第一章 ゲマナ陥落 1

 二ヶ月前のことである。


 雷が鳴り響く夜だった。わずかな蝋燭の火を頼りに、エッツェルは薄暗い礼拝堂の中を歩いていた。信じられない、信じたくないという思いが、彼の心をかき乱した。だが、礼拝堂の奥に安置されている女神像の前まで来ると、現実と向き合わないわけにはいかなかった。細やかな天使のレリーフが施された棺には、長い銀髪の少女が横たわっていた。

 静かに眠る――そして、二度と目を覚ますことのない美しい婚約者の横顔に、エッツェルは息を呑んだ。

「なぜ……」

 疑問の声が、彼の口からこぼれ出た。呆然として、彼は愛する人の亡骸にすがりついた。

「どうしてだクレア。なぜ俺を置いて逝った」

 自分にはもったいない、最高の女性だった。聡明で、情が深く、誰に対しても優しかったクレア。誇り高く、それでいて驕らず、若くして将来を期待されていた公爵令嬢。彼女と歩むはずだった未来。すべてが、奪われてしまった。

「申し訳ありません。わたくしどもが駆けつけたときには、すでに……」

 護衛を務めていた騎士たちが、心底悔しそうに、エッツェルに詫びた。彼らを責める気には、エッツェルはなれなかった。クレアを慕っていたのは、彼らも同じだ。誰からも愛されるクレアを、生命を賭けてでも守るつもりだったに違いない。それが果たせなかったことを、心から無念に思っていることだろう。

 そう、憎むべきは敵だ。自由革命軍を名乗る反徒どもが、彼の最愛の女性を殺したのだ。

「恩を仇で返すとは、恥知らずにもほどがある」

 エッツェルは歯ぎしりした。政府軍と反徒どもとの交渉役を務めたのは、クレアだった。絶えることのない内戦と、それに巻き込まれ死んでいく罪のない子どもたちに心を痛めたクレアが、両者の間を取り持ち、和平に至る道筋をつけようとしたのだ。

 和平が成っていれば、反徒どもも、無益な犠牲者をこれ以上出すことはなかっただろう。その貴重な芽を、彼らは自ら摘んでしまった。会談のために訪れたクレアを騙し討ちにして殺すなど、鬼畜の所業にも劣るではないか。

「見ていろ、クレア。仇をとってやる。必ず、お前の仇を……」

 両軍の会談の場になるはずだったルクレティア教会の礼拝堂で、エッツェルは婚約者の骸に誓った。最愛の女性を失った男として、当然の責務であるように思われた。

「エッツェル殿下。これを」

 騎士の一人が、蠟で封をされた、手紙のようなものを持ってきた。クレアの字で「エッツェル様へ」と書かれている。

「これは?」

「クレア様のお部屋で、発見されました」

 意匠も何もない、真っ白な封筒だ。恋文にしてはかしこまった、というより地味な印象である。

「まさか……遺言状、なのか」

 クレアは、この事態を予期していたとでもいうのか。ひったくるように騎士から受け取って開封すると、中にはクレアの字でエッツェルに宛てた手紙が入っていた。


愛するエッツェルへ

 あなたがこれを読んでいるということは、私はもうこの世にはいないのかもしれません。

 あなたと過ごせた日々は、とても素晴らしいものでした。あなたと出会って私は幸福でした。普通の人の何倍も、何十倍も、幸福でした。だからその幸せをみんなにも分けてあげたくて、私は他の人にもついいらぬおせっかいをしてしまうのです。

 和平への道のりは、順調です。うまくいけば、政府軍の人たちも、自由革命軍の人たちも、もう血を流すことはないでしょう。その最後の仕上げのために、私はこれから自由革命軍のもとに向かいます。

 ただ、今回ばかりは、悪い予感がします。何もかもがうまくいっているのに、なぜか、不安が拭えないのです。あるいは事態が順調すぎることが、かえって私の不安を掻き立てるのかもしれません。なので、万が一の事態を考えて、この手紙をあなたに残すことにします。

 でも、そんな事態が起きたとしても、悲しまないでください。誰も恨まないでください。前を向いて生きてください。貧しい人たち、困っている人たち、虐げられている人たちのために何ができるのかを、考えてください。私がいなくなってもあなたがそうやって生きてくれることが、私の願いです。

 最後に、妹のアンジェリカのことを、よろしくお願いします。彼女が頼るべきは、あなたしかいないでしょうから。

 ああ、あなたがこの手紙を読むことがありませんように!

                           あなたのクレアより


「クレア……お前は俺から、誰かを恨む権利すら、奪おうというのか……?」

 エッツェルの目から、大粒の涙がこぼれた。

 あなたと出会って私は幸福でした、だと? 違う。エッツェルこそが、クレアと出会ってかけがえのない幸福を得たのだ。素晴らしい日々を過ごすことができたのは、クレアのおかげだったのだ。

 反徒どもはその幸福を、彼の未来のすべてを、奪ってしまった。それなのに彼女は、憎い暗殺者どもを、卑劣な殺人者どもを、恨まないでくれと彼に求めているのだ。

 いっそ俺も死のうか。エッツェルはそう考えた。クレアを失って、もはや生きる意味もない。腰に差した短刀を、手で探る。これで心臓を一突きすれば、俺もクレアと同じ世界に行ける。一思いに、そうすべきだろうか。

 巨大な両開きの扉がゆっくりと開いて、幼い少女がおずおずと礼拝堂へと入ってきた。

「クレアねえさま……?」

 エッツェルはとっさにクレアの遺体を隠そうとした。まだ十歳にも満たぬ少女に、大好きな姉の死を受け入れさせるのは、あまりにもつらい。すでに両親もこの世の人ではない。ひとりぼっちになってしまったことを、少女に知らせたくないと思った。

 だが、そういうわけにはいかなかった。少女――クレアの妹アンジェリカは、姉に代わって、ルーアン公爵家を継がねばならない。クレアの死から、目を背けさせるわけにはいかなかった。

「ねえさま……ねえさま……」

 クレアと同じ銀色の髪を揺らし、遺体を前に泣き崩れるアンジェリカを、エッツェルは後ろから静かに抱きしめる。

「そうだ、この子を……アンジェリカを、俺はクレアに託された……」

 クレアがいない今、自分がこの少女を守らなければならない。だが、できるだろうか? クレアを守ることができなかった自分が、この幼い少女を戦乱の世から守ることができるだろうか?

 アンジェリカに言葉をかけようとした矢先、騎士の一人がエッツェルに進言した。

「エッツェル様。ゲマナ城へお戻りください。クレア様が殺され、和平が破綻した今、いつ反徒どもが攻め寄せてきてもおかしくありません」

「死ぬことも、休むことすら……俺には許されていないというわけか」

 騎士の言葉に、黒髪の皇子は力なく笑った。感傷に浸る時間すら、彼らには与えられていないのだ。神々は残酷であることを、彼は知った。


 誰も恨めない。誰に悲しみをぶつけることもできない。エッツェルが失意と無気力から立ち直れぬまま、二ヶ月が過ぎた。

 そして、彼にとって運命の日――十月十四日、すなわちゲマナ陥落の時を迎えることになるのだった。

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