第四章 二人の皇子 4

 その夜、ジシュカは初めてユスティーナを抱いた。

 ジシュカが寝室として使っているのは、リノーサ大聖堂で最も豪奢な個室である。もとは大司教の私室であった。聖職者らしからぬ派手好きな性格であったらしく、大司教のベッドは黄金の天蓋が付いた優美なものであった。

「君と肌を重ねたのは今日が初めてのはずだが、どうもそんな気がしないな。前世でも、私は君と一緒だったのかもしれぬな」

 ジシュカがそう囁きかけると、彼の腕の中で、ユスティーナはくすくすと笑った。

「妹も……ジョフィエのことも、そうやって口説いたのですか?」

 信頼する女騎士の言葉に、ジシュカは小首をかしげる。

「何のことだ」

「ジョフィエを、愛してらしたのでしょう?」

 質問というより、確認するようなユスティーナの口ぶりである。

「ジョフィエを? ……いや、私はジョフィエの戦士としての優れた才を高く評価していたが、恋愛感情を持っていたわけではない」

「え? でも……」

 怪訝な顔で、ユスティーナはジシュカを見返した。

 いったいどうしたら、そのような勘違いをするのだろうか。ジシュカは苦笑した。確かに、ジョフィエとはそれなりに親しい間柄ではあった。だが、それは唯一の女性重装歩兵である彼女のことを、ジシュカが何かと気にかけて世話を焼いてやった結果であって、それは恋愛関係にまで発展することはなかった。

 慌ててユスティーナは取り繕った。自分が妹に嫉妬していたと思われたくない、という気持ちが、あったのかもしれない。

「どうやらわたくしの勘違いだったようですわ。お気になさらず」



 翌、十一月二十八日。ジシュカ軍はリノーサの街を出発した。

 ネフスキー軍も、近くまで押し寄せている。ジシュカ軍が来るのがあと一日遅かったら、リノーサの街はネフスキー軍に包囲されていただろう。両軍はヤーヴェ平原で向かい合う形となった。

 ヤーヴェ平原は、春になると色とりどりの花が咲き乱れる名所である。初代エトルシア皇帝ロムルス一世が敵対勢力に決定的な勝利をおさめた戦場としても知られており、政府軍としては是が非でも負けられないところである。

 ジシュカは、先遣隊を無理に急行させ、あえて風下に陣取った。すると、ネフスキー軍は不思議な動きを見せた。ジシュカの先遣隊よりもさらに風下に部隊を移動させ始めたのである。

「やはりな」

 ジシュカはほくそ笑んだ。

「よろしい、では風上から、一気に勝負を挑もうではないか」

 ジシュカはユスティーナに手を振って合図をした。ユスティーナは頷いた。あらかじめ準備をしてあった計画を、実行に移す。

 一方、ネフスキー軍である。最初に異変に気付いたのは、人ではなく、軍馬だった。指揮官たちが乗っている馬が、にわかに暴れ出したのだ。彼らのあるじも、さほど時を置かずして顔をしかめ始めた。

「な、何だ、この匂いは……」

 強い刺激臭が、敵陣の方から流れてきて、ネフスキー軍を襲ったのである。一人の兵士が、その正体に気付いて呟いた。

「これは……塩漬けニシンの匂いか!?」

 大量のニシンを用意して、風上から扇で煽っているようだ。敵の意図が分からず、兵士たちは困惑した。不快な匂いだが、それが何だというのか。別に耐えられないほどのものではない。不思議がっていると、司令部からどよめきが起こった。

 突如として、総大将であるネフスキーが鼻を押さえてその場にうずくまったのである。

「ネフスキー将軍!? いかがなされた!?」

 部下たちが血相を変えたそのとき、風の流れに乗って、ジシュカ軍の騎兵部隊が果敢な突撃を敢行した。指揮をとるのは、若きヴェルフェン伯ルーヴェである。

 思い切りよく振り下ろされた金槌が、甲高い音を立てて金床へと叩きつけられる。まるでそのように、破壊力に満ちあふれた一撃が、ネフスキー軍を見舞った。若さに似合わず、ルーヴェは用兵の妙手であった。

「将軍閣下、ご指示を!」

 部下たちが口々に促したが、ネフスキーはうろたえるばかりで答えない。そのままゆっくりと、ネフスキーは昏倒した。悲鳴が上がった。

 騎兵部隊がネフスキー軍の全軍をかき乱して馬首を巡らすと、今度はジシュカ軍の両翼部隊から、次々と火矢が放たれた。風に乗って、よく飛び、よく燃える。ネフスキー軍は大混乱に陥った。

 そこに、ジシュカ軍は総攻撃をかけた。これまでの勢いが嘘のように、『東方の王』の軍勢は脆くも潰走した。ネフスキーのカリスマ的な指導力によってのみ成り立っていた集団である。指導者を失っては、なすすべがなかった。ネフスキーに不測の事態が生じた際に何者が代理を務めるのか、それすらも定められていなかったのだ。

 逃げ惑うネフスキー軍を丘の上から眺めながら、ジシュカは部下たちに説明した。

「大賢者ティトゥスの『大博物誌』に、生まれつき嗅覚が異常に鋭い男のことが記されている。他人が嘘をついても、汗の匂いからそれを見破ることができたそうだ。また医学者アグリコラの『随想』には、事故で両目を失明したことがきっかけで、やはり嗅覚が飛び抜けて鋭くなった女のことが書いてある。空気の匂いから、次の日の天気を正確に予測することができたそうだ。ネフスキーが持っているのは、彼らと同種の能力なのだろう」

