第二章 皇族たち 2

「エッツェル、無事だったか!」

 全身で喜びを表現してエッツェルを出迎えたのは、二つ違いの兄フィリップだった。『金羊毛の騎士エクエス・アウレウス』という異名の通り、オレンジがかった明るい金色の髪が眩しい、華やかな美男子である。皇子というより、舞台上で皇子の役を演じている二枚目俳優を思わせる風采だ。

 フィリップの守るオーミル区でも自由革命軍の大規模な蜂起があり、彼はずっとその対応に追われていた。ようやく鎮圧に成功したのは、すでにゲマナ城が陥落し、フェルセンの軍も壊滅した後だったらしい。わずかな手勢を率いてゲマナ区まで押し寄せてきたのは、弟だけでも何とか救い出したい、という気持ちからだったようだ。

「兄上、心配をおかけして申し訳ありません。不詳の弟が、おめおめと生き恥を晒しに参りました」

 身体のあちこちに擦り傷を作り、それでも元気に姿を現したエッツェルを、フィリップは力いっぱい抱きしめた。その瞬間、エッツェルの中に、フィリップの心境が雪崩れのように入り込んできた。

≪エッツェルが無事で、よかった! クレアだけじゃなく、エッツェルまで死んでしまったらどうしようかと思っていた。本当に、本当によかった!≫

 弟の無事を心から歓迎している様子に、エッツェルは少しでもフィリップのことを疑った自分を恥じた。フィリップとは、クレアの婚約者の座を巡って争った仲である。クレアをエッツェルに奪われたことを、実は心の奥底では深く根に持っていて、自分のものにならないのならいっそ……と考えたのではないか。その可能性を、こうして心の中をこじ開けるまでは捨てきれなかったのである。

 エッツェルは、この年の近い兄のことが好きだった。フィリップとエッツェル、それにクレアは、少年期を一緒に過ごした仲だった。自身もクレアへの求婚者の一人でありながら、エッツェルとクレアの婚約が決まると、一番に祝福してくれたのも彼だった。フィリップ兄上が犯人でなくてよかった、とエッツェルは安堵した。

 これで六人の兄姉のうち、一人がクレア殺害の容疑から外れた。容疑者は五人に絞られたことになる。

「助けに行けなくて、すまなかったな。俺が無力なばかりに、お前に大変な苦労をさせてしまった」

「このオーミル区でも反徒どもが蜂起したこと、聞き及んでおります。ゲマナの陥落は、ひとえに私の無能無策によるもの。兄上のせいではございません」

 うん、とフィリップはうなずいたが、心の中では、自分がしっかりしていればゲマナ陥落は防げたのではないか、と己を責めている様子である。どこまでも人のいい兄に内心で苦笑しながら、エッツェルは言葉を続けた。

「これから私は皇宮に出向いて、皇帝陛下に敗北の報告をいたします。どのような罰が下されようとも謹んで甘受するつもりです」

「これから? 駄目だ駄目だ。今日はもう遅い。今から行っても、陛下ももうお休みだろう。明日でかまわない。明日、俺と一緒に行けばよい」

 そう言って、フィリップは軍を撤収させ、エッツェルを自らの住むオーミル城に連れて行った。薔薇の五弁飾りがついた尖頭アーチ形の窓が特徴的な、華美ではないが洗練された建物である。三年前から、フィリップはこの城の城主を務めている。

 客間に通され、ソファーに座ったエッツェルに、フィリップは優しく語りかけた。

「ここを自分の家だと思って、くつろいでくれ。欲しいものがあれば、何でも言ってくれてかまわないぞ」

「そうですよ。寒かったでしょう。暖かい紅茶をどうぞ」

「恐縮です、義姉上あねうえ

 若い女性が運んできたカップを受け取り、エッツェルは紅茶を喉に流し込んだ。思えば朝から何も口にしていない。エッツェルがほっと一息ついたのを見て、女性は控えめに笑みを返した。フィリップの妻、イェレナである。クレアほど皆の羨望を集める美人ではないが、気立ての良い、落ち着いた印象の女性だ。

「ああ、美味しい。義姉上は紅茶を淹れるのが本当にお上手ですね」

 エッツェルとクレアの婚約が成ってほどなく、フィリップはドゥシャン侯爵家の娘であるイェレナを妻に迎えた。ドゥシャン侯爵家は名家ではあるが、血なまぐさい権力闘争を嫌い、無欲に慎ましく生き延びてきた家柄で、イェレナもその血筋の例に漏れず、万事、謙虚に振る舞っている。

 そのようなところが、フィリップは気に入ったのであろう。だがエッツェルは同時に別のことも考えていた。エッツェルに対し、自分がもうクレアには未練がないことを示すために、あえてイェレナとの結婚を急いだのではあるまいか。

