第五章 サイノス河の殲滅戦 1

 政府軍が決戦の日と定めた、十一月三日。帝都アウラの郊外、朝靄の森の中を行軍する部隊があった。

 第二皇子ジシュカの率いる精鋭重装歩兵隊である。

 その数、わずか三百。だがこの三百は、戦況を一気に変えうる力を秘めていた。

「兵は、量より質。魔導戦器は、質より量」

 それがジシュカの持論であった。魔導戦器を手にした勇士は、一人で百人の敵と渡り合える強い力を持っている。だが、魔導戦器は、現在の技術では量産が難しい。原料となる良質の魔導石の確保が困難であることが主な理由である。結果、ごく限られた指揮官クラスの人物にのみ配備されることになる。これでは戦術に組み込むことは難しい。

 ジシュカは発想を転換させ、安価だが質の悪い魔導石を大量に集めさせ、それで魔導戦器を精製させた。当然ながら正規の魔導戦器とは比べるべくもない、劣悪なまがい物だが、それでも魔導の力が付与されていない通常の武具よりは、はるかにましなものが出来上がった。

 こうして作られた『竜騎戦盾せんじゅんテストゥード』を、三百人の精鋭すべてに装備させた。全員が魔導の力に守られた、世界で最強の三百人である。十倍、二十倍の数の敵にも負けないだろう。

「この三百人で、私は反徒どもを一掃する」

 ジシュカが動員したのはこの三百人のみであり、残る大多数の兵たちは信頼できる部下に任せて、本拠のズィモーク区に置いてきた。よって、反徒どもがズィモーク区で何かを企てていても、容易に鎮圧できるだろう。

 しかも、この三百人はまっすぐにカタラス区へと向かうのではない。街を東に大きく迂回して、霧の立ち込める森の中を進んでいる。目的地は、直前まで腹心の部下にも知らせていない。

 紅玉ルビーのかけらをちりばめた輝きを解き放つ秋の樹々を、まばゆい金剛石ダイヤモンドのカーテンのような霧が包み込んでいる。幻想的な光景に見とれながら、ジシュカたちはイノシシが食い荒らしたドングリの残骸を踏みしめて、森の奥へと向かう。

 森が途切れ、深い谷に行き当たった。谷底には豊かな水をたたえた河が流れている。ヴァイゼ山脈から流れ出て、帝都アウラのカタラス・ゲマナ両区へと注ぎ込む大河・サイノス河である。

「殿下。これ以上は、進めません。どこかで迂回せねばなりませぬ」

 困惑する兵士たちに、ジシュカは落ち着いた声で指示した。

「いや、これでよいのだ。盾を水に浮かべろ」

 その意図するところを悟り、兵士たちは驚いた顔で問い返した。

「まさか、盾を船代わりにするのですか?」

「そうだ。魔導の力が込められた盾は、水を弾き、浮力を生じさせる。その上にお前たちが乗っても沈むことはない」

 確信に満ちたジシュカの表情は、兵士たちを安心させた。もともと知勇に優れた名将として信望を得ているジシュカである。

「この河の流れを利用して、我々は一気に河下のカタラス区南西部へと行軍する。密偵の報告により、敵は八時にはカタラス区に到達し、デスピナ軍と交戦に入るものと予想される。その直後に我々はニシティア街の浅瀬より上陸し、敵の背後に回り込む。敵の後背を突き、反徒どもを挟み撃ちにするのだ」

 まさに奇策であった。機動力のない重装歩兵部隊を、河を使うことで奇襲に用いるというのである。

 作戦は、タイミングが肝要である。目的地にあまり早く着きすぎると、挟み撃ちにするどころか、敵中で孤立して各個撃破されることになってしまう。深い霧が出ているのを見て、隠密作戦に好都合と決行の時刻をやや早めたのだが、それが吉と出るかどうか。

 いや、吉とせねばなるまい。ゲマナ区を占拠した反徒どもを、これ以上のさばらせておくわけにはいかない。

「ああ、それから……」

 従者に、ジシュカはある指示をした。まず用いられることのない、念のための策である。恐らくは無駄になるであろうが、あらゆる布石を惜しまない者が、最終的な勝者となるのだ。ジシュカはそう信じている。

