第五章 サイノス河の殲滅戦 2
「伏兵だと……!」
降り注ぐ矢の雨に、ジシュカは自分が取り乱していることを自覚した。いかなるときも冷静沈着を心掛けている彼にとっては、普段はまず感じることのない感覚である。
それはジシュカに、忘れもしないあの日のことを思い出させた。末弟エッツェルに模擬会戦でまさかの敗北を喫した、あの日に味わった感覚であった。
とにかく逃げなければ。だが、盾は濁流の中に投げ捨ててきた。身を守るものは、何もない。この矢の雨の中を、どうやって突破すればよいというのか。
「ジシュカ様。お別れの時がやってきました」
むしろ晴れ晴れとした口調で声を発したのは、唯一の女性兵士であるジョフィエだった。きらきらと輝く紅紫色の瞳が印象的な背の高い美女だが、むろんジシュカは容姿によって彼女を抜擢したわけではない。
「ジシュカ様のことを、密かにお慕い申しておりました。今日、あなた様のために死ねるは本望にございます」
「ジョフィエ! お前まで何を言う!」
ジシュカは驚いて、献身的な女兵士の目を見つめた。彼は部下たちにとってよき主君でありたいと望んでいた。人々の上に立つ皇族として、彼らの忠誠と尊敬を一身に集めるような人間であらねばならないと思っていた。だが、このような忠誠の在り方を、彼は望んではいなかった。
ジョフィエは、ジシュカの前に身を投げ出した。放たれた数十本の矢が、すべてジョフィエの身体に突き刺さった。断末魔の叫びも上げずに、うら若い女戦士の
「ジョフィエー!」
声を振り絞って、ジシュカは絶叫した。皇子としての気品も、将帥としての権威も、エトルシアで最高の智将としての評判も投げ捨てて、彼は赤子のようにわめき散らした。
「こんな、こんな馬鹿なことがあるか! この私が、こんな――」
「落ち着きなされ!」老兵のレシェクが、ジシュカを叱咤した。「皆の死を、無駄になさるおつもりか!」
その言葉で、ジシュカは我を取り戻した。そうだ。自分はこんなところでは死ねない。呼吸を整え、レシェクに相談する。「どうしたらいい?」
「ここは老骨めが食い止めまする」
レシェクはニヤリと笑って、『竜騎戦盾テストゥード』を高く掲げた。土石流に呑まれた際に岩石の直撃でも受けたのか、上半分が砕けてなくなっている。だがそのおかげで、この崖の上まで軽々と持ち運ぶことができたのだった。
再び、敵の一斉射撃がジシュカ主従を襲った。今度は、レシェクが主君を守る盾となる。
その間に、ジシュカは、必死で走った。走って走って、走り抜けた。とにかく今は、逃げることだった。
……エッツェルの足下には、レシェクの骸が横たわっていた。レシェクだけではない。ジシュカの部下たちは、全員が主君を守るためにここで戦い、そして息絶えた。ジシュカは部下たちを見捨てて、一人逃げたのだ。
「あっけないものね」
呟いたのは、シャルロットだった。レシェクの大盾を弾き飛ばし、彼の胸を虹色の短槍で貫いたのは、彼女である。
あのサーカス劇場での一件があって、シャルロットの顔を見るのがどうにも気まずいエッツェルである。それはシャルロットの方も同様らしい。なかなか目線を合わせてくれないし、口数も少ない。それでもエッツェルは、自分の副官として彼女を指名した。エッツェルの作戦には、切り札となるべき心強い戦士が必要であり、それは彼女以外にはありえないのだった。
「どのような精強な部隊も、敗れるときは脆い。そんなものだ」
忠義の勇将に敬意を示し、エッツェルはレシェクのまぶたをそっと閉じた。ジシュカの重装歩兵部隊といえば、エトルシア帝国軍でも屈指の精鋭ぞろいであった。それが、エッツェルの策によって、わずか一日で壊滅したのである。
「ジシュカを追え。そう遠くへは行っていないはずだ」
兵士たちにそう指示し、ジシュカの追撃を再開しようとしたエッツェルの視界に、ありうべからざるものが映った。岩陰から躍り出たその姿に、エッツェルは目を疑った。
「騎馬だと……?」
それは馬にまたがって急な斜面を駆け抜けるジシュカの姿だった。巧みに手綱を取り、荒ぶる馬を穏やかに落ち着かせながら、不安定な難所を見事に突破していく。
「万が一の、そのまた万が一を考えて、こんなところに逃走用の馬を準備していたか」
驚くべき用意周到さである。一週間前、オーミル城で会ったときには、まだジシュカはそこまで考えてはいなかったはずだ。その後、さらに策を練り上げて完璧に近いものにしていたか。あれほど自分の策に絶対の自信を持っていたジシュカが、負けたときのことも考えていたと知って、その知の器の大きさに脱帽するエッツェルであった。
「矢を射掛けろ!」
エッツェルの号令に従って、兵士たちが強弓を引き絞る。だが、一つとしてジシュカの身に届いたものはなかった。エッツェルの次兄の姿は、次第に小さくなっていく。
「逃げられたか」
最大の敵を葬り去る千載一遇の好機を逃して、エッツェルは舌打ちした。だが、これでよい、という思いも、どこかにあった。ジシュカは、クレアを殺した犯人ではない。エッツェルのことを何かと気にかけてくれてもいた。その兄を殺すことに、エッツェルはためらいがあった。メディアには「手ぬるい」と言われそうだが……。
「そうだな。この甘さが、いつか俺の命取りになるかもな」
自戒を込めて、エッツェルはひとりごちた。もはや彼は、帝国に弓を引く反逆者以外の何者でもない。己の身を守るためにも、知略の限りを尽くして戦わねばならないのだった。
だが、今はこれでいいだろう。頭を振って、エッツェルは自分の考えを打ち消した。取り逃がしたとはいえ、彼はあの恐るべき兄に勝ったのだ。それで十分とすべきではないか。自分の甘さがなければ兄を虜囚にできたはずだと考えるのは、驕りではないか。
「ルクスたちは今頃、カタラス城に向けて進撃を開始しているはずだ。取って返して、救援に向かおう」
「了解」
短くシャルロットが応じた。まだ戦いは、終わっていない。
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