第五章 サイノス河の殲滅戦 3
カタラス城の城壁は二重に張り巡らされている。デスピナの居城を直接取り囲む内側の城壁に対し、外側の城壁の中には、民衆に広く開放された広場があった。
今、その広場には、多くの市民が押し寄せていた。
彼らが取り巻いているのは、高く備え付けられた処刑台であった。鎖でつながれたみすぼらしい格好の反徒どもが、帝国兵に槍で小突かれながら、列をなしている。彼らの目つきには暗さの中にも強い意志が宿っており、自らを待ち受けるその運命にも関わらず、まだ希望を捨てていないように思われた。
カタラス城二階のバルコニーから、デスピナは処刑台を見下ろしていた。王族らしく正装し、濃青色の長い髪は馬の尾のように束ねて垂らしている。腰に差しているのは、愛剣『竜騎剣ティアマト』だ。『
「今日こそは、自由革命軍などと称する反徒どもを、皆殺しにしてくれる」
デスピナは呟いた。先日は、部下のフェルセンに反徒どもの討伐を任せたところ、思わぬ不覚を取ってしまった。デスピナ自身が敗れたわけではないとはいえ、やはり屈辱であった。
「フェルセン……あのくずが」
評判の悪いフェルセンを、彼女は好んで部下にしたわけではなかった。ただ、母のエウドキアが、なぜか彼を推薦したのである。軍律を全く守らないので扱いには手を焼いたが、軍事指揮官として無能ではなかったので、一軍を率いさせていた。
本来、正々堂々とした戦いを好むデスピナである。だが、『
だが、フェルセンは反徒どもに敗北して生命を落とし、エッツェルもフィリップに保護されたと聞く。やはりあのような者など信用するべきではなかったのかもしれない。
「どうしたの、私のかわいいデスピナ」
母エウドキアが、優しく声をかけてくる。鮮やかな刺繍の入った赤いドレスに身を包んだ、娘のデスピナから見ても若く美しい母である。
「正直、物足りません。私自身が剣を振るって、反逆者どもを討滅したかったのですが」
「言ったでしょう、それは覇者になる者の仕事ではないと」
あまり正面に出ると、敵に『
「あなたの力は、力と破壊の神トゥルヌスより与えられたもの。あなたはエトルシアの覇者になるべく、神によって選ばれたのよ」
「心得ております、母上」
「もっと顎を引いて。そう、よい面構えですよ、デスピナ。覇者たるもの、何よりも大切なのは、威厳です。他人から、畏怖されるような人間におなりなさい。敬愛される必要はありません。臣下から敬愛されるような主君は、やがて彼らとの間に馴れ合いを生み、それは軽侮されることにつながります。それではいけません。畏怖されることこそが、覇者に必要なことなのです」
母エウドキアは半年前に病に倒れ、三ヶ月にわたって生死の境をさまよった。奇跡的に回復してからというもの、別人のように勇ましくなった母である。柔弱だった母の豹変に違和感を抱かないでもなかったが、兄たちを倒して皇帝になるという彼女の野望を後押ししてくれるようになり、頼もしさを感じてもいるデスピナである。
カタラス区司令官の名において、デスピナは本日十一月三日を捕虜たちの処刑の日と告知し、大々的な公開処刑を行うと発表した。反徒どもは仲間を助けるべく、必ず兵を動かすはずだ。そこを一網打尽にしようというのが、彼女と兄ジシュカの策であった。
ジシュカは精鋭部隊を率いて、敵の後背に回り込む計画を立てている。どのような策を立てているのかは教えてくれなかったが、彼のことだ、必ずやり遂げてくれるだろう。また、弟のフィリップは、動員可能な全軍を指揮して、ゲマナ区のバリケードを攻撃することになっている。反徒どもの主力がゲマナ区へ進軍している間、手薄になっているところを狙おうというわけだ。
