第二章 女の戦い 2
慌ただしく、ジシュカは出陣した。出陣の日を十一月二十日と聞いていたエッツェルは見送りに行くつもりであったが、彼の次兄は予定を繰り上げて前日の夜にはすでに出立してしまっていた。まるでエッツェルに会うのを避けようとしているかのようだった。
兄フィリップの居城であるオーミル城のバルコニーで、エッツェルはひそひそとメディアと語らっていた。傍目からは恋人同士が睦まじく話し込んでいるように見えるだろう。まさか不逞なる反逆者どもに加担し、恐れ多くも皇帝陛下を打倒する計画を練っているなどとは、オーミル城の誰も思うまい。
クレアの死について、メディアは何かをエッツェルに隠している。だが、エッツェルは今はその追及を避けていた。いずれ時が来れば、メディアは自分から話をしてくれるだろう。彼はそう考えるようになっていた。というより、時が来るまでは、メディアが決して口を開かないであろうことを、彼は悟っていたのである。
「……というわけで、自由革命軍への協力者は、加速度的に増えているのだよ。カタラス城を落としたことで、ゲマナ城の奪取はまぐれでないことを革命軍は証明した。それが大きな力になっている」
「ユーゼス地方から届いた新式の銃もある」エッツェルは紅茶をスプーンでかき混ぜながらうなずいた。「ゲマナ城の守りは、もはや万全だな」
「ジシュカ皇子がいない今が好機だ。ルクスはすでに、次の目標をディヴァ城に定めている。『
「ああ」エッツェルは深くうなずいた。「イェレナ義姉上が淹れてくれたからな」
フィリップの妻イェレナは、紅茶を淹れる名人である。ディヴァ城で働くメイドたちはこぞってイェレナに弟子入りしたが、彼女ほど上手く紅茶を淹れられる者は一人もいない。
「エッツェル!」不意に名を呼ばれた。「エッツェル。ここにいたのか」
オレンジに近い金髪が、眩しく太陽の光を反射して、収穫を迎えた小麦の豊穣の海のようにゆらゆらと波打った。この城のあるじである、エトルシア第三皇子フィリップだ。
「兄上、どうなされたのですか」
エッツェルは眉をひそめた。フィリップは、メディアのことをエッツェルの新しい恋人だと思っている。なるべく気を利かせて二人の時間を邪魔しないようにと配慮してくれるのが常だった。突然、割り込んでくるのは珍しい。話の内容を聞かれていないといいが。
「ちょっと聞いてくれ」フィリップは、拳を振り上げて憤慨している。「ひどい噂話を聞いた。まったくもって、ふざけている。でたらめにもほどがある」
デスピナ姉上のことだろうか、とエッツェルは思った。デスピナが不思議な力で民や兵士の心を操っていたことは、すでに街の噂になっている。
「シルバーという人物を知っているか?」
あやうく紅茶を吹くところだった。だが、今や「謎の白銀の騎士シルバー」は革命軍の中でも名の知れた英雄である。フィリップの耳に入ってもおかしくはない。
「反徒どもの間で、評判になっている男だ。先のサイノス河の戦いでジシュカ兄上を破ったのは、その男だという話だ。不気味な白銀の鎧を着た、正体不明の男らしい」
「聞いたことはありますが、会ったことはありませんね」
鏡で見たことはあるが、それを「会った」と表現するためには、新しい辞書を編纂する必要があるだろう。
「素手で大蛇を縊り殺すような、怪力の大男らしい」
「そうでしょうか」話に尾ひれがついていることに、エッツェルは内心で苦笑した。「私が聞いた話では、知性と教養に優れ、高潔さと人間的魅力を兼ね備えた、絶世の美男子とのことでしたが」
「……えらく詳しいが、会ったことはないんだよな?」
「ええ。あくまでも噂ですよ。で、その男がどうかしたのですか?」
憮然とした顔で、フィリップは吐き散らした。
「その男の正体が、エッツェル、お前だというのだ。こんな馬鹿げた話があるか!」
