第二章 皇族たち 3
皇宮。帝都アウラの中心部に鎮座し、国政や軍事の中枢を担っているこの城は、皇帝の住まいでもあり、皇帝を守る最後の障壁となる巨大な城塞である。街の高台の上につくられ、周囲を堀と城壁で覆われている。大楼門、防御塔、張り出し櫓、狭間、殺人孔、落とし格子を備えた、西方諸国でも類のない堅牢な城であるが、最大の特徴は、何といっても『皇宮結界』である。
『皇宮結界』は、皇宮全体をすっぽりと覆う半透明の光の壁である。許可された人間だけが、結界を一部解除した城門を通じて出入りを行うことができる。それ以外には、蟻の一匹も入ることができない。むろん矢も火薬も通らない。
ゲマナ城は自由革命軍に占拠されてしまったが、『皇宮結界』は健在である。これがある限り、自由革命軍は皇帝に対して手も足も出ないのである。
一年前、十七歳でゲマナ区の司令官に任命されるまで、エッツェルはこの皇宮の中で生まれ育った。稀にフィリップに誘われ、クレアに会いに外へ出ることはあったが、彼の少年期はすべてこの上流階級、特権階級の人間のみが出入りする監獄の中でかたちづくられたといってよい。
ゲマナ陥落の翌日、フィリップとともに皇宮を訪れたエッツェルは、取り次ぎ役の侍従に、皇帝への謁見を申し出た。血を分けた親子とはいえ、皇帝に会うことは簡単には許されない。
待つこと数刻、侍従に案内されて、エッツェルたちは謁見の間へ入ることを許された。最高級の赤絨毯の上を歩いて中に入ると、先客がいた。くすんだ灰色の髪を揺らして鋭い眼差しを向けてきたのは、次兄のジシュカである。
「来たか、エッツェル。フィリップも」
エッツェルは身体をこわばらせた。兄姉たちの中で、彼が最も警戒するのはこの兄である。バランス感覚に秀でた政治力といい、緻密な下準備に基づく卓越した軍事指揮能力といい、凄まじい知性の切れ味を見せる俊才で、『世界の破壊者』と呼ばれた英雄帝セヴェルスの再来ともいわれる。
「二人とも、前へ。エッツェル、皇帝陛下に昨日の経緯を報告しなさい」
謁見の間は、天井の高い、左右に円形アーチ状の窓のある大広間である。玉座のある最奥部は薄い白絹の幕で遮られており、皇帝の姿は、シルエットのみが見えている。『皇宮結界』に守られたエトルシア皇帝が唯一恐れるのは、暗殺である。それゆえか、彼はめったに人前に姿を現さない。
エッツェルは皇帝に向かって膝をつき、殊勝な面持ちを装って口を開いた。
「皇帝陛下より預かりし将兵らを死なせ、ゲマナ区及びゲマナ城を失いましたこと、すべて臣の不明によるところ。その罪、万死に値します。この身、いかなる罰も――」
「部下たちはことごとく戦死あるいは敵の虜囚となったにもかかわらず、貴様だけおめおめと生き残ったか、エッツェルよ」
息子の前口上を遮って、皇帝が吐き捨てた。神聖不可侵、唯一絶対の専制君主による激しい糾弾の声である。並みの人間であればそれだけで心臓麻痺を起こしそうな、禍々しい響きを伴っていた。
「婚約者を、ルーアン公女クレアを失ったことから、まだ立ち直れないのか? いずれ他の有力貴族の娘を見繕って、あてがってやると言っていただろう。代わりはいくらでもいるというに」
その一言に、エッツェルは全身の血がかっと沸騰するのを感じた。皇帝にとって、クレアの存在とはその程度のものであったのだ。クレアだけではない。地上で並ぶ者のない皇帝にとっては、他人の生命など塵のようなものなのだ。
激情に耐えながら、エッツェルは昨日の経過を報告した。市民の中から反徒たちが蜂起し、ゲマナ城へと押し寄せてきたこと。その勢いを止められず、あっという間に城を制圧されてしまったこと。デスピナ麾下の軍勢が援軍としてやってきたが、それも撃破されてしまったこと。最後に、自分は彼らの捕虜となったが一瞬の隙をついてどうにか逃げてきた、と嘘の報告をした。
つまらなさそうにそれを聞いていた皇帝は、エッツェルには何も答えずに、彼の次兄に対して恐るべき命令を発した。
「ジシュカ。民の中から反徒どもの仲間を百人ばかり捕らえて血祭りにし、もって反逆者への見せしめとせよ。奴らに味方するとどうなるか、赤子にも分かるようにな」
「……かしこまりました。ですが、反徒どもの共犯者を一人ひとり探し出すとなりますと、なかなかに大変な――」
「そんなことはどうでもよい! 適当に貧民街のゴキブリどもを捕らえて処刑して、こやつらは反徒どもの仲間だったと宣伝すればよいのだ」
「御意」
