第五章 イオティカ丘陵の戦い 1
ジシュカがネフスキーの死を確認したのは、会戦から三日後の十二月一日のことである。山中で孤立して進退窮まったネフスキーの側近たちが降伏を申し出て、主君の遺体をジシュカに差し出したのである。
ネフスキーが愛妻オリガに刺殺されたと聞いて、ジシュカはさすがに驚いた。もはやこれまでと悟った側近たちが主君を殺し、その罪をオリガに押し付けたのかとも考えた。だが、彼らが嘘をついているようには思えなかった。そもそも主君の首を手土産にするつもりなら、他人のせいにする理由もないのである。
「オリガという女、山中に逃れたようですが、捜索いたしますか?」
「いや、その必要はないだろう」
やるべきことが多すぎる。それにネフスキーを自らの手で殺したということは、オリガにはもはや再起を図るようなつもりはないということだろう。
「そんなことより、お前たちの中にベータルという男はおるか?」
目つきの悪いごろつき風の男が、前に歩み出た。外見だけで判断する限り、とても典雅な文章を書く男には見えない。
「あの檄文を書いたのは、お前か?」
「だったら悪いか、ああ?」ベータルはジシュカの前でも物怖じしなかった。「あれを欠いたのは、確かにオレだ。何か文句あんのかよ。言っとくが、皇子サマだからってオレははいつくばってへりくだるつもりはねえからな。殺すなら殺せ。覚悟はできてる」
なるほど。あれほどの文才の持ち主が今まで軽んじられていた理由が、ようやく分かった。ジシュカは苦笑して、ベータルを説き伏せた。
「咎めているのではない。お前の典雅な文章を、私は高く評価しているのだ。これより私の書記官に任ずる。これからはネフスキーでなく、私のために才能を発揮してくれ」
「はあ!? お前、バカじゃねえの」ベータルは驚きつつも啖呵を切った。「政府軍の犬になれってか。冗談じゃない、こちらから願い下げだね」
「私にお前の主君たる器量がないと分かったら、いつでも見限ってくれてかまわない。そういう条件でどうだ?」
意外な言葉にベータルは戸惑っていたが、「お前が私の麾下に加わることが、他の者たちを赦す条件だ」とジシュカに言われ、しぶしぶ従った。ネフスキーの側近だった他の者たちは全員がジシュカに従う意思を表明した。いずれも政府軍の無道ぶりに憤りを覚えてネフスキーに従った男たちであったから、ジシュカは罰するようなことはしなかった。
ジシュカとしては、そのまま自ら軍を率いて東方諸州に乗り込み、ネフスキー軍の残党を掃討してしまいたいところだが、それも難しい情勢にあった。何しろ、帝都アウラ七区のうちの二区が反徒どもに制圧されている状況である。敵の頭目であるネフスキーを片付けたからには、すぐにでも帝都に戻るべきであった。
現在、ジシュカの手元にはちょうど三万の軍勢がある。ジシュカはこのうち、二万八千の軍勢を、アザンクール公アルテュールという信頼できる人物に預け、東方諸州の制圧を任せることにした。ジシュカ自身はユスティーナやベータルとともに残り二千の手勢を率いて帝都に帰還する。
「帝都に戻るまで、油断はできぬぞ」ユスティーナに注意を促した。「リノーサの街に残してきた者たちから、連絡があった。帝都の反徒どもの一部が、都を出発してこちらに向かっているとのことだ。私が反徒どもの指導者なら、私が帝都に帰還するその帰路に伏兵を配置して、私を捕らえようとするだろう。帝都アウラとリノーサの街を繋ぐ街道に、兵が潜んでいると考えるべきだ」
ジシュカはリノーサの街を通らず、あえて南に迂回する帰路を進軍することにした。遠回りになるが、やむを得ない。
イオティカ丘陵という小高い丘に辿り着いたのは、十二月四日、正午のことであった。暦の上ではすでに冬であるが、この辺りは海からの暖かい南風が吹いている。
「この丘の上で休息を取る」
疲れ切った様子の兵士たちに、ジシュカは告げた。見晴らしの良い高台である。南方には海が広がり、残り三方には見渡す限りの平原が広がっている。ここならば、敵の伏兵に襲われる心配もないだろう。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
兵士たちが散らばって腰を下ろし、食事をとり始めると、ユスティーナが遠慮がちにジシュカに近寄ってきた。
「どうしても、気になって」
いつになく真剣な面持ちのユスティーナだった。栗色の美しい髪が、くすんで見える。
「わたくしの妹の、ジョフィエのことです」
「ジョフィエがどうかしたか」
優秀な戦士だった。だからこそ、彼はジョフィエを唯一の女性兵士として、重装歩兵部隊に抜擢したのである。サイノス河で死なせてしまったのは、痛恨の極みであった。
「殿下は、ジョフィエのことを愛しておられたのでは、ないのですか?」
またか、とジシュカは思った。先日も、ユスティーナはそんなことを言っていた。
なぜユスティーナはそんな誤解をしているのだろう。ただの勘違いか。いや、聡明な彼女に限って、そんなことは考えにくい。あるいは生前のジョフィエから、何か聞かされていたのだろうか。
ぞくっと、背筋が凍るのを自覚した。自分が事実だと信じていることが、事実ではないなどということが、ありえるだろうか。誤解をしているのは、本当にユスティーナの方なのか。自分は何か大事なことを、忘れてはいないだろうか。
「私は……」
ジシュカが口を開きかけたそのとき、血相を変えた伝令兵が、彼の前に駆け寄ってきた。
「殿下、大変です! 敵の伏兵です!」
「何をばかな!」ジシュカは怒鳴った。「この見晴らしのよさだ。天気もよく、霧なども出ていない。どこから敵が湧いて出てくる余地がある!?」
意味が分からなかった。敵がどれほどの智者であれ、伏兵などどこにも配置のしようがないではないか。
「ですが、本当に現れたのです」
「一体どこから現れたというのだ」
「下からです、殿下!」
悲鳴にも似た、伝令の叫び声だった。
太古、この辺り一帯は一面に美しいサンゴ礁が広がる暖かな海であった。やがて気候の変動が起こると、サンゴ礁は白い石灰岩となって堆積し、さらにその上にはピュレナ山から流れ込んだ火成岩が積み重なる。それが断層運動によって地上に隆起して小高い丘をつくる。すると、石灰岩は酸性を帯びた雨水によって徐々に溶け出して、天然の洞穴をつくった。
自由革命軍が潜んでいたのは、その洞穴の中であった。出入り口を土と砂で周到に隠し、ジシュカが少数の手勢とともにそこを通過するのを、二日も前からじっと待ち受けていたのである。
果てして、獲物は向こうから現れた。ジシュカの部隊が丘の上で休息を取り始めたのを見計らい、飢えた猟犬たちは一気に姿を現したのである。
洞穴の入り口から、次々と自由革命軍の兵士たちが現れ出る。食事をとりながらくつろいでいた政府軍の兵士たちは、仰天した。緒戦は、一方的な殺戮となった。
「かかれ! 敵の総帥であるジシュカ皇子を捕らえるのだ!」
革命軍の兵士たちに力強く命じたのは、シルバー――すなわち、エッツェルであった。
エリアーシュによって監視されていたときも、彼はアイシャからの報告によって常に情報を得ていた。リヴィアが他人に成りすます『加護』を持っていることを察知していた彼は、彼女が次にどんな行動に出るか、あらゆる可能性を想定していた。エッツェルの姿をとって彼の前に現れることも、彼の予測の範囲内であったのだ。
部屋の外に控えていたアイシャにそっと目配せをした。事情を悟ったアイシャは、オーミル城の外で張り込みをしていたステファンの部下たちのもとに走った。
「私、この目で見たんです! エッツェル様が、敵のバリケードの中に入っていくところを。シルバーの正体は、エッツェル様で間違いありません!」
驚いたステファンの部下たちは、主君に判断を仰ぐこともせず、すぐにエッツェルの逮捕に踏み切った。緊急の際にはそうしてもよいと、ステファンからあらかじめ言い含められていたのである。自分たちが逮捕した「エッツェル」が、彼に化けた別人であったなど、彼らは思いもしなかった。
まんまとリヴィアを生け贄にして自由を得たエッツェルは、すぐにゲマナ城に走り、ルクスを説き伏せて部隊を帝都の外へ出す許可を得た。兄のジシュカが人々の予想を上回る速さでネフスキーの氾濫を収束させ、わずかな手勢で帝都への凱旋を図るであろうことを、彼だけが読んでいた。そこを襲撃して鮮やかな勝利を得ることで、
「エッツェル皇子がステファン皇子に捕らえられている間に、自由革命軍の英雄シルバーは間違いなく帝都のはるか東でジシュカ皇子と戦っていた。つまり二人は全くの別人だ」
と、世間に思わせるのだ。エッツェルが立てた策謀の、これが全貌であった。
先陣を切ってジシュカの陣営に斬り込んだのは、一人の女戦士だった。戦斧を振るい、敵兵を幾人も薙ぎ倒して気勢を上げたこの女丈夫は、金髪のシャルロットではなかった。
「な、何だこの女は!?」
度肝を抜かれた政府軍の兵士たちに、女は名乗りを上げた。
「アタシの名はカルラ・アードラー。自由革命軍の『元祖・化け物女』といえば、アタシのことさ」
そう言って、彼女は味方を振り返った。彼女が好敵手と勝手に思っている相手を見つけて、小さくウィンクする。
「見てな、シャルロット。アタシとあんた、どちらが『化け物女』の呼び名にふさわしいか、ここで見せつけてやる!」
「あたしはそんな呼び名、欲しくないんだけど……」
言われた相手、つまりシャルロットが渋い顔をするのを無視して、カルラ・アードラーは敵陣へ突進した。まだ怪我から復帰して間もないシャルロットに代わって、彼女が先陣を任されたのだった。
縦に、横に、勢いよく戦斧を振り回す。魔導戦器ではない。類まれな戦士としての才覚にも関わらず、彼女は魔導戦器を操る素質に恵まれなかった。いくら訓練を積み重ねても、魔導戦器の特殊な力を引き出すことができないのである。だが、人並み外れた腕力や体力で、彼女は魔導戦器を持った一流の戦士にも引けを取らなかった。
「あいつ、マジで女捨ててやがるな」ヴァルデマールが、残念そうにため息を吐く。「よく見りゃ、けっこう美形なのにな」
「あれでも、昔は結婚していたらしいな」
「えっ、それ、本当なの?」
フランコの言葉に、シャルロットが驚く。彼女の知るカルラ・アードラーは、いつも弟のエッカルトと一緒に行動しており、恋人らしい相手を作る気はなさそうだった。
「何でも、相手はカルラの半分ほどの背丈しかない、小男だったそうだ」
「オレは、とてつもない大男だったって聞いたけど」とヴァルデマール。「ガタイもデカいがアソコもデカくて、それが気に入ったんだとさ」
ずいぶんと当てにならない、いい加減な噂話だ。適当に聞き流して、シャルロットは虹色の槍を繰り出す。『雷撃』の絶技が炸裂し、敵兵が弾け飛んだ。
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