 心の内を探ってみたい気もしたが、『心眼の加護』をむやみに用いることにはためらいがあった。あくまでも、クレアを殺した犯人を暴き出し、追い詰めるための武器である。興味本位で他人の心の奥底を覗き見ることは憚られた。

 エッツェルが客間で休んでいる間に、遅い晩餐の準備が整った。暖かい若鶏のシチューに、新鮮な野菜と茸のサラダ、仔羊のロースト、川魚のムニエル、さらに駱駝の乳から作られたチーズなどが香ばしい匂いでエッツェルの食欲を刺激した。イェレナの実家であるドゥシャン侯領から届けられたワインの味は絶品で、エッツェルとフィリップは舌鼓を打ちながら、今日のこと、これからのことを話し合った。

「……というわけで、私はどうにか逃げ延びたのですが、部下たちのほとんどは生命を落とし、アンジェリカは反徒どもに囚われてしまいました。今回の大失態、我ながら本当にふがいなく思っております」

「エッツェルは、実戦は初めてだっただろう。仕方のないことさ」ははは、とフィリップは笑った。「ゲマナ城くらい、すぐに取り返せる。気にするな」

「そうはおっしゃいますが……昔から武芸も学問もできた兄上と比べて、我ながら何と情けない」

「何を言う。武芸なんて、個人の勇さ。皇族が誇るものじゃない。学問といっても、俺にできたのはただの座学だ。それよりもお前は、模擬会戦であのジシュカ兄上に勝っただろう。教練書にはない自由な発想ができるお前を、俺はいつもうらやましく思っていた」

 フィリップは、エッツェルを責めなかった。それどころか、昔話まで持ち出して、エッツェルを励ました。

「それに、クレアのこともな。あいつは、てっきり俺に惚れていると思っていたのだがなあ。気が付くとお前に取られていた」

「あら、そのおかげで私はあなたと一緒になれたのですから、私はエッツェルさんに感謝していますのよ」

「はは、それもそうだ」

 昔惚れていた女性のことを妻の前で持ち出すフィリップの鷹揚さにエッツェルは呆れたが、妻の方もにこにこと微笑んでそれに応じている。楽天的で細かいことは気にしないのが、この夫婦である。

 ひとしきり笑ってから、フィリップは真面目な顔になり、エッツェルの肩を叩いた。

「エッツェル、クレアの仇は、必ず取ろうな。和平の調停に動いてくれた恩人、それも女性を殺害するなんて、反徒どもは本当に許しがたい、卑劣な奴らだ。絶対に、絶対に許せない」

「もちろんです、兄上」

「アンジェリカもだ。反徒どもに囚われているアンジェリカは、必ず取り戻す。幼い少女を人質にするなんて、人間のすることじゃない」

 兄の言葉が心からのものであることを、エッツェルは『心眼の加護』で感じ取った。それを嬉しく思うと同時に、自分が兄を騙していることを後ろめたく感じた。

 いっそ兄に、何もかも話してしまおうか。エッツェルはふと思った。クレアを殺したのは自由革命軍ではないことも、『加護』のことも、すべて話してしまった方がよいのではないか。だが、それはフィリップに、クレアの仇を討つために政府軍に弓を引けと迫るようなものだ。それはできない。兄は今、イェレナという妻を得てまずまず幸せな生活を送っている。それを壊すことなど、できるはずがない。

 それが欺瞞であることを、エッツェルは知っている。彼は、政府軍を裏切り、自由革命軍に味方することを決意した。である以上、いつかはこの兄をも打倒しなければならないときが来るのかもしれないのである。どうにかして、そのような未来は回避したいところだが……。

 そこまで考えて、エッツェルは苦笑した。まるで俺は、自分の力でこの知勇を兼ね備えた兄に勝てるような気になっている。惨めな敗者としてこの世から永遠に退場するのは、彼自身の方かもしれないものを。

 いずれにせよ、やはり兄には、真相は話せない。まして『加護』のことは、誰にも話せない。話せるわけがない。

 エッツェルはつい先ほどの出来事を思い返した。クレアと同じ顔を持つ、あの魔性の女とのやり取りを。



「お前はいったい何者だ、フードを取れ!」

 そう言ってエッツェルが力任せにフードを引っ張ると、見えたのは暗闇の中でも輝く長い銀髪に、豊かな知性をたたえた碧眼だった。まごうことなきクレアの顔である。ありえないはずのものを見出して、エッツェルは息を呑んだ。

 だが、クレアが生きていた、などと早合点するほど、エッツェルは浅慮ではなかった。

「なぜお前はクレアと同じ顔をしている?」

「やれやれ、また質問攻めか」

 クレアの顔をした女は、エッツェルの性急さを咎めるように、口元を歪ませた。クレアが決して見せたことのない表情である。

「わたしの名前はメディア。ピュレナの山に住まう、魔女だ」

「魔女だと?」

 あらゆる魔導の術に通じるとされる、伝説の存在である。おぞましい邪神の手下だとか、悪魔と交わって快楽に耽る淫乱な妖女だとか言われているが、あくまでも童話や伝承の中の登場人物にすぎない。それが良識ある人々の見解であり、昨日までのエッツェルならば一笑に付すところである。だが、『加護』という摩訶不思議な力は、そのようなものでも持ち出さなければ説明がつかない。笑い飛ばすことはできなかった。