「帝室の権威の失墜は、百万の愚民どもの血をもってしても贖えぬものだが、さしあたってはそのくらいはしておかねばな」
やはりこの皇室は腐り切っている。エッツェルは確信した。民を虐げて、何が帝室の権威か。世界に冠たる帝国の、これがおぞましい正体なのだ。俺には見えていなかった。いや、見ないふりをしていたのだ。
エッツェルは、これまでずっと、皇室と貴族だけの世界で生きてきた。彼の眼には、貧しい庶民の姿は映っていなかった。シャルロットやルクス、自由革命軍の人々と出会って、初めて彼は自分が盲目であったことに気付いたのである。
クレア、君は知っていたんだな。エッツェルは心の中で、今は亡き想い人に呼びかける。貧しい人たち、困っている人たち、虐げられている人たちのために何ができるのかを、考えてください――クレアの遺言状には、そう書いてあった。すべての民、すべての人間には、それぞれの世界で生きる権利、幸せになる権利がある。皇帝といえど、それらは決して犯してはならないものだ。そのことを、クレアは知っていた。だから彼女は和平を希求していたのだ。
あれほど愛したクレアのことを、自分は何も知らなかった。
「さて、問題はエッツェルの処遇だが……」
「恐れながら、申し上げます!」
フィリップが声を張り上げて、皇帝の発言を遮った。
「陛下、どうかエッツェルにご慈悲を!」
「ならん!」
皇帝は、だが、強い口調でフィリップの嘆願を突っぱねた。
「皇族は、反逆以外の罪では死罪にはせぬ定めだ。ゆえに生命まではとらぬ。だが、一切の行政権並びに兵権、皇族及び貴族としての特権を剥奪し、庶民と同等の扱いとする。当面の間、フィリップに預ける。下働きでもさせておれ」
フィリップが息を呑み、ジシュカも眉間にしわを寄せた。庶民と同等の扱い。特権階級の世界にどっぷりと浸かった人間にとっては、目も眩むような屈辱である。昨日までのエッツェルであったなら、自分のすべてを否定されたような気持ちになって、自らの未来に絶望していたに違いない。だが、フィリップの下に置くとは、皇帝にしては詰めが甘いのではないか。フィリップとエッツェルが兄妹たちの中でも親しい間柄であることは、周知の事実である。
「甘やかすなよ、フィリップ」
なるほど、これは皇帝から兄上に仕掛けられた罠だ。エッツェルは悟った。何かと弟に甘いフィリップにエッツェルの身柄を預けるのは、それをもってフィリップの器量を試すつもりなのである。皇帝にとってもはや用済みとなったエッツェルを、最後にフィリップを試す道具として使い捨てようということなのだ。フィリップ兄上は、このことに気付いているだろうか?
だが、エッツェルにとっては悪くない事態である。フィリップが何かを言うより早く、エッツェルはかしこまって言上した。
「死罪にはせぬとの仰せ、ご恩情に厚く感謝いたします、陛下。ですが、それだけでは私めの気が収まりません。どうか私めに、陛下のおみ足を洗わせていただけませんか」
「ほう、殊勝なことよな」
下僕として恭順の意を示すときに行うしきたりである。起源となったのは、初代エトルシア皇帝ロムルス一世の故事だ。彼はまだ無名の下級指揮官であった頃、戦いに敗れ、当時の主君アンキセス公と二人きりで荒野を彷徨ったことがあった。そのとき、彼はアンキセス公の泥塗れになった足を洗うなど献身的に尽くして、主君の信頼を勝ち得たのである。
さあ、どう答える? エッツェルは、そっと皇帝の様子をうかがった。
「だが、それには及ばぬ。余は、形式よりも実利を貴ぶ」
皇帝の心を読む、ほとんど唯一の機会を奪われて、エッツェルはひそかに落胆した。もしや、皇帝は『加護』のことを知っているのか? そんな思いが、エッツェルの脳裏をよぎる。皇帝は絹の幕で自らと臣下とを区切り、素顔さえ見せていない。『加護』の力を自分にかけられたらたまらぬという、警戒心がそうさせているのではないか?
だとしたら、エッツェルは結果的にまずい手を打ってしまったことになる。皇帝は今、エッツェルが『加護』の力を持っているのではないかと疑っているかもしれない。単に暗殺を極度に恐れているだけなのかもしれないが……。
「用は済んだ。三人とも下がれ」
皇帝がそっけなく告げた。エッツェルが皇帝の心の中を確かめる機会は、少なくとも当面のところは失われたのである。
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