第六章 新たなる決意 5

 オーミル城の城壁の上にたたずんで、エッツェルは夜空を静かに眺めていた。真っ黒なキャンバスを彩る宝石のような星々がよく見えた。

 夜空に溶け込んでしまいそうな黒いローブを着た魔女が、東の空に浮かぶ満月を背後にして立っている。

「そろそろ話してはくれないか」

 亡くなった恋人と同じ顔をした女に、エッツェルは促した。これ以上は待てない。真相を、彼は強く希求していた。

「お前の望み通り、俺は覇者への道を歩んでいる。サイノス河に続き、イオティカ丘陵でも俺は兄ジシュカを破った。自由革命軍にとって、もはや『シルバー』はなくてはならない存在だ。その自由革命軍は、ディヴァ城を陥落させて帝都の七分の三を制圧している。お前に求められるとおりに、俺は振る舞っている。ならばお前の方も、俺に対して誠意を見せるべきではないのか」

「どうしても、話さないとならないのかね」

 言いづらそうに、メディアは顔を背けた。もはや黙り続けることはできない。そう悟ってはいるのだろう。だが、最初の一言が、口に出せないようだ。

「ならば、俺から問おう」エッツェルは切り込んだ。「もしかしてお前は、最初は俺ではなく、誰か別の人間を『覇者を目指す者レグナートゥールス』に選ぼうとしていたのではないのか」

「そうだ」メディアの青い瞳に、光が宿った。「わたしは当初、君ではなく、別の者にわたしの命運を託そうと思っていた」

 やはり、そうなのか。予想通りの答えに、エッツェルは頷いた。

 おおよそ、予測はついていた。彼がメディアによって選ばれたのは、デスピナやリヴィアが『加護』の力を得るよりもずっと遅い。それに当初からメディアが彼を『覇者を目指す者レグナートゥールス』に選ぶつもりであったなら、なぜ彼がゲマナ城を失う直前まで、何の接触もなかったのか。ゲマナの落城によって権力を失う前に『加護』の力を手にしていれば、もっと他にやりようがあったのに。

 そこから導き出される結論は、一つしかなかったのだ。メディアはエッツェルではない誰かを、『覇者を目指す者レグナートゥールス』として考えていた。それが果たせなかったために、その候補をエッツェルに切り替えたのだ。

 そして、その人物とは――。

「クレアだ」

 ああ、とエッツェルの口から、思わず声が漏れた。

「わたしはお前の婚約者のクレアを選ぼうと考えていた。そして、そのために――」

 クレアと同じ青い瞳で、メディアはエッツェルをまっすぐに見据えた。

「エッツェル、君を殺して、わたしが君に成り代わろうと企んでいたのだよ」

 その告白を、エッツェルは黙って受け止めた。クレアを『覇者を目指す者レグナートゥールス』に選ぶつもりであったなら、当然の帰結である。だからメディアは、彼に真実を話すことをためらっていたのだ。

「なぜ、クレアだったのだ?」

「いいだろう。事の初めから、語って聞かせるとしよう」



「前回の『魔女たちの宴』の勝者――すなわち、エトルシア初代皇帝ロムルス一世は、覇者に与えられる権力を最大限に利用した。恐怖と抑圧で権力者が民を支配する世界を創造したのだ。彼は権力に魅入られた、おぞましい男だった。以来、この三百年というもの、民はずっと圧政に苦しめられてきた。――そんな世界を、わたしは変えたかったのだよ。

 そのためにも、わたしが選ぶ『覇者を目指す者レグナートゥールス』は、ただ強くて賢いだけの者であってはならなかった。民のことを、真に思いやる人間でなくてはならない。選定は難航した。わたしの理想にかなう人間など、そうはいない。

 そんな折、わたしはクレアの評判を聞いた。彼女こそがわたしの選ぶべき人間ではないかと考え、わたしは貧相で醜く、粗末な服装の浮浪者の姿で彼女に近づいた。そして金に困っていると言って援助を求めた。

 クレアはわたしにも、優しく接してくれた。わたしは驚いた。大貴族の年頃の娘が、下層階級の者を同じ人間扱いしてくれるとは、信じられなかったのだよ。彼女は明るく笑いながら、わたしにこう語った。『世の中の誰も飢えず、蔑まれることのない国をつくることが、私の願いなのです』と。……側にいた彼女の婚約者は、そんな薄汚い浮浪者など相手にするなという顔でわたしのことを見ていたがね。

 万人に好かれる朗らかな人柄、貧しい者や弱い者への慈悲深さ、理想をまっすぐに見つめる気高さ、それでいて現実を見失わない聡明さ。クレアの特性のすべてが、わたしの理想だった。わたしは彼女を『覇者を目指す者レグナートゥールス』に選ぶと決めた。彼女に、優しい世界を創造させたかったのだ。だが、そのためには、クレアが愛する男――つまりエッツェル、君を殺す必要があった。

 わたしは迷った。クレアの優しさ、心根の良さを何よりもかけがえのないものと考えたわたしが、クレアの恋人を殺して彼女を欺くなど、そんなことがあってもいいのだろうか。わたしの行いは、矛盾しているのではないだろうか。誠実さを欠いているのではないだろうか。

 だが、その迷いが、取り返しのつかない惨劇を招いてしまったのだ。

 あの夜、クレアに異変が生じたことを魔女の力によって感知したわたしは、彼女の下へ急いだ。だが、わたしが駆けつけたときには、すでに何者かが彼女を刺して立ち去った後だった。