デスピナ自身は、城の前方に二重三重の陣を敷いて、反徒どもを待ち受けている。先の戦いで反徒どもを捕らえるのに協力してくれた市民たちを新たに民兵として加え、再編成した大軍である。それらを指揮するのは、デスピナに絶対の忠誠を誓う、熟練の将たちであった。敵がここまで辿り着くことは、まず不可能であろう。
正午の鐘が、重々しく鳴り響いた。定刻だ。そろそろ始めるとしよう。
「これより、偉大なるエトルシア皇帝陛下に弓を引きし不逞なる反逆者どもに、力と破壊の神トゥルヌスの罰を与える!」
デスピナが高らかに宣言すると、処刑人の手で跪かされた反徒どもの頭目の女が、鎖で後ろ手に縛られたまま、デスピナをきっと睨みつけた。
「何が神の罰だ! 妖しげな術で我らを罠にかけた卑怯者のくせに!」褐色の南方系の顔立ちの、鋭い目つきの女だった。「我らアードラー
「カタラス区の市民たちよ、アードラー姉弟の死にざまをしかと目に焼き付けておけ!」女の隣で、やはり褐色の肌の精悍な男が、力強く啖呵を切った。「帝国の犬コロどもに尻尾を振って生きるより、今ここで死ぬことを選んだ俺たちを!」
このような気概のある者たちを、デスピナは決して嫌ってはいなかった。だが、彼らが決してデスピナに屈することがないことも、彼女は十分に承知していた。
「なかなか肝の座った姉弟だな。よろしい、望み通り、死体を切り刻んで犬の餌にしてくれよう」
処刑の指示を下すべく、デスピナが手を上げた、その瞬間――。
何者かが放った一筋の閃光が、まっすぐな軌跡を描いて、斧を構えた処刑人の頭蓋骨を正確に打ち砕いた。
市民たちの間から、悲鳴が上がった。
「魔導銃!? どこから!?」
デスピナは目を凝らした。捜していた相手は、すぐに見つかった。城と広場を囲む城壁の上で、黒ローブの女が銃を構えている。
「あそこだ! 捕らえよ!」
デスピナが叫ぶと、処刑台を囲んでいた兵士たちがそちらへ殺到する。
女が、後ろに飛びのいた。続いて、強い衝撃音が、何度も空気を揺らした。安山岩を切り出して作られた堅固な城壁が、あっけなく崩れ落ちる。
「自由革命軍、『赤きたてがみの獅子』ルクス、参る!」
姿を現したのは、赤毛の若者と、彼に率いられた反徒どもの群れであった。工兵らしい一隊が、破城槌を構えている。これで城壁を一気に突き破ったのだ。
「反徒どもだと!? 馬鹿な、どうやって我が軍の二重三重の防備を突破した!?」
驚愕し、デスピナは目を見開いた。カタラス城が位置する区画を守るようにして、彼女は重厚に兵を配置し、それらは信頼できる部下たちに指揮させている。反徒どもがこうもあっさりとカタラス城まで到達するなど、ありえないことである。
「さあデスピナ。仲間たちは返してもらうぜ」
ルクスが剣を高く掲げると、反徒どもは各々の武器を構え、雄叫びを上げながら広場へと乱入してきた。慌てて応戦するデスピナ軍の兵士たちに、一斉に斬りかかる。市民たちは悲鳴を上げて逃げ惑う。
鮮血が天地を真紅に染め上げ、死の匂いを撒き散らした。
デスピナがどんな『加護』の力を持っているのか、エッツェルはすでに読んでいた。
「デスピナ姉上が持っているのは、他人の心を操り、自らに忠誠心を抱かせる『加護』だ」
知らぬ者が見れば、恋人同士が逢瀬を楽しんでいるように見えるだろう。オーミル城の庭の木陰に腰を下ろし、エッツェルはメディアに語り聞かせていた。決戦の日より三日前のことである。
メディアの存在が兄フィリップに「公認」されてしまったことには困惑したエッツェルだが、メディアがオーミル城に自由に出入りできるようになったのは、彼にとって都合のよいことだった。いちいち屋敷を抜け出してゲマナ城まで行かなくとも、細かな相談が可能になったのだ。
「一定の条件の下、相手を問答無用で自分に従わせる能力だ」