 命令を実行するため、従者がその場を離れた。その間にも、兵士たちは河に大盾を浮かべていく。最初の一人が、おずおずとその上に乗り込んだ。沈まない。巨大な『竜騎戦盾テストゥード』は、人ひとりが乗るのにちょうどよい小舟となったのであった。

「いけそうですね」

 女性兵士のジョフィエが、上ずった声を出した。ジシュカは頷き、他の兵士たちにも盾の上に乗るように促した。一人、また一人と即席の船に乗り込んでいく。

 そうして全員の準備が整った、そのときだった。

 立ち木の裂けるような音が、かすかに響いた。不審に思ったジシュカが周囲に目を走らせると、河の水に、土色の流れが混じっている。

「流水が、濁っている……?」

 何か恐ろしい予感がした。その正体に気付くよりも早く、彼は絶叫した。

「まずい! 全員、河の外へ退避せよ!」

 直後、今度は誰の耳にもはっきりと聞こえる爆音が、山の方から轟いてきた。振り向くと、上流から圧倒的な土と石と岩の怒涛が、神々への反逆を企てる巨龍のように渦巻いてジシュカ軍へと襲いかかってきた。

 土石流であった。サイノス河の上流で誰かが意図的に山崩れを起こし、夥しい量の土砂を河の流れに乗せたのだ。

 一瞬のうちに、ジシュカたちは恐ろしい濁流に呑み込まれた。

 盾が、ひっくり返る。土砂を含んだ水の中に投げ出され、ジシュカはもがく。素早く肩当ての留め具をつかみ、力いっぱいに引っ張る。全身を覆っていた厚い鎧が、一瞬でばらばらになった。これで鎧の重みで沈んでしまう危険はなくなった。万一のことを考えた仕掛けであるが、これが彼の生命を救ったのだった。

 流れに乗って、大岩がジシュカのすぐそばをごろごろと転がっていく。必死に大盾にしがみついていた不幸な兵士の一人が、ジシュカの目の前でその直撃を食らう。首が、あらぬ方向にへし折れる。即死であろう。慄然としながら、ジシュカは手足をばたつかせた。

「ばかな……」

 三重の驚きが、ジシュカを襲った。

 なぜ自分の秘策が看破されたのか、という驚きが第一である。腹心の部下にすら、直前まで詳細を伝えていない。策が漏洩するはずがない。しようがないではないか。敵はいったいどのように、彼の策を見破ったというのか。

 第二の驚きは、敵が計略を仕掛けたタイミングである。霧が出ているのを見て、ジシュカが作戦決行の時刻を繰り上げる判断をしたのは、今日の早朝である。ジシュカ軍が動き出すのを見てから土石流を起こそうとしても、間に合うはずがない。まさか敵は、彼が予定を変更することまで見越して、あらかじめ準備をしていたというのか。

 第三の驚きは、このような策を敵が仕掛けてきたこと、そのもの。これでは河下の街が土石流で壊滅してしまうではないか。勝利のために、まさかそこまでやるのか。街の民の生活を破壊することは、反徒どもも望んでいないはずだが。

 わずかな側近とともに、かろうじて土手まで泳ぎ着く。呑み込んでしまった泥水を吐き出し、目をこする。九死に一生を得たが、水かさはみるみる増している。このままではここもすぐに水に浸かってしまうだろう。

 ヴァーツラフという大柄な壮年の男が、ジシュカに提案した。

「ジシュカ殿下。わたくしめを踏み台にして、崖の上にお上りください」

「うむ……」

 ジシュカは、彼らしくもなく迷った。自分の作戦の失敗で、味方を死地に晒しているのである。自分が助かることを最優先に考えることに、後ろめたさがあった。

 だが、ジシュカは彼らの主君であり、部下を犠牲にしてでも生き残る義務があるのだった。断腸の思いでヴァーツラフに従い、彼を踏み台代わりにして崖をよじ登る。

 生き残ったわずかな側近たちが、彼に続いて崖の上に登った。ヴァーツラフは、崖の下に最後まで残った。すぐに登ってくるよう、ジシュカは促したが、ヴァーツラフは静かに首を振った。

「図体ばかりでかい、このわたくしです。一人では登れそうにありませぬ」

「ヴァーツラフ!」

「ジシュカ殿下。あなた様こそが真の帝王にふさわしいお方と信じて、従って参りました。皇帝に、おなり下さいませ。エトルシアの全土に君臨する、気高き覇者に」

 それが彼の最期の言葉だった。次の瞬間、ひときわ激しい濁流が押し寄せて、ヴァーツラフを呑み込んだ。ひとたまりもなかった。彼の姿は、岩と石と泥と水の勢いの中に消えていった。

