第四章 裏切りと忠誠と 5

 デスピナが作戦会議に姿を見せないなら、せめてその部下と接触して情報を得たい。そう考えたエッツェルは、代理としてオーミル城に来ているジェルメとの接触を図った。

 馬小屋に繋いであるジェルメの愛馬を見て、エッツェルは「ほう」と感嘆の声を上げた。エトルシアで普通に軍馬として用いられている馬よりも、一回り大きい、がっしりとした漆黒の馬である。雄鶏のようにまっすぐに上を向いた首、開いた鼻孔、広い胸幅、しなやかに曲がる膝、肉付きのよい尻、そして厚い蹄と、一目でわかる名馬だった。

「これはエッツェル殿下。わたくしごときのために、馬を曳いてくださるとは」

 オーミル城の正面まで馬を連れてくると、ジェルメは恐縮したように胸の前で手を合わせた。祖国での敬礼の一種なのであろう。完璧なエトルシア語を話すジェルメでも、馴染んだ風習はとっさに出てしまうものらしい。

「なに、貴殿と話をしてみたいと思ったのだ」

 デスピナの代理人であるジェルメは、長い黒髪、日に焼けた精悍な顔立ち、小柄だが引き締まった体躯と、およそエトルシアでは珍しい風貌の持ち主である。はるか東の国からやってきて、デスピナに仕えるようになったという。

「無骨者のわたくしが、果たして殿下の御意にかないますかどうか」

「あまりかしこまるのはやめてくれ。私はもはや皇子としての権限をすべて剥奪されている。今はただの従卒だ」

「そういうわけにはいきませぬ」

 腰は低いが、なかなか頑固な男らしい。そういう人物が、エッツェルは嫌いではない。思えばクレアにも、一度言い出したら聞かない頑なな側面があった。

 馬を曳きながら、二人は紅く染まった広葉樹の並木道を歩いた。城の中庭へと通じているこの小道は、フィリップがオーミル区の司令官となって以来、整備を進めてきたものだった。

「よい馬だな」

 馬を褒められて気を悪くする武人はいない。ジェルメは、口元をほころばせた。

「わたくしの祖国では、五歳の幼な子でも馬を乗りこなします。女でも、騎射をくします。妻を選ぶのに失敗する男はいても、馬を選ぶのに手抜かりのある者はおりません」

「誰もが、馬とともに生きる国なのだな。世界には、いろいろな国があるものだ」

 遠い異国への憧れのようなものが、エッツェルにはある。一年じゅう氷雪に閉ざされた極寒の村、国土の大部分が緑のジャングルに覆われた密林の王国、広大な砂漠の中にぽつりと存在するオアシス都市、果てしない海の向こうに存在するという黄金郷、海底に沈んでしまった古代魔導帝国……。皇宮の中で育てられた彼は、書物の中でそれらの話に触れるたびに、心を躍らせたものである。

「ジェルメ殿は、なぜこの国へ?」

 そもそもこの男は、一体どんな人物なのか。なぜ遠い異国の地からエトルシアへと流れてきたのか。

「話せば長いのですが、よろしいですか」

「むろん、かまわない」

 エッツェルがそう答えると、愛馬のたてがみを優しく撫でながら、ジェルメは話し始めた。

 ジェルメは、かつて草原に覇を唱えた東の大国の後継国家に生まれた。以前の勢威はすでにないが、精強な騎馬軍団による武と絹の交易による富で、十分に栄えている遊牧国家であった。

 時の国王はアルグンという男で、国内の部族をよく束ねて外敵の侵入を防ぎ、東西の通商を保護した。寺院を建て、学問を奨励し、有為な人材を登用した。なかなかの名君であるとの評判だった。

 ところが、五十代半ばにして長年連れ添った王妃を亡くすと、一変した。公然と若い娘を漁り始めたのは、まあよい。王侯貴族には、よくあることである。集めた娘たちに罵られ、顔を踏まれ、あげくに鞭で打たれることを好んだのも、あくまでも個人の趣味にすぎない。だが、奴隷身分に属する十六歳の娘を特に寵愛し、人前で彼女から公然と「薄汚い豚」呼ばわりされて喜んでいるとなると、さすがに常軌を逸していた。いったいどちらが主人でどちらが奴隷なのか。

