第一章 ゲマナ陥落 6

「フェルセン。愚か者め」

 道端に転がったまま無残にも放置されたフェルセンの首を足蹴にして、白銀の鎧に身を包んだエッツェルはつぶやいた。

 フェルセンは、しらを切るべきだったのだ。エッツェルは『加護』の力でフェルセンの心を読み、彼が皇帝の寵姫と一夜の関係を結んだことを知った。それをもとに彼を脅迫したわけだが、物的証拠などは何も持っていない。エッツェルが殺されれば秘密が暴露されることになっているというのも、もちろんはったりである。彼が素知らぬ振りをし続けていれば、エッツェルとしては手の打ちようがなかった。

 むろんフェルセンがその選択肢を取らなかったことは、偶然ではない。エッツェルが巧みに彼の心理を誘導して、それ以外の道を選ぶように仕向けたのである。

 エッツェルは初めからすべての計画を頭に描いていたわけではない。フェルセン自身に対して語ったように、彼を自分の駒として使うことも考えた。だが、彼の心を読んで気が変わった。

 奴は、こともあろうにクレアをおぞましい空想で汚した。クレアをなぶって殺すという身の毛もよだつような想像を、『加護』を通じてエッツェルに見せつけた。クレアの存在は、エッツェルの中の最も神聖な部分を占めていた。その彼女を冒瀆するような真似を、エッツェルは決して許せなかった。

「まさしく最低の下種野郎だ。こやつの死体を切り刻んで、豚の餌にしてやろうか」

 おまけに奴は、クレアを殺した真犯人のことを、何も知らなかった。かつてのエッツェルと同じく、彼女は革命軍に殺されたのだと思い込んでいた。

「せめて犯人を知っていたのなら、俺の役に立って死ねたものを。誰のためにもならぬ、ただ害悪をまき散らすだけの、どうしようもない男だったな」

 フェルセンの悪名を知らなかったわけではない。だが、帝国の名のある貴族がこれほどまでに腐敗していたとは、エッツェルにとって衝撃であった。自分はこれまで帝国の何を見ていたのかと、自らを責めたい気持ちである。

「やあやあ、これはシルバー同志。どのような魔法を使ったのかは存じないが、おかげでフェルセンを討ち果たすことができた。僕が見込んだ通り……いや、それ以上のことをやってくれた。ご協力まことに感謝する」

 大仰な挨拶とともにエッツェルに近づいてきたのは、残敵の掃討をシャルロットらに任せて肩の荷を下ろしたルクスである。

「いや、感謝しなければならないのは俺の方だ。お前が俺のことを信用してくれたおかげだ」

 偽らざる本心だった。革命軍の中にルクスのような理解の早い男がいてくれたことは、稀有な幸運だった。

 歓声が沸き上がった。自由革命軍に共感する市民たちがわらわらと街路に出てきて、彼らの勝利を祝い始めたのだ。

「自由革命軍、万歳! 自由革命軍、万歳!」

「暴君に死を! 都市に自由を! 圧政に終止符を!」

 その熱気の凄まじさに、エッツェルは圧倒された。普段、彼らは皇帝に対しても、「皇帝陛下万歳!」の掛け声を発している。だが、専制君主への恐怖からやむなく発する「万歳!」と異なり、こちらの「万歳!」は心からの、魂の叫びだった。

 あっという間に街は人で埋め尽くされた。人々は互いにビールを掛け合い、革命軍の兵士たちを胴上げし、「自由よ、友よ」と下手くそな歌を歌う。

「あの胴上げをされている若者はカルロスといって、恋人のハンナを貴族に奪われたんだ。カルロスは勇気を振り絞って、ハンナを返せ、と貴族に抗議した。翌日、ハンナは帰ってきた。ただし、冷たい骸となって」

 ルクスの説明に、エッツェルは言葉を失う。

「隣で男泣きをしているのは、マーチャーシュだ。彼の兄は若くして百人隊長となった軍のエリートで、町のみんなの自慢の種だった。だが、その兄は上官の不正を告発しようとして逆に横領の罪を着せられ、首を吊って死んだ」

「それは……」

「みんな、それぞれ事情を抱えて革命軍に加わっている。分かるかな?」

 ルクスが何を言いたいのか、エッツェルは理解した。これまでの彼にとって、自由革命軍とは、「クレアを殺した憎い奴らの仲間」「愚かにも帝国に逆らう暴徒ども」にすぎなかった。だが、そうではないのだ。彼らには彼らの正義があり、それを糧として生きている。

 エッツェルも、今のエトルシア帝国のあり方をすべて肯定していたわけではない。様々な矛盾や不条理がはびこっていることは、承知していたつもりだった。だが、帝国の支配の正統性そのものを疑ったことは、一度としてなかった。皇帝や貴族が民に服従を強いるのも、民が彼らに従うのも、当然だと思っていた。

 しかし、そうだろうか。フェルセンのような輩が大きな顔をしているのは、何か社会の仕組みそのものがおかしいのではないだろうか。

 自分も変わらなければ、とエッツェルは思った。憎しみの対象を、ただ自由革命軍から政府軍へと切り替えるだけでは意味がない。

「ルクス。今後とも、自由革命軍の諸君に協力させてもらえればありがたい。そして俺は、クレアを殺した犯人を暴き、その仇を討つ」

 見上げると、そこには石造りの荘厳な建物があった。フェルセンに飛びかかるため、シャルロットが屋根の上で待ち構えていた教会だ。誓約の女神ルクレティアに捧げられたこの教会では、二ヶ月前、両軍の和平交渉が執り行われるはずだった。すなわち、クレアがその生命を永久に失った、まさに現場である。今ここで政府軍に対する最初の勝利を得られたことには、何か象徴的な意味があるように思われた。

「誓約の女神ルクレティアにかけて、俺は必ず復讐を果たす」

「遠からずその日が訪れんことを。改めてよろしく、エッツェル皇子」

 気さくに笑って、ルクスは片目をつむった。

「さて、皇子にはこのまま我らとともにゲマナ城に戻ってもらおうか」

「いや、俺はいったん、皇宮に行く」

 怪訝な顔をするルクスに、エッツェルは説明した。

「俺がお前たち自由革命軍の仲間になったということは、まだ政府軍の誰にも知られていないからな」

「なるほど、スパイの役目を果たしてくれるというわけか」

 他人の心を読む『加護』の力。これがあれば、皇宮に巣食う魔性の者ども――皇帝をはじめとする皇族や貴族、官僚、高級軍人たちの真意を探ることができる。クレアを殺した犯人を知っている者がいるかもしれない。また政府軍の作戦行動を知ることができれば、今後の戦いを有利にできるだろう。

「だったら、早く行った方がいい。シャルロットにバレるとめんどくさい。あいつはまだあんたのことを信用していないからな」

 実に物分かりがいい。一度信頼すると決めたからには、とことん信じてくれているようだった。

「そうだな。では、近いうちにまた会おう。それと、アンジェリカのことを頼む」

「いいのか? 僕のことを簡単に信じて」

「言っただろう、クレアを殺した奴らの手元に置くよりは安全だ、と」

 ゲマナ区を失った今、エッツェルは徒手空拳に近い状態で帝国の中枢に帰還することになる。アンジェリカの身を守る余裕はない。それに、自分を信じてくれたルクスのことを、信じたかった。

「気を付けて、皇子」

 別れの挨拶は簡潔だった。エッツェルもルクスも、多くのことを抱えていた。明日を切り開くため、あらゆる手を打ち、考えうるすべての事態を想定しなければならない。わずかの時間も惜しかった。

 エッツェルは、なるべく目立たない路地裏を選んで走り抜けた。途中、雑草が生い茂る朽ちかけた廃屋に立ち寄る。クレアが境遇を憐れんで援助をしていた貧しい老婆が住んでいたあばら家である。一年前、老婆が亡くなって無人となり、世話する者もおらずに打ち捨てられている。エッツェルは白銀の鎧を脱ぐと、それをこの粗末な屋敷に隠した。

 この瞬間から、彼は自由革命軍の謎の騎士・シルバーから、エトルシア帝国第四皇子・エッツェルとなった。革命軍の兵士に見つからないよう、細心の注意を払いながら、ゲマナ区を北に抜ける小道を進む。

 日が暮れて、かなり薄暗くなっている。北のオーミル区に通じる細い小道は、街路とは異なり、照明も灯っていない。若干の心細さを感じながら足を速めていると、突然、正面に人影がぽつりと立っていた。

 エッツェルは冷や汗をかく。どこからか現れたのではない。その人物は、最初からそこに立っていた。それなのに、気づかなかった。まったく気配がしなかった。

 黒いローブに身を包んだ人物である。フードを深く被っているので、素顔は見えない。

「どうだ、わたしの授けた『加護』の力は、気に入ってくれたかね?」

 エッツェルの全身を、稲妻のような戦慄が駆け抜けた。確かに「あの」声だった。絶体絶命の危機にあったエッツェルに、力が欲しいのか、と囁きかけ、そして実際に他人の心を読む『加護』の力を授けてくれた、あの魔性めいた女の声だ。

「お前は……お前は一体何者だ? 天使か? それとも悪魔か? この力は何だ? 何が目的だ?」

 まくしたてたのは、エッツェルの心が恐怖に支配されていた証だった。人知を超えた、おぞましいもの。死すべき定めにある者の力では計り知れないもの。世界を支配する摂理すら超越した、圧倒的な何かがそこにあった。

「俺の味方か、それとも敵か? なぜ顔を隠す? 戦乱を望む者か、それとも平和を求める者か? クレアを……クレアを殺した奴の正体を、お前は知っているのか?」

 フードの下で、「それ」は確かに笑った。エッツェルの狼狽ぶりを滑稽に感じたのかもしれない。

「『心眼の加護』だよ、わたしが君に授けたのは。どうやら君にはあれを使いこなす力量があるようだな」

「心眼、の、加護……。一体、それは何だ?」

「おかしなことを問う。君はすでに、その力をよく知っているはずではないか」

 そのときエッツェルは、自分がその女の声に聞き覚えがあることに気付いた。その正体に気付いたとき、彼は慄然として自分が夢を見ているのではないかと疑った。まさか、ありえない。だがこの声は、確かにの声だ。あまりにもおぞましく、あまりにも神々しい魔性を帯びていたために気付かなかったが、気付いてしまえばもはや他の誰の声にも聞こえなかった。

「お前はいったい何者だ、フードを取れ!」

 恐怖に突き動かされたエッツェルは、力任せに女のフードをめくり上げた。


 フードを取ったその中にあった顔は――死んだはずのクレアの顔だった。

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