 ステファンの部下イヴァイロの偽投降を見破ったのも、異常気象を予見したのも、伏兵の位置を正確に把握していたのも、すべてはそれで説明できる。それがジシュカの出した結論であった。

 無言で聞き入っているのは、ユスティーナである。昨夜のことを思い出すと、顔が赤くなる。誰も口には出さないが、彼女が主君ジシュカの情人となったことは、すでに多くの者に知れ渡っていることだろう。

「ネフスキーはこれまで、すべての会戦において、風下に布陣していた。軍学上の常識からはありえないことだが、そういう事情ならば、話は分かる。風上から流れてくる『匂い』から、敵軍の動きをすべて察知していたのだ」

「そういうことだったのですね……」

「だが、この能力には分かりやすい弱点がある。強烈な刺激臭で、鼻が利かなくさせてしまえばいい。すべて『匂い』頼りで作戦を決めていたあの男は、『匂い』を封じられては何もできないだろう。それどころか、常人離れした鋭い嗅覚で強烈な刺激臭を嗅ぐ羽目になったのだ。今頃は目を回しているかもしれぬ」

「恐れ入りました」

 ユスティーナは、改めて主君の智謀に感服していた。正直、半信半疑だったのである。だが結果は、やはりジシュカが正しかった。

 帝国を再統一して次の皇帝になるのは、やはりこのお方しかいない。何があっても、このお方だけはお守りせねば。ユスティーナは女としてジシュカという男に好意を持ってはいるが、それ以前に、まずジシュカは尊敬すべき主君なのである。きっと妹のジョフィエも、同じ思いだったに違いない。

「何があっても……たとえわたくしの生命いのちに代えても」

 強い決意とともに、ユスティーナはジシュカを見つめるのだった。



 目が覚めると、ネフスキーは草むらの上に寝かされていた。ここがどこなのか、彼には分からなかった。見慣れぬ、険しい山道である。彼を護衛しているのはわずかな側近で、しかもほぼ全員が手傷を負っていた。逃げきれたのか、と訊くと、側近の一人が無言のまま首を振った。

「何度も、敵の追撃に遭っています。その度に我々の数は半減しています。次の襲撃があれば、おそらくもう持ちません」

 そうか、とネフスキーは穏やかに頷いた。

「オリガ!」

 愛する妻の名を呼ぶ。美しい妻は、満身創痍の姿で彼の前に現れた。彼女自身も、剣を振るって敵の追っ手と戦っていたのだ。

「はい、あなた」

「どうやらこれまでのようだ」

 オリガは今にも泣き出しそうな勢いで、ネフスキーに寄りかかった。

「まだ、まだあがくことはできます。あなただけでも逃げ延びれば、まだ再起を図ることは可能です。烏合の衆でも、とにかくかき集めれば、少なくとも時間を稼ぐことはできるはずです」

 民衆から英雄と称えられた男は、静かにため息をついた。

「いや、それは駄目だ。敵のジシュカ皇子は、どうやら吾輩が『犬鼻けんびの加護』を持っていることを見破ったらしい。であれば、知勇兼備の誉れ高いジシュカ皇子に、吾輩ごとき非才の身が勝てるとは思えぬ。これ以上の抵抗は、かえって民を苦しめることになる。吾輩の保身のために無駄な犠牲者を出すようでは、本末転倒だ」

『加護』の力でここまでのし上がってきたが、自分の出番はこれでお終いらしい。自分はこの舞台の主役ではなく、どうやら脇役に過ぎなかったようだ。それならばせいぜい名脇役らしく退場しようではないか。

「吾輩の名で、全軍に降伏を呼び掛ける。武器を捨て、ジシュカ皇子に従うべし、と。吾輩が呼びかければ、皆はそのとおりにするだろう」

「……」

「分かってくれるな、妻よ」

「……あなたも、その程度の男でしたか」

「何!?」

 次の瞬間、オリガが豹変した。天使のように美しい顔に悪魔のような笑みを浮かべて、ネフスキーにつかみかかった。止める間もなかった。ネフスキーの胸に激痛が雷電の如く駆け巡った。側近たちが、悲鳴を上げる。オリガが鋭い短刀を煌かせて、ネフスキーの心臓をまっすぐに貫いたのである。

「な……ぜ……」

「ふん、もう少しできると思ったんだけどね。つまらない男だね」

 そう吐き捨てると、オリガに化けていた魔女は、短刀をネフスキーの胸から一気に引き抜いた。ハンマーで叩き割られた紅玉髄の如く、赤黒い鮮血が乱れ散った。

 ネフスキーは倒れ込んだ。側近たちは、呆然としてオリガの凶行をただ見つめていた。

「オリガ様……これは一体」

 魔女は、くらい笑みを浮かべた。もしものときは、こうすると決めていた。ジシュカに降伏したネフスキーは、『犬鼻の加護』を手に入れた経緯を、洗いざらい彼に話すだろう。そうなれば、恐るべき慧眼を持つジシュカ皇子のことだ、オリガが危険極まりない魔女であることを見破り、必ずや彼女を殺すだろう。自らの保身のためにも、ネフスキーの口は封じておかねばならなかった。

 エトルシアの覇者にと、見込んだ男だ。正体を隠していたとはいえ、この数ヶ月間、夫婦として艱難を共にした仲でもある。ネフスキーへの愛情がないわけではなかった。だが、それももはや過去のことだった。

「わたしは逃げる。ベータル、クルム、シャームエル。あんたたちは、好きにおし。ネフスキーの遺体を手土産にジシュカ皇子に降伏したいと望むなら、そうするといいさ」

 エトルシア第一皇女デスピナに続き、『覇者を目指す者レグナートゥールス』がまた一人、この世から永遠に退場したのである。

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