伝わる秘伝の力なんだと思い込んでいただけなのかも知れない。以外に、誰にでも使える力なのかも知れない。佑樹はそのわずかな可能性が出てきたことに感動しつつあった。しかし、まだ早い。
「君の父親はどういう人なのかな?」
佑樹はまだまだ聞かなければならないことがあった。聞かれた陸は、
「うちの父親は僕が生まれる前に亡くなっています。ですから、父がどんな人で、どこで生まれ、どうやって育ったかも、母からは聞いたことがありませんね」
「それじゃ、君が最初にこの力を使ったときのことを聞かせてもらえるかい」
佑樹は答えを知りたいと焦る気持ちを、無理やり理性で抑えながら、順序立てて聞くことを選んだ。
陸は昨年の年末からのことを最大漏らさず話した。正直に話すことが謝罪の一端になると思い、当時の自分の気持ちも含めて、全て忠実に話した。
いじめられたこと。カイチとの出会い。最初の被害者である鷲頭のこと。それから、いろいろ研究したこと。知らず知らず、自分が王様のような気分になっていたことなどだ。
佑樹はカイチの話をしているとき、興味深そうに聞き入った。
「そのカイチというのは、君の分身なの? それとも君自身が変身した姿なの?」
「カイチと君の意見は食い違ったりしないのかい?」
「君はカイチの姿を使わずに力を使うことはできないのかい?」
それらの質問にも、陸は努めて実直に応えた。
「カイチが分身かどうかは、正直考えたこともなかっですね。でも、僕の魂の化身なんじゃないかと思います。カイチがいなければこの力は使えないです。僕はカイチにお願いするだけですから。だけど、カイチの考えと僕の考えが食い違うことはあると思います。例えば、こないだ」
陸はそう言いさすと、駿太郎の方をチラッと見て、確認するように頷いて言った。
「時津先生の魂に入ったとき、孔雀の上に乗ったお釈迦様に全く歯が立たなかったんです。初めてでした。僕は意地になって攻撃しようとしたんですが、カイチが最後は嫌がって・・・・・・」
「それはきっと、君の『潜在意識』がもうやめた方がいいと危険信号を出して、『顕在意識』である君には届かないけれど、その下僕であるカイチには届いているってことかな」
そう言ったのは駿太郎だった。
「そうですね。そういうことかも知れません。ただ、カイチは僕の下僕という感じではないんです」
一言分の間を置き、陸は言った。
「カイチは僕の友だちなんです。少年漫画みたいなことを言ってると思うでしょうけど、僕にとって初めての、何でも言い合える唯一の友だちなんです」
陸の心の叫びは、駿太郎と佑樹にも伝わった。ふたりとも、思春期には同じような問題に悩み、友だちなんかいなくていいと、一度は思ったのだ。
「悪かった。そんなつもりじゃなかったんだが、つい大人の悪い癖が出てしまった」
駿太郎が頭を下げた。佑樹もそれに倣って陳謝した。
陸は顔の前で手をバタバタさせながら、焦ったように言った。
「いえいえ、そんな謝られるようなことでは」
真夏の夜の帳が降り、辺りは遠くに鉦の音、近くにセミがジャラジャラと鳴く声が響いていた。
三人ともにお互いがごく親しい存在のように感じられ始めていた。
佑樹にとって陸は、素直に応じる態度を見せてくれて、人に接するときの節度が自然と身についていて好感が持てた。
駿太郎にとっては、相変わらず妹を、一時は危篤状態に陥るまで追いつめた憎いやつなのだが、自分の作りだした架空の犬に対する言行が、中学生の頃の自分を思い出させた。この子は大丈夫だと、なぜかそれだけで思えたのだった。
陸からすると、彼らはすでに大の大人であり、最初は駿太郎からのきつい言葉に、溜息がこぼれそうな失望感も感じた。しかし、考えてみるとそれも当然のこと、決して彼らが並みの大人以下であることにはならないと思った。
そして現に今、彼らはこんな中学生の彼に対して、怒りの気持ちを隠さず、慈しみの目を向けたてくれた。同じ大人として言外の配慮を忘れないし、同じ思春期の少年のように興味を表に出して接してくれている。
何よりも、心の力の先輩がいることは、陸にとって新鮮で力強かった。
「さて、少年よ。いつまでもこんなところで立ち話もなんじゃろ。こっちに来て般若心経でも唱えて行かんか」
闇の中から肩をポンと叩かれながら、陸は老人から突然そう話しかけられた。
「爺さん、いきなり出てくるのはやめろよ。寺なんだから出たと思うだろう」
佑樹は久佑に対して声を抑えて怒鳴った。怒鳴られた久佑は、きっと闇夜の中で舌を出しているだろう、駿太郎はおかしかく思いながら、陸に紹介した。
「こちらは円徳寺のご住職の土雲久佑さん。佑樹のおじいさんにあたられる。力のことも何もかも知ってるから心配ない」
そう言われて、改めて一礼をした。そして、頷く久佑に対して、
「それでも今夜はもう遅いので帰ります。こう見えても中学生なんです」
一同ほんのり笑顔になり、駿太郎が言った。
「それならおれが近くまで送って行こう。今夜はそこら中に、精霊船を担いだ酔っぱらいたちがいるからな」
佑樹はもっと話を聞きたかったが、駿太郎の言う通り、お盆の夜は何かと物騒だった。精霊流しを見物に行った帰りの若者たちも、街には溢れているだろうし、未成年をひとりで帰すわけにはいかない。
駐車場まで送りながら、佑樹は陸に話しかけた。
「なあ、澤口くん。君の持つ能力は核みたいなものだ。長崎の人間ならよく知ってるだろうけど、核は正しい知識と正しい用法で使えば、決して悪いものではない。ただ、それを使う人間が正しい知識と正しい用法を守らなければ、とんでもなく危険なものになるんだ」
陸はじっと佑樹を見つめながら、話の行き先を待っていた。
「だけどおれは、もうこの『巣食い』の力を次の世代に残さないと決めた。そして二度と使わないともね」
佑樹は歩みを止めた。陸も立ち止まって佑樹を見つめた。
「君も良く考えるんだ。おれが知ってることは教えてあげよう。わからないことは一緒に考えよう。そして、誤った使い方をしたときは、一緒に頭を下げよう」
真っ直ぐに陸の方を見て話す、その生真面目な話し方が、話の内容よりも、陸には迫るものがあった。
コクンと頷くと、自然に笑顔がこぼれた。
「そうじゃ、君のお母さんは、もしや看護師をしている澤口奈美恵さんではないかの」
「そうです。母をご存知ですか」
「うんうん。彼女は香焚の出身での。小さい頃、よく遊びにきたもんじゃ。それじゃのぅ、お母さんに円徳寺の和尚が、そろそろいい頃合いかも知れん、と言っていたと伝言してくれんかの。いやなに、そう言えばわかるよ」
高齢の和尚は、陸の背を押すように車に近づけながら、確かにそう言った。
陸は、母も香炊町や円徳寺と縁があるんだと、少ししんみりした。そういえば、寺へと続く石段の途中から見た景色や、このお寺の佇まい、山門の雰囲気など、陸には懐かしく感じられるのは、幼い頃、何度かこの寺に来たことがあるのかも知れない。そう考えると、久佑のダミ声も聞いたことがあるような錯覚さえ感じられる。
どちらにしろ、このお寺から、今日この日から、自分は変わるんだという、ひとつの確信が、陸の心を占めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます