第一章 ゲマナ陥落 5
フェルセンの軍勢は、ゲマナ城に対する包囲を解き、撤退を開始した。
六千の兵たちが、長蛇の陣を敷いて、ゲマナ区の中心部を走る街路を西へと進む。そのまま街の外へと抜け、まっすぐにラヴァル伯領に向かう予定だ。反徒どもの主力はゲマナ城に集中しているため、阻む者はいない。急なことゆえ糧食の準備もままならないが、そんなものは通りがかった村から力ずくで奪えばよい。
異変が起こったのは、中心市街を抜けて旧市街へと入りかけたときだ。不意に、前方に武装した兵士たちが現れた。フェルセンは顔色を変えた。反徒どもの軍が、待ち伏せをしていたのだ。
「我が名はルクス。フェルセン将軍、お命、頂戴する!」
指揮官と思われる赤毛の若者が、不敵に笑って藍紫色の長剣をフェルセンに向けた。まばゆい光を放っているその剣は、間違いなく魔導戦器だろう。手練れの剣士に違いない。
「馬鹿な。なぜこんなことに」
フェルセンはうめいた。あのシルバーという男は、「今は見逃してやる」と言っていた。フェルセンを手駒として使いたいという意図があったからだろう。帝国でも指折りの貴族であり、下賤な反徒どもを幾度も打ち破った偉大な将軍である自分を手駒にすれば、奴自身にも大きな恩恵がもたらされるというのに、なぜ奴は、考えを変えたのだろうか。この場でわしを殺すことがいかに損失であるか、分からないのだろうか。
……フェルセンは知らなかった。シルバーを名乗る男――すなわちエッツェルが「見逃してやる」と言ったのは、フェルセンを油断させ、彼の心理を巧みに誘導するための策であったということを。その言葉を口にしたとき、既に彼にはフェルセンを生かしておくつもりなどなかったのだということを。
エッツェルがフェルセンと交渉している間も、自由革命軍の指導者であるルクスは精力的に次の手を打っていた。機敏さと体力に優れた精鋭三百人を選抜し、エッツェルの合図とともにすぐに動けるように待機させていたのだ。
そしてエッツェルが交渉から戻るとすぐに、ルクスは自ら選抜部隊を率い、フェルセン軍の退路を断つべく、裏道を迂回した。そして今、鮮血のような赤毛を揺らし、藍紫色の愛剣を振りかざし、彼はフェルセンの部隊を包囲している。
「ぬうう……」
フェルセンの軍は、反徒どもよりも多勢で、精鋭ぞろいで、しかも連戦で疲労してはいなかった。まともにぶつかり合えば、反徒どもに負けるはずがない。だが、その隊列は長く伸びきっており、陣頭に立つフェルセンを守るのは、わずかな護衛の騎士のみである。
「フェルセンの首を取れ!」
赤毛のルクスの指示の下、自由革命軍の選抜隊は、フェルセン軍への攻撃を開始した。斬り、刺し、叩き、貫く。フェルセンは驚いた。たかが反徒どもが、こんなに一糸乱れず動けるとは。しかも彼らは夕日を背にしているため、対面するフェルセン軍は、目が眩んで戦いにくい。たちまち劣勢に追いやられた。
「ぬかったか。だが……」
どす黒く巨大な戦斧を、フェルセンは侍従から受け取った。長年にわたって愛用し続けてきた魔導戦器『竜騎
唸り声を上げながら、フェルセンは戦斧を両手で握りしめ、振りかざす。
瞬く間に強いつむじ風が舞った。轟音が大地を揺るがし、天へと響く。ただ一振りで、反徒どもが次々と弾き飛ばされていく。味方も何名か巻き添えになったが、フェルセンの知ったことではなかった。そんなところに立っている方が悪いのだ。
フェルセンがこれまで多くの敵を屠ってきた、これが『旋風』の絶技である。
「くっ。さすが、一筋縄ではいかないか」
赤毛のルクスも立っているのがやっとだ。自分の魔導戦器の力を盾にして、かろうじて攻撃を防いだのだ。
「ぬわっはっは、雑兵どもが」
フェルセンは大笑した。わしが本気を出せば、こんなに強いのだ。やはりわしは偉大な武人であったのだ。シルバーと革命軍を相手に思わぬ不覚を取ったが、気持ちよく絶技が決まって、彼は少しだけ自信を取り戻した。
「どうだ。貴様らの中に、わしに勝てる者がおるか」
「ここにいるわ。その首、あたしがもらい受ける!」
凛とした女の声が高く響く。通りに面した荘厳なルクレティア教会の屋根の上に、沈みゆくオレンジ色の夕日を背にして、誰かが立っている。逆光で顔までは見えないが、そのシルエットから、スタイルのよいうら若い女であることが分かる。右手で高く掲げた短槍が、虹色にきらめいている。魔導戦器に違いない。
女が屋根を蹴って、空高く跳躍した。フェルセンめがけて、虹色の短槍をまっすぐに伸ばし、一気に距離を縮めて襲いかかる。一瞬の出来事で、しかも直視するには落日がまぶしすぎる。わずかに怯んだフェルセンだが、
「ぬう!」
強烈な一撃を、間一髪、戦斧で受け止める。乾いた衝突音が響き渡った。女はしなやかな動きで着地する。金糸のようなセミロングの髪が、ふわりと舞った。
「お前はあの、金髪の女……!」
シルバーとともにいた、気の強い女だ。魔導戦器を操る、手練れの戦士だったのか。
「あたしの名はシャルロット。あなたに滅ぼされた、アルラス県シャンベリ村の生き残りよ」
「シャンベリ村だと……?」
「そうよ。覚えているでしょう? ラヴァル伯フェルセン、あなたに殺された百万の民が受けた苦しみを、今度はあなたが一人で受ける番だわ!」
「ほざけ! 住人を皆殺しにした村の名前など、いちいち覚えてはおらんわ!」
シャルロットが短槍を振り回し、猛烈な波状攻撃を仕掛けてくる。その動きは正確で、無駄がなく、勢いに満ちていた。それらをかわし、戦斧で止め、鎧で受け流しつつも、フェルセンは内心で動揺する。この女、強いぞ!
「村を焼き、財貨を奪い、女を襲い、赤子や老人まで殺し尽くす。それが名誉ある帝国貴族とやらのやることなの?」
「そ、それが何だというのだ。政府軍に逆らう不逞の者どもを殺し尽くしただけだ。それのどこが悪いのだ」
フェルセンは、少しだけ後退して態勢を整えると、戦斧を持つ手に力を込めた。不愉快なこの女を、早く黙らせなければならない。
「死ねえええい!」
戦斧が左から右へと薙ぎ払われると、真空の刃が、とてつもない速度で放出される。『旋風』の絶技が、再び炸裂したのだ。至近距離からこの絶技を受けて生き延びた相手はいない。女が身体を上下に真っ二つにされ、泣きながら死んでいくところを空想し、フェルセンは勝利を確信した。
ほとんど同時に、だが、シャルロットもまた虹色の槍をフェルセンに向けて、会心の絶技を放っていた。渦巻く雷の波が、轟音とともに槍を彩った。『雷撃』の絶技だ。
二つの絶技が、凄まじい勢いでぶつかり合う。勝ったのは、『雷撃』の方だった。『旋風』の見えない刃を食いちぎると、稲妻の槍が鎌首をもたげてフェルセンに襲いかかった。慌てて戦斧で身を守るフェルセンの身体に、ずしりと重い、強い衝撃が走った。
次の瞬間、フェルセンは信じられないものを見た。どす黒い愛用の戦斧に、ぽっかりと丸い孔が開いていたのだ。
「わ、わしの『ケクロプス』がああああ!」
慄然として、フェルセンは絶叫した。強力な魔導で保護された戦器を破壊する絶技など、およそ聞いたことがない。
「この、化け物女め!」
「化け物言うな!」
シャルロットが憮然として攻撃の手を緩めると、その間にフェルセンは慌てて部下たちをどやしつけた。
「何をしておる! わしを守らんか! 貴様らの生命をわしの盾とせぬか!」
「そ、そうだった!」言われて初めて気付いたかのように、側近が騎士たちに慌てて号令をかける。「将軍閣下をお守りせよ!」
「フェルセンのために生命を捨てるつもりか? この腐り切った男は、それに値する主君なのか?」
ルクスが叫ぶと、フェルセン軍の騎士たちは動揺した。すでにルクスの部隊は態勢を立て直し、一斉に剣を構えて彼らの前に立ちふさがっている。
「逃げるなら今のうちだぞ。我々が欲しいのは、フェルセンの首だけだ」
騎士たちは顔を見合わせた。シャルロットの絶技に度肝を抜かれていたこともあり、胸を張ってフェルセンを守ろうとする者は誰もいない。彼らがフェルセンに従っていたのは、上官の人徳に感銘を受けたからではなく、その略奪のおこぼれにあずかるためである。彼らが忠誠を誓うのは、勝者のフェルセンであって、敗者のフェルセンではなかった。
もはや戦いにもならず、フェルセン軍は潰走した。騎士たちは悲鳴を上げながら、逃げ惑う。武器を投げ捨てて降伏の意思を示す者もいる。
「な、何をしておる! わしを、わしを守らんか!」
もはやフェルセンを守るものは何もない。へなへなと腰を抜かした彼の首に、複数の槍が向けられた。
「シャンベリ村のみんなの仇を取らせてもらうわ」
凛然としてシャルロットが言い放つと、フェルセンは気圧された様子でまくしたてた。
「ち、違う。わしは殺してなどいない。誰も殺してなどいない。栄光ある帝国貴族たるこのわしが、無辜の民を殺したりなどするはずがないではないか。皆殺しなど、でたらめだ。でっち上げだ」
革命軍に与した罪で民を殺戮して回ったことは、普段から彼自身が喜々として語っていたはずだが、そんなことは都合よく忘れているフェルセンである。
「へえ。じゃあ、あたしが見たあの死体の山は何だったの? 何十ヶ所も刺されて血まみれになって死んだ母さんや、真っ二つに斬られて死んだ兄さんの姿は? 両手両足をばらばらにされたアルテュールおじさんや、頭蓋骨をかち割られた燐家のルネ坊やは、誰に殺されたの?」
「い、いや、今のは間違い。虐殺は、確かにあった。だが、それは反徒どもが、お前たちの仲間が行ったことだ。反徒どもが自分の仲間を殺して、我ら政府軍に罪をなすり付けようとしたのだ。だからその、悪いのは、わし以外の誰かだ。わしはいつだって悪くない」
シャルロットはため息をついた。あまりの見苦しさに、憐みの情すら湧いてくる。
「どこまでも下種な男なのね。まずはその舌から切り刻んであげようかしら」
ひえっ、とフェルセンは悲鳴を上げた。彼は他人をいたぶり、苦しめ、その泣き叫ぶ姿を見るのが何よりも好きだった。だが、自分が誰かにそうされることなど考えたこともなかったのだ。
「シャンベリ村のみんなは、もだえ苦しんで死んだわ。でもあたしは慈悲深いから、一息で地獄へ送ってあげる」
そう言うと、シャルロットは腰の剣を抜き放ち、フェルセンの首を一気に刎ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます