第六章 新たなる決意 2
釈放されても、リヴィアはすぐに自由の身にはなれなかった。本当に疑いが解けたのか、まだ分かりかねていたからだ。油断してぼろを出すと、監獄に逆戻りということになりかねない。
しばらくはオーミル城でエッツェルの振りをして過ごした。数日が経過し、監視の目がもはや完全になくなっていることを確認して、ようやく彼女は外へ出た。十二月十三日のことである。
オーミル区の街中にある宿に入る。個室を借りて一人になると、服をすべて脱ぎ、久しぶりに『変幻の加護』を解除して自分の姿に戻る。準備していた町娘の衣装に着替える。
「ふう……」
解放された気分で、リヴィアは部屋に備え付けの鏡を見つめた。うっとりするような黒髪の美少女の姿がそこにはあった。大好きなエッツェルになりきるのは何とも言えない楽しい体験だったが、やはり自分本来の姿が、一番しっくりくるものだ。
ただし、絶世の美少女であるリヴィアの姿は、街中では目立ちすぎる。宿を出るときは、アンナの姿に化けることになるだろう。
「なつかしいな」
この宿には、一度だけ滞在したことがある。幼いリヴィアとエッツェル、それに彼らの母は、馬車に乗ってオーミル城へと向かっていた。だが、不逞な反体制派が彼らを拉致しようと待ち受けているという急報が入る。安全が確保されるまで、母子はたまたま近くにあったこの宿で一休みすることになったのだ。
「あの頃は、本当にエッツェルといつも一緒だったよね。楽しかった」
奇しくも、あのときと同じ部屋だった。窓からの眺め、壁に掛かった下手くそな油絵、どれもよく覚えている。
感慨にふけっていると、足音が廊下から聞こえてきた。他の部屋の客かな、とリヴィアは思い、気にも留めなかった。だが、次の瞬間、リヴィアの背筋を凍らせるような出来事が起こった。
コンコン、という音がした。リヴィアの部屋のドアが、ノックされたのだ。
まさか、そんな。思わぬ出来事に、リヴィアの頭は真っ白になる。自分がこの宿のこの部屋にいることは、誰にも知られていないはずだ。それなのに。
いや、落ち着け。リヴィアは自分に言い聞かせる。宿の主人が、サービスで何か飲み物でも持ってきたのかもしれない。
鍵穴から廊下を覗き込もうと、そうっとドアに近づこうとした矢先のことだった。ドアが、静かに開いた。鍵をかけていたはずだったのに。ドアの向こうにいる人物は、合い鍵を持っているのだろうか。
不意に、相手が誰であるかを理解して、リヴィアは息を呑んだ。彼女がこの宿を利用する可能性に行きつくことができる人物は、ただ一人しかいなかった。
「エッツェル!」
合い鍵を使ってドアを開けたエッツェルは、驚いた表情のリヴィアが立ち尽くしているのを見て、口元を吊り上げて笑った。
「どうだ、監獄に囚われた気分は。よく俺の役に立ってくれた。感謝する」
エッツェルが腰に剣を帯びているのに対し、リヴィアは丸腰だ。部屋の窓は小さく、華奢なリヴィアであっても簡単には脱出できそうにない。彼は、自分が双子の姉を追い詰めたことを確信した。
すべては計算通りだ。完璧に事が運んでいる。
イオティカ丘陵ではジシュカを討ち果たすことができなかったが、もとより用心深い彼の首を容易に取れるとは思っていない。それに「エッツェル」と「シルバー」が別人であることの証人として、彼には無事に帝都に帰還してもらう必要があった。
果たして彼はエッツェルの無実を主張し、牢に囚われていたリヴィアは、釈放された。憔悴したリヴィアには新たな策を考える余裕などはないだろう。隙を見てオーミル城を抜け出し、どこかで『変幻の加護』を解除して着替えるはずだ。
その「どこか」の候補として考えられる場所は、限られている。その一つが、この宿だった。エッツェルは宿の主人を買収して、自分とよく似た黒髪の青年がやってきたら知らせるように、と要請した。『心眼の加護』で主人の性格を正確に把握したエッツェルには、彼に裏切られる懸念はなかった。
「お前の負けだ。『エッツェル』の疑いは晴れ、今や追われる身となったのはリヴィア、お前の方だ」
ステファンは多くの人員を割いて、リヴィアの行方を捜し始めたと聞く。もはや彼女には帰るところはないのだ。
「やれやれ。メディアから、もう聞いているだろ? ボクは、クレアを殺した犯人じゃないよ?」
少なくとも表面上は平静を装って、リヴィアは言った。
「それについては、了解した。残念だ。お前が犯人であってくれたなら、俺は何の躊躇もなくお前の首を絞めてやることができたのに」
弓使いのセシルから、あの晩はアンナと行動をともにしていたとの証言を得ていた。『心眼の加護』を持つエッツェルに嘘は通用しない。セシルの言葉は、疑いのない真実だった。
「エッツェルって、意外に嗜虐趣味があるんだね。まあ、ボクの弟だからね。やっぱりボクたちって似ているね♪」
「……虫唾が走ることを言うな」
「でも、またボクの前に現れたってことは、何か聞きたいことがあるんじゃない?」
「ならば問おう。クレアを殺した犯人に、心当たりはないか?」
一瞬、リヴィアが眉をひそめたように見えた。まるで意外なことを訊かれて困惑しているかのようだった。
いや、気のせいか――?
ほんの一瞬のことだったので、エッツェルには判断がつかなかった。
「……心当たりはないね。そんなこと、ボクが知るものか」
やはり、知らないか。それとも、何か知っていて、隠しているのか。リヴィアには『心眼の加護』が効かない。意識して隠そうとしていることを暴き出すのは、困難だった。
だが、それでいい。リヴィアがシロと分かった以上、もはや犯人の候補はおのずと限られる。
「エッツェルはボクに勝ったつもりでいるだろうけど、勝ったのはボクの方だよ」
「何を世迷い言を」リヴィアに逆転の手段はないことを確信して、エッツェルは言った。「お前は負けた。俺はお前を、いつでもステファンに突き出すことができる。それが嫌なら――」
「この一年間、ボクはエッツェルにずっと無視されてきた。それが、どうだい。エッツェルの方から、ボクの秘密を探ろうと、必死で動いていたじゃないか。ボクのことが、エッツェルは気になって仕方がなかったんだ」
何をばかな。そう言って笑い飛ばそうとするエッツェルを、何か不気味なものが押しとどめた。言われてみれば確かに、あれほど嫌悪していた、頭の片隅に思い浮かべるすら嫌だったリヴィアのことを、エッツェルはこのところずっと意識している。ある意味では、リヴィアの思うつぼだったのではないか。それにリヴィアの目は、口から出まかせを言っている目ではない。
「エッツェルは、ボクがクレアを殺した犯人じゃないかとずっと疑っていたよね。ボクがエッツェルに無実を証明するのは簡単だ。でも、そうしたらエッツェルはボクへの関心を失って、またボクのことを無視し続けるだろう。それは嫌だった。だからボクは、エッツェルの方からボクのことを陥れようとするように仕向けたんだよ」
リヴィアが自らの侍女たちに折檻をして、それを「ご褒美」などと呼んでいたことを、エッツェルは思い出した。エッツェルがリヴィアに与えた苦境も、彼女にとっては「ご褒美」だったということだろうか。
「ああ、そうそう、これ、返すよ」
そう言ってリヴィアは、何気ない動作でポケットから翡翠の指輪を取り出した。エッツェルは、たちまち顔色を変えた。
「な、ななななぜそれをお前が持っている!?」
ディヴァ城でリヴィアに献上されることになっていた、あの奴隷の少女に渡したはずの指輪だ。
「なぜって、そりゃ、あの褐色の肌の奴隷ちゃんの正体は、ボクだからだよ」
きょとんとした顔で言ってから、何かに気付いたようにリヴィアの表情が和らいだ。
「あれあれー? もしかして、気付いてなかった?」
くくくっ、と笑って、リヴィアはエッツェルと同じ藍色の瞳にいたずらっぽい光をたたえた。
「知ってるよね? ボクは、美少女をイジめるのが大好きだけど、美少女にイジめられるのも大好きなんだ。だからああやって、かわいそうな奴隷になりすまして、クロイリアたちにイジめられるのを楽しんでたんだ。ボクに献上される奴隷は、必ずクロイリアが『味見』をすることになっていたからね」
「あ、頭がおかしい……」
「そしたら兜で顔を隠したどこかの兵士が、突然、ボクのことを助けようと、手を引いて逃がしてくれたじゃないか。やだ何このイケメン、こんなカッコいい人見たことがない、素敵、でもボクがエッツェル以外の男の人にときめくなんて、ってドキドキしていたら、何のことはない、その兵士の正体、エッツェルだったんだよね。あれは傑作だったな」
「う……」
「あのとき、エッツェルもボクにちょっとドキドキしてたでしょ? 恥ずかしがって、繋いでた手を離しちゃったよね? 繋ぎっぱなしだったら、多分『心眼の加護』で正体がボクであることに気付いたと思うんだけど、惜しかったね」
「べ、別にお前にドキドキしていたわけではない」エッツェルは慌てて弁明した。「あの娘はお前と違って胸も尻も大きかったし、服装も布地が少なくて――ああいや、そうじゃなくて!」
「これはもう、ボクとエッツェルは運命の糸で結ばれているとしか言いようがないね☆」
エッツェルは頭を抱えた。ありとあらゆる可能性を想定して動いていたつもりの自分が、肝心のところを見逃していた。それも、絶対に弱みを見せたくない相手のことで。この上ない恥辱だった。
「エッツェルは、こう言っていたよね。これを持って自由革命軍のところに行って、シルバーの口利きだって言えば、温かく迎えてくれるはずだって。誓約の女神ルクレティアにかけて、必ずあなたを守る、って。さあ、ボクのことをみんなに紹介してよね♪」
リヴィアは満面の笑みを浮かべた。
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