「そうだ。魔女であるわたしが、お前に『加護』を授け、この世の覇者にしてやろうというのだよ」

「本当ならば都合のいい話だが、代償は? 目的は何だ?」

「我々魔女は、数百年に一度、次の『大魔導師』を決めるための勝負を執り行う。それを『魔女たちの宴』と我々は呼んでいるのだが」

 魔女たちの頂点に立ち、世の中の理を世界の影から支配する。それが大魔導師という存在なのだと、メディアは説明した。

「『魔女たちの宴』に勝利し、次の大魔導師になるためには、『覇者を目指す者レグナートゥールス』を見つけ出して『加護』を与え、その者を西方諸国の覇者にする必要があるのだよ」

 西方諸国といっても、その中で超大国として君臨するのはエトルシア帝国である。エトルシアの皇帝となることが、覇者であるための絶対条件となるだろう。

「で、お前はその『覇者を目指す者レグナートゥールス』とやらに俺を選んだというわけか」

 クレアと同じ顔から目をそらして、エッツェルはそっと首を振った。

「買いかぶりだな。俺は、自分がその器だとは思わない」

「くだらん謙遜はやめたまえ。君はつい先ほど、あのフェルセンとかいう薄汚い豚を巧妙に罠にかけてミンチにしたばかりではないか。あれは見事だったぞ」

「大魔導師とやらの調理人を務めるくらいの才能はあるかもしれないな、確かに」

 軽口を言える程度には、エッツェルは平静さを取り戻していた。彼が畏怖に囚われていたのは、事態が彼にとって全く未知の領域にあったからである。知識が与えられたことで、彼は落ち着きを取り戻し、考えを巡らせることができるようになっていた。

「だが、俺より優れた奴は世界にはいくらでもいる。俺ごときがこの世の覇者になれるとは思えない」

「『加護』の力があってもかね?」

「今の話だと、魔女というのはお前以外に何人もいて、そいつらも将来の覇者と見込んだ人間に『加護』の力を与えているのだろう? 条件が互角なら、やはり俺より優れた人間に、俺はかなわない」

「なるほど、呑み込みが早いな」満足げに、魔女は頷いた。「やはりわたしの見立ては間違いではなかった」

「そんなことより、質問に答えろ。なぜお前はクレアと同じ顔をしている」

「魔女は、『加護』を与えた人間が最も愛する人間の姿をとるのだよ。その者が魔女を裏切ることのないように」

「つまり、クレアの姿かたちをしている限り、俺はお前を斬ることができない。それどころか、ともするとクレアの代わりとして、お前の愛情を求めるようになる。そういうことか」

「よく分かっているではないかね。そうとも、じきに君は、わたしなしではいられなくなる」

「ふざけるな、人の心をもてあそびやがって!」

 荒々しく叫び、エッツェルはメディアに飛びかかった。右手で、喉をつかむ。

 演技である。激昂したふりをしてメディアに触れて、その心を読もうと考えたのである。

 だが――。

「……?」

 おかしい。

 メディアの心が、何も読み取れない。いや、読み取れないというより――。

「何だ、これは」

強いて表現するなら、巨大な虚無、だろうか。普通の人間ではありえない、形容しがたい異形のものが彼女の心の中には潜んでいる。

「無駄だよ、わたしには心がないのだから」

 氷のような顔で、メディアはせせら笑った。これも、クレアならば決してしないはずの表情だった。

「君はクレアの仇を取るために、『加護』の力を必要としている。わたしは君に次代の覇者となってほしい。なれるなれないの問題ではない。君に選択肢はないのだよ」

「覚悟を決めろ、ということか。力を求めたことの、それが代償だと?」

「そうだ。それから、今はもう一つだけ言っておこう。『加護』の力に、呑み込まれないようにしたまえ」

 どういう意味だ、と問おうとして、エッツェルは口をつぐんだ。それぐらいは自分で考えてみたまえ。メディアの凍てつくような視線が、そう告げていたからである。

「いずれまたすぐに会えるだろう」

 そう言って、メディアは踵を返し、彼の前から立ち去った。彼はその場でしばし呆然と立ち尽くしていた。それから我に返って、フィリップの下へと急いだのである。ほんの数時間前の出来事だった。

 メディアには再び会う必要がある。詳しく聞かなければならないことが、たくさんあった。だが、まずは休むことだ。そして皇宮に赴かなくてはならない。あの暴君――エッツェルの実の父である皇帝アレクサンデル二世と、面会しなければならなかった。

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