「どうしてそんなことが分かる?」
秋風で、メディアの長い銀髪がたなびいている。それを抑える仕草がクレアを思い起こさせて、エッツェルは視線をそらした。
今日のメディアは、いつもの黒いローブではなく、娘らしい清楚な白いワンピースである。どのような意図で、彼女がそれを選んだのかは分からない。魔女にも、おしゃれをしたくなるときはあるのだろうか。
「最初にひっかかったのは、フェルセンだ」
彼の心を読んだとき、違和感があったのだ。まだ『心眼の加護』を身につけたばかりの頃であり、何がおかしいのか、そのときはあまりよく分からなかった。だが、今となってはその正体がはっきりと分かる。
「デスピナ様を破滅に追いやることだけは、やめてくれ」
あの傍若無人な男が、急にそんなことを言い出したのだ。自分の過去の行いがばれて、デスピナに迷惑が及ぶことを恐れていた。今思えば、『加護』によって植え付けられた忠誠心によるものだったのだろう。
「デスピナの部下といえば、ジェルメも気になった。彼は忠義という言葉にひどくこだわっていた。彼と握手をした際に心を読んだのだが、どうもデスピナの家臣たちが行き過ぎた忠義を発揮することに違和感を覚えていたらしい。デスピナの言うことなら、何でも肯定する。ひたすらこびへつらって、異議を唱えない。そんな奴隷のような忠誠心を持った者たちが、ずいぶんとデスピナの周囲には多いようだ。彼は自分自身もデスピナに忠義を尽くしたいという強い気持ちを抱きながらも、自分の考える忠義と、彼らの考える忠義の違いに悩んでいたようだ」
主君に阿諛追従する輩はどこにでもいるものだが、度が過ぎており、狂信的ですらある、とジェルメは感じているようだった。『加護』によって得られた忠誠心の、副作用なのではないか。
「そういえば、サーカス劇場に進軍していたとき、君を狙って向こう見ずな不意打ちを食らわせてきた狂信的な男がいただろう。あれも、『加護』の影響か」
「ああ、おそらくは」
あのときは、メディアの魔導銃に助けられたのだ。彼女がいなかったら、男の狂信的な試みはまんまと成功していたかもしれない。
「そして決定的なのは、アードラー隊を罠にかけたカタラス区の住人たちだ。自由革命軍になびく気配を示していながら、何の前兆もなく、突然、彼らは姉上に寝返った。以上のことから、恐らく彼女は他人に自分への忠誠心を抱かせることができる『加護』を持っている」
「それはおかしいのではないか。そんな凄まじい『加護』があるのなら、『
「もちろん、万能の『加護』ではない。欠点が二つあると考えられる。一つは、『加護』の力を及ぼす際に、何らかの形で相手との接触を果たす必要があること。一声かけただけで自由革命軍の兵士たちを一斉に寝返らせることができるのであれば、とっくにそうしているだろう。相手を自分の操り人形にするためには、おそらく俺の『心眼の加護』と同様に、相手に直接触るなどの手順を踏む必要があるのではないか」
「ふむ……」
「もう一つは、自分よりもある程度身分の低い、格下の人間にしか効果がないということだ。皇帝やジシュカ兄上はもちろん、フィリップ兄上や俺のような、一定以上の地位を得ている人間には、効果がない。だから俺たちの前には姿を現さない」
「今の君は、一介の従卒にすぎないはずだが」
「実際の地位や身分というより、気持ちや、気概の問題だろう」エッツェルは補足した。「皇族としての権利を剥奪されたからといって、俺はデスピナ姉上の下風に立つ気はさらさらない。そのことは、姉上も本能的に察しているはずだ」
「兄弟はすべて敵と疑うのが、エトルシア皇族の宿命だからな」とメディア。「呪わしい一家だな、まったく」