 ウェンシアンという名のその奴隷娘は、やがて「王妃」を称し、さらには「女帝」と号した。あくまでも自称にすぎないが、王が何も咎めないものだから、冗談では済まなくなってくる。宰相級の有力者や他国の使者たちですら、物申すときは国王よりもまず彼女のご機嫌を窺わねばならないとなれば、国政が乱れるのは当然のことである。

「よい、よい。すべてウェンシアンの好きなようにやってくれ」

 王自身が政治に関心を失い、そのような体たらくである。誰もが国家の衰亡を予測した。だが――。

「たかが奴隷の小娘一人のために、国家の重責を投げ出してしまうおつもりか!」

 家臣の中に、舌鋒鋭く王に諫言を放つ人物がいた。四十年にわたって王家に仕え、立てた武勲は数知れず、『アルグン王の懐刀』の異名で知られるバートルという重臣である。

「ウェンシアンなる者は、国王陛下を惑わし国を傾ける妖女である」国王がたじろぐほどの迫力で、彼は弾劾した。「妖女、斬るべし。さもなくば、我を斬るべし」

「分かった、分かった。余が間違っていた」

 忠臣の生命を賭けた諫言に、アルグン王は自らの愚かさを反省した。女に溺れたとはいえ、さすがにかつては名君として知られた男である。彼は自分を叱りつけてくれたバートルに感謝した。

 だが結局、優柔不断なアルグン王には、ウェンシアンを斬ることはできなかった。バートルの目の光るところでは大人しくしているものの、依然としてウェンシアンに愛情を注ぎ続けた。そして不幸なことに、このときのバートルの言葉がウェンシアンに漏れてしまう。

「たかが奴隷の小娘、だと!? このわらわを、バートルの老いぼれめはそう呼んだというのか!?」

 激怒した彼女は、アルグン王からの賜り物と偽り、バートルに毒入りの酒を送る。知らずにそれを飲んだバートルは、一夜にして帰らぬ人となった。

 そしてアルグン王は、再びウェンシアンに溺れる惰弱な王に戻ってしまったのである。

「……そのバートルというのが、私の父なのです。父を殺されて、私は祖国に絶望しました。これだけ王家に忠誠を貫いた父をむざむざ殺してしまう国家とは何なのか、と。だから私は故郷くにを出たのです」

 ジェルメの手は震えていた。激しい失望が、伝わってきた。なるほどバートルの子としては、無念であろう。だが今の話に、エッツェルはどこか引っかかるものを感じた。素直に共感することができなかった。

「……果たして本当に、お父君は王家の忠臣だったと言えるのだろうか」

「どういう意味ですかな」

 エッツェルが疑問を投げかけると、ジェルメのヘーゼル色の瞳に、静かな怒気が宿った。

「我が父こそは、『王の懐刀』の名にふさわしい、まぎれもない真の忠臣。その父を侮辱するおつもりなら、殿下といえど容赦はしませんぞ」

「ならば問おう。忠義とは、忠臣とは、一体何だ?」

 馬を撫でるジェルメの手が止まった。思わぬことを問われて、驚いているようだった。

「そんな事態になる前に、バートルは問答無用でその女を斬ってしまえばよかったのだ。諫言一つで王が改心すると考えたのは、あまりにも浅はかではないか。それに、バートルを死なせたことで、アルグン王の名声は地に落ちたことだろう。状況が悪化していくのを止められず、自らの保身に失敗して無駄死にし、主君の名誉を守ることもできない。何が忠臣か。王の懐刀、だと? かつてはそう呼ばれていたのだとしても、私には、老いて刃が鈍ったとしか思えない」

 言葉に出すことによって、エッツェルの感じていた違和感は徐々に具体化されていく。それをまた新たな言葉にして、反論しかけたジェルメへと投げかける。

「忠義とは、それを貫く心を言うのではない。実際に主君を最後まで守り抜いてこそ、忠臣だ。自分は最後まで忠義を貫いた、などというのは、無能者の言い訳にすぎない。行動とそれに伴う結果が、その人物の価値を決める尺度であるべきだ。そうは思わないか」

 ジェルメは黙り込んだ。エッツェルの言葉を、心の中で噛み締めているようだった。

「なるほど、あなたはデスピナ様の弟君でいらっしゃる」

 やがて口を開いたジェルメは、そのような言い方で、エッツェルの主張を一定程度認めた。デスピナと同類と思われても別に嬉しくはないのだが、ジェルメにとっては、褒め言葉のつもりなのだろう。

「またお会いしましょう。そのときまでに、忠義とは、忠臣とは何か、わたくしなりの答えを見つけておきたいものです」

 そう言うと、ジェルメは手を差し伸べてきた。再会を約束して握手を交わすと、彼は騎馬の民らしいしなやかな動きで馬にまたがり、城門をくぐって北東へと通じる道へ向かっていった。南のゲマナ区が革命軍に占拠されてしまったので、北から時計回りに皇宮を迂回して帰るつもりなのだ。

 その孤影を見送っていると、聞きなれた女の声がエッツェルの耳に飛び込んできた。

「デスピナはいい部下を持っているようだな」

 黒いローブをまといフードを深く被った女が、城壁に寄りかかってこちらを見つめている。エッツェルは驚いて、その女、つまりメディアに問いかけた。

「こんなところに出てきていいのか?」

「言っただろう。わたしがクレアと同じ顔をしていることは、誰も不思議に思わない、と。そういう風にできているのだと」

「ではなぜ、フードで顔を隠している」

「素顔を晒して歩いていると、ほとんど常に街の男たちから声をかけられる。まったく、美人の顔というのは不便なものだな」

 説明してから、メディアは突然、くくくっと笑う。

「行動とそれに伴う結果が、その人物の価値を決める尺度であるべきだッ」

 茶化すように、メディアはエッツェルの台詞を真似た。

「なかなか熱のこもった、迫真の演技だったな。それともあれは、大真面目だったのかね?」

「半分はな。悪いか?」

 エッツェルの表情は苦い。その言葉は、クレアを守れなかった自分自身に投げかけた言葉でもあった。彼女の死を防ぐ手立てがあったのかどうかは分からない。だが結果として、彼は最愛の女性を守ることができなかった。そのことは茨となって今も彼の心を責め立てている。

「あまり真面目すぎると、わたしにもてないぞ」

「俺は別に、お前に好かれたいとは思わない」

「素直ではないな。さっそく『心眼の加護』を悪用して、メイドの娘をたらし込んでいるくせに」

「ア、アイシャのことなら、必要があったからそうしただけだ」

「まんざらでもないくせに、何を言う。やはり若い娘に好かれるのは、男として嬉しいものなのだろう?」

「クレア以外の女に好かれたところで、俺は別に嬉しくはない」

「ふん、鼻の下を伸ばしながら言っても説得力はないな」

「別に鼻の下なんか伸ばしていない」

 クレアと同じ顔をしていても、性格は一万倍悪いな、とエッツェルは思った。

「それはそうと、クレアを殺した犯人については、何か分かったのかね?」

「……正直、何もつかめていないのが現状だ」

 直接、容疑者たちと接触して『心眼の加護』で心の中を探ることができればよいのだが、それができたのは次兄ジシュカ、三兄フィリップの二人のみである。長兄ステファンは、軍を率いて帝都の外に出てしまった。長姉デスピナは、兄妹たちとの接触を避けて自らの城に閉じこもっている。残るは次姉のアニエスと三姉のリヴィアだが――。

「アニエス姉上は、研究塔に缶詰め状態で会ってくれない」

「研究塔?」メディアが眉をひそめた。「何かね、それは」

「彼女は魔導に魅入られた人間でな。魔導の研究に人生を捧げている。ちょうど今は大きな実験の最中だそうでな。まあ、変人だ」

「それは……」返答に窮すメディア。「確かに変人だな。魔女のわたしが言うのも妙だが」

「いずれにしても、アニエス姉上はクレアの件には関係がないと思う。世俗のことにはまったく関心のない女だから」

「もう一人の方は?」

「リヴィアについては調査中だが」エッツェルは渋い顔をした。「今のところは何も」

「本人には会っていないのかね?」

「正直、あいつには会いたくない」

「どういうことかね?」メディアが困惑する。「君にしてはわがままだな」

「あいつに会うと、また女装させられる」

「は?」メディアは素っ頓狂な声を出した。「真顔で何を言っている」

「俺を女の子のように可愛く着飾らせて愛でるのが、あいつの夢なのだ。あいつは俺のことが好きすぎる」

「弟大好きお姉ちゃんか」意外な返事に、メディアは口元をほころばせた。「かわいいじゃないか」

「冗談じゃない! お前は奴のことを知らないからそんなことを言うんだ。あいつはヤバい。ヤバすぎる」

「分かった分かった。そこまでムキになるなんて、よほど彼女のことが苦手なようだな。おっと、君のことが好きすぎる、もう一人の肉親が来たようだぞ」

 誰のことかと思えば、三兄のフィリップだった。側近たちを引き連れ、馬に乗って、エッツェルたちの方へと向かってくる。

「ようエッツェル。ジェルメ殿の見送り、ご苦労。ジシュカ兄上もお帰りになったことだし、今日の仕事はこれで終わりだ。早駆けでもしてこようと思うのだが、エッツェルも一緒に来るか?」

「はい、兄上。ご一緒させて……いただき……」

 兄の誘いに応じながら、エッツェルは凍り付いた。傍らのメディアが、突然、深く被ったフードを外し、素顔と長い銀の髪を晒し出したからである。

「ん? その娘は……」

「あ、兄上……これは……この娘は……」

 フィリップは、クレアの顔をよく知っている。メディアが死んだはずのクレアとまったく同じ顔をしていることに気が付くはずだ。さすがにそれは、まずいのではないか。

 エッツェルは焦った。この魔女は、いったい何を考えているのか。

 だが、フィリップは涼しい顔で、納得したように頷いた。

「ああ。聞いているよ。……よかったな、エッツェル」

「……はい?」

「俺は心配していたのさ。クレアを失ったお前が、世を儚んで自ら生命を絶ちはしないか、そうでなくとも、一生独身を貫くなどと言い出しはしないか、とな」

「いえ、あの、何か誤解が」

 メディアがクレアと同じ顔をしていることを、フィリップは認識していないようだ。魔女の力恐るべしである。

「いやいや、分かっている。クレアのことは、今も大事に思っていると言いたいのだろう? それはそれでかまわない。だが、過去だけでなく、未来を見据えることも大切なことだ。エッツェルが前を向いて生きてくれると分かって、俺はとても安心したんだ」

 いったい何の話をしているのか。困惑するエッツェルをよそに、フィリップはメディアに向き直った。

「メディアといったか。エッツェルを支えてやってくれ」

「恐縮です、フィリップ様」

「いつでもこの城に来るといい。君のような素晴らしい女性と出会えて、我が弟は幸せ者だ」

 何だか分からないが、勝手に話が進んでいる。二の句が継げないとは、このような状況を指して言うのであろう。

「二人の逢瀬を邪魔するつもりはなかった。では、ごゆっくり」

 わはははは、と愉快そうに笑いながら側近たちを連れて門をくぐるフィリップを呆然と見送ると、エッツェルはメディアを強く睨みつけた。銀髪の魔女は、飄々として悪びれる様子もない。

「というわけで、わたしは今日からフィリップ兄君公認の、君の愛人ということになる。以後よろしく」

「何がよろしくだ。お前のせいで、俺のイメージがどんどん崩れていくではないか」

「などと言いながら、早くも今夜のお楽しみのことで妄想をたくましくしているエッツェルであった。年頃の男の子だから仕方がないのである」

「してないぞ!? 断じてそんなことはしてないぞ!?」

「そんな」わざとらしくしなを作るメディア。「つれなくしないで、エッツェル様」

「クレアの真似をするな、まったく似ていない」

「同じ顔なのに!?」

「表情がなさすぎる。台詞も棒読みだ。もっと心を込めて!」

「わたしに心がないと知っての発言か? 血も涙もない男だな」

 ああ言えばこう言う。人を食ったような態度の魔女に、エッツェルは頭を抱えた。

 こいつと比べたら、まだジシュカ兄上の方が、扱いやすい。そんな気すらするのだった。

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