「お前の生命、絶対に無駄にはしないぞ」

 ジシュカは固く誓って、河の流れる先を目で追った。濁流は、街の方へと向かっているはずだ。このままでは、カタラス区やゲマナ区の河岸地域が、大量の土砂に埋もれて壊滅してしまう。

 だが、そこでジシュカが見たのは、思わぬ光景であった。土石流が、街の手前で流れを変えている。街の外の低地へと流れ込んでいるのだ。

「堤防が……崩れている? 馬鹿な、『テオドシウスの大堤』が、かくも脆く!」

 テオドシウスとは、二百五十年ほど前のエトルシアを生きた、土木技術者の名である。「万能の天才」として知られる彼は、多数の人民と魔導の技術を駆使して大規模な堤を築き、頻繁に氾濫を起こしていた大河の流れを安定させた偉大な人物であった。カタラス、ゲマナ両区の民が豊富な水資源を利用できるのは、彼のおかげである。もっとも、その完成までにはおびただしい数の民が酷使され、生命を落とした者も少なくなかったが……。

 その流れが、簡単に変えられている。街に辿り着く前に、堤を破って外へと流れ出ている。おかげで街が土石流に襲われずに済んだのは幸いだが、まさか、それも敵の計算済みということなのだろうか。

「天才テオドシウスをも凌ぐ知者が、敵側にいるとでもいうのか……!」



「ジシュカ兄上は、知らなかったようだな。『テオドシウスの大堤』の、真の価値を」

 ジシュカが登った崖の、さらに高みで、エッツェルは一部始終を目撃していた。自分の作戦が見事に機能したのを見届けて、彼は満足した。『万能の天才』と呼ばれたテオドシウスは、ただ堤を築いて水の流れを安定させただけではない。『テオドシウスの大堤』には魔導の力を用いた水門が備え付けられている。普段は帝都へと水を送り届ける役割を果たしている堤だが、一定限度を超える強い水量を検知すると水門が開き、逆に水を低地へと逃す仕組みになっている。河の流れをコントロールし、余剰の水を放出し、土石流が街の中へとなだれ込むのを防ぐのである。百年に一度の大洪水のための備えだ。

 遥か古い時代には、サイノス河はこの低地を流れていたとも言われている。地形をうまく活用して、洪水を上手くやり過ごす仕組みである。

「テオドシウスの設計通りに水門が機能したな。おかげで街を一つ犠牲にせずに済んだ。ありがたいことだ」

 どのくらいの土砂崩れが起きると、どのような結果になるか。テオドシウスは正確な計算を書き残してくれていた。だからエッツェルは、その計算通りに計画を実行すればよかったのである。

 山を崩すのには魔導粉まどうこを用いた。魔導石を細かく砕いて作られたこの物質は、熱を帯びると爆発する性質を持つ。実行役となったのは、エトルシア西部のメドゥラス鉱山で強制労働させられていた経験を持つ兵士たちである。彼らは、計画的に山を爆破して流出した土砂の中から砂金などの鉱物資源を採取する方法を心得ていた。その技術を応用したのである。

『心眼の加護』の力でジシュカの策略を見抜いたエッツェルが行った、これが兄を破る策であった。

 それだけではない。彼は作戦を実行に移すタイミングにも気を配った。ジシュカの部隊が水上に現れてから、遥か上流で待機する兵士たちに伝達して山崩れを起こさせても、間に合わない。敵部隊がいつ現れるかを事前に予測して、動く必要があった。

 革命軍の中に気象と天文に通じた者がおり、夜間の放射冷却によって、決戦の日の朝は低く濃い霧が出ると分析した。ジシュカは必ずこれを利用する、とエッツェルは確信し、実行の時刻を昼から早朝に早めたのである。

 今、そのジシュカはわずかな供とともに、エッツェルの眼下にある。濁流に目を奪われたジシュカたちは、崖のさらに上の岩場にいるエッツェルの部隊には気が付いていなかった。

「弓兵隊、前へ! 奴らを一兵たりとも逃すな!」

 獲物は、罠にかかった。あとは猟犬をけしかけて捕らえるのみだった。

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