「フェルセンに対しても、彼を心からの忠臣に変えるほどの力は発揮できなかった。その一方で、一般兵士や、普通の市民のように、自分に強い畏怖を抱いているような相手に対しては、強力な効果があるのだろう。だからデスピナ軍の兵士は彼女のためなら狂信的な行動にも走るし、カタラス区の市民たちも、こぞって彼女に従っている」
「なるほど、筋は通るな。だが、それもすべて君の憶測だろう? もし違っていたらどうするのかね? 君や他の兄妹たちを罠にかけるために、わざと『加護』の力を用いる相手を限定して、油断を誘っているのだとしたら?」
「そのときは仕方がない。諦めて偉大なる我が姉上に忠誠を誓うこととするさ」
エッツェルには強い確信がある。もしデスピナの能力がどのような相手にでも及ぼすことができるものであるなら、すぐさまジシュカやフィリップと会って、彼らを支配下におけばよい。それだけで、世界は彼女のものになる。そうしないのは、やはり『加護』の力に限界があるからであろう。
翌日、彼はオーミル城を抜け出して、自由革命軍の本拠であるゲマナ城へと赴いた。先の戦いで、自由革命軍は幾人かの敵兵を捕虜にしていた。彼らに、エッツェルは次のような偽情報を吹き込んだのである。
「デスピナ麾下のフィロクレス将軍は、実は我が自由革命軍に通じている。合戦の途中に隙を見計らって、彼は昨日までの味方の後背を撃つつもりだ。そうなればデスピナとてひとたまりもないぞ」
「コーディエ監獄の囚人たちが、捕虜の処刑日に合わせて一斉蜂起する。デスピナは処刑に気を取られて監獄の守りをおろそかにしているから、成功は疑いない」
「デスピナは西隣のゲマナ区にばかり注意を払っているが、実は東隣のディヴァ区でも革命軍の同志が大規模な蜂起を計画している。東西から挟み撃ちにすれば、デスピナもおしまいだ」
『心眼の加護』を持つエッツェルにとって、彼らの心理を誘導することは難しいことではなかった。彼らが何を信じたいか。どんな話なら信じるか。それらを的確に読み取った彼の話術は、巧妙を極めた。
さらにエッツェルはルクスに頼み、決戦当日の朝に彼らの監視をわざと緩めさせた。捕虜たちは脱走した。そして、彼らは自分自身の忠誠心に基づいて、敬愛するデスピナのために行動を起こしたのである。
「フィロクレス将軍を直ちに斬れ! 彼は、敵に内応している。早くしないと、取り返しのつかないことになるぞ!」
「今すぐコーディエ監獄の守りを固めるべきだ! 囚人どもが脱獄に成功したら、デスピナ様に何と申し開きをするつもりか!」
「どうか私を信じて、東のディヴァ区へ兵力を集中して下さい! それがデスピナ様をお救いする唯一の方法なのです!」
自分たちのデスピナへの固い忠誠心が、かえって味方の大混乱を招くとは、彼らは想像もしていなかっただろう。
「フィロクレス将軍、暗殺者に襲われ負傷!」
「イチジク通りに展開していた部隊が、持ち場を離れて勝手にコーディエ監獄へと向かっています。反徒どもに内通し、囚人どもを解放するつもりと思われます!」
「ディヴァ区で反徒どもが一斉蜂起したようだ。今にもこちらに向かってくるぞ」
「何だ、一体何が起こってるんだ」
「落ち着け、とにかく持ち場に戻れ! 命令に従わないと、反逆者とみなすぞ!」
「黙れ、貴様こそ反徒どもに与するつもりだろう!」
疑心暗鬼と混乱の中で、自分だけがデスピナの真の忠臣と信じる者たちは、自らが正しいと考える行動に移った。それがさらなる混乱を招き、デスピナ軍の統制は、自壊した。ルクス率いる自由革命軍は、大混乱のデスピナ軍を悠々と打ち破り、一気にカタラス城の広場まで押し寄せたのである。
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