 瀕死の重傷だった。魔女の力で助けられなかったのか、と君は問うかもしれない。エッツェル、君に『加護』の力を授けたとき、わたしは君が負っていた傷をすべて癒すことができた。『加護』には、そういう力もあるのだよ。

 だから、わたしも最初はクレアに『心眼の加護』を授けて傷を癒そうと試みた。だが、できなかった。どういうわけだか、傷口が塞がらなかった。短刀が刺さった胸から、どくどくと血が流れ出して止まらなかった。迫り来る死の運命が、見えていた。こうなると、魔女の力をもってしても、止められない。止められなかったのだよ。

 すべてはわたしのミスだった。もっと早く、クレアに『心眼の加護』を授けていれば。暗殺者の存在に、わたしが気付いていれば。『加護』に頼らない何らかの手段で、クレアの傷を癒すことができれば。

 世界を変えようと志した魔女として、ありうべからざる失態だ。……だからクレアは、わたしが殺したようなものなのだ。

 それでも、わたしは自分のありったけの魔力を使って、少しだけ、クレアに最後の時間を作ってやることができた。このまま死なすのは、あまりに忍びない。何か思い残すことはないか、と問うたわたしにクレアは言った。『私の姿に化けて、エッツェルを助けてあげて。次代の覇者にふさわしい人がいるとしたら、それは彼だから』と。

 どのような理由によってか、彼女はわたしの正体を知っていたのだな。『加護』や『魔女たちの宴』のことも。それだけ言って、彼女は死んだ。わたしは彼女の亡骸から『霊魂』を取り出して、自らの中に取り込んだ。それにより、わたしはクレアの姿になった。クレアを愛する者を、いつでも『覇者を目指す者レグナートゥールス』に選ぶことができるようになった。

 ただ、ここで問題が一つ生じた。クレアとの会談のために、自由革命軍の者たちがやってきたのだよ。死んだクレアと生きたクレア、二人の姿を見られてはややこしいことになる。わたしは自分自身の身を隠すのに精いっぱいで、クレアの遺体はその場に放置しておかなければならなかった。ゆえに、わたしは生きたクレアに成りすますことが永久に不可能になったのだよ。

 クレアの姿になったものの、すぐに君に接触することはできなかった。君がクレアを失って失意のどん底にあったからだ。君には時間が必要だった。心を整理するための時間が。本当はもう少し、欲しいところだったのだがね。ゲマナが陥落寸前となり、このままでは君も死んでしまう、そういう状況まで追い詰められて、わたしは君に『加護』を授けたのだ。

 わたしがクレアに身をやつし、君を『覇者を目指す者レグナートゥールス』に選んだのは、そういう事情からだ。だからわたしが君を選んだのは、実はクレアの意思なのだよ」



 メディアの独白を、エッツェルは相槌も打たずに無言で聞いていた。

「ずっと黙っているつもりだった。だが、君に隠し事は通用しないな。『心眼の加護』よりも鋭く真実を見抜く目を、君は持っているのだな」

 そう言いながらも、一人で抱えていたことを吐き出して、メディアはわずかながら穏やかな表情を見せた。だが、またすぐに険しい顔に戻った。

「この際だからはっきり言ってしまうが、エッツェル、なぜ君を一思いに殺してしまわなかったのか、わたしは今でも後悔しているのだよ」

「俺を殺していた方がよかった、と?」

「そうだ。わたしのことが、憎くなったか?」

「ああ」エッツェルは答えた。「なぜそうしてくれなかった。お前が早くに俺を殺してくれていれば、クレアは死なずに済んだかもしれないのにな」

 メディアが驚いたようにぽかんと口を開けたのを見て、エッツェルは笑った。

「冗談だ。今さら言っても、仕方のないことだ。俺は、俺にできることをやる」

 メディアの告白を聴いて胸に湧き上がってきたのは、亡きクレアへの想いだった。

 死んでなお、クレアは彼のことを守ってくれていたのだ。もし彼女が、エッツェルを『覇者を目指す者レグナートゥールス』に、と言い出さなかったら、彼は『加護』の力を得ることもなく、ゲマナ陥落の際にシャルロットに殺されていたに違いない。

「俺が……」

 エッツェルは夜空を見上げた。星々が天を覆うように瞬いている。それらの光をかき消すようにして、圧倒的な美しさで、満月が東の空から中天へと上ろうとしている。

「俺が、クレアの志を継ごう」

 クレアが目指したような国を、つくらなければ。彼女の理想を、現実のものにしなければ。彼女の死を無駄にしないためにも、是が非でもやり遂げたいと、エッツェルは強く思った。

 そのためには、エッツェルは他の『覇者を目指す者レグナートゥールス』たちを打倒して、覇者になる必要があった。現在のエトルシアを新しい国に変えるためには、それしかない。クレアならば、あるいは何か別の手段によって、それを成し遂げることができたかもしれない。だが、エッツェルにとっては、それがただ一つの道だった。星々の輝きをかすませる月明かりのような存在に、彼はならなければいけないのだ。

「ありがとう」

 銀髪を揺らめかせて、メディアが少し笑った。笑うと、その朗らかな面持ちがクレアを思い起こさせて、エッツェルはどきりとした。だがもはや、彼は彼女から目を背けなかった。



 ――メディアが語ったことは真実であった。だが真実のすべてではないことを、このときのエッツェルはまだ知らなかった。

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