酒場でその噂を耳にしたオーミル城の高官が、これは捨て置けない話だと考え、主君であるフィリップに報告したのだという。
「まったく、俺の部下にはろくな奴がおらん。無責任な噂を真に受けやがって!」
他人の悪口をめったに言わないフィリップが口汚く罵るのを、エッツェルは一生懸命になだめすかしていた。それがメディアには可笑しい。フィリップは真剣そのものの眼差しで噂を否定しているが、実は彼が聞いた噂は、まったくの事実なのである。フィリップがなまじ目の覚めるような美貌の貴公子だけに、余計にその姿が滑稽に思えた。素知らぬ顔で「私は気にしておりませぬから」などと言い聞かせるエッツェルの猿芝居も愉快である。
ひとしきり毒を吐くと、エッツェルの兄は公務へと戻っていった。再びメディアと二人きりになって、エッツェルは渋い顔で下唇をかみしめた。
「どこから漏れた」
メディアには、思い当たるふしはない。こうも早くシルバーの正体が漏れる日が来るとは、彼女にとっても予想外だった。
「やはり、あの褐色の肌の娘か……?」
「褐色の肌の娘だと? 誰のことかね?」
すっかり冷めてしまった紅茶に口をつけながら、メディアは尋ねた。彼女にとっては、初耳の情報である。
「どこの誰かは知らない。名前も知らない。異国の、若い娘だ」
このとき初めてメディアは、エッツェルがディヴァ城に潜入したときの経緯を聞いた。城内で、奴隷の娘を助けたこと。その折に翡翠の指輪を手渡して、「シルバーの口利きだと言えば、温かく迎えてくれるはずだ」と自由革命軍のもとへ行くことを勧めたこと。どうも娘は彼が皇子エッツェルであることに気付いたようなふしがあったこと。
「結局あの夜は、娘を助けて、そのまま俺も退散せざるを得なかった。求めている情報が何も得られなかったのは、そのためだ」
「なぜそれをわたしに言わなかった」
「また馬鹿にされると思ったのだ。まだまだ甘いな、と」
「確かに甘いな。自分の目的のために、その娘のことは放っておくべきだった。そうは思わないかね?」
「助けたことを後悔はしていないが、シルバーの名前を出したのは、失敗だったかもしれない、とは思う」
エッツェルは顔を上げた。天を仰いで、切なそうにつぶやいた。
「俺は、彼女が誰なのか知りたい。名前を知りたい」
「わたしに言われてもな……」
「彼女の心の中が知りたい。俺のことを、どう思っているかを知りたい」
「おい……」メディアは苦笑いした。「まるで恋する少年のようになってるぞ」
だがその言葉は、エッツェルの耳には入らなかったようである。
「せめてもう一度、手を繋ぐことができれば……。あるいは肩を抱き寄せることができれば……そうすれば心の内が分かるのに……」
ぶつぶつとつぶやくエッツェルに、呆れ顔でメディアは言った。
「惚れたのか、その娘に」
「何を言っている?」エッツェルは眉をひそめた。「俺は今でもクレアだけを愛している。彼女こそは、地上の天使だった。神が造形した至高の存在だ」
メディアはため息を吐いた。
「すっかり忘れていたが、エトルシア第四皇子エッツェル殿下といえば、世間では、美しい婚約者のこと以外にはまるで興味のない、どうしようもない色ボケ皇子として知られていたのだったな」
メディアは、エッツェルの意外な一面を見た気がした。
彼女の知るエッツェルといえば、いつも深刻ぶった、復讐のことで頭がいっぱいな、堅苦しい男であった。だが、それは最愛の婚約者を失って、ずっとふさぎ込んでいた故ではなかったか。本来のエッツェルは、もっと陽気で、さまざまな魅力に富んだ男だったはずである。でなければ、帝都でも指折りの美女として知られたクレアの心を射止められるはずがない。
「色ボケとは何だ」エッツェルは憮然として答えた。「俺はクレアとは、最後まで清い関係のままだったんだぞ。それで色ボケなどと呼ばれるのは、不本意だし理不尽だ」
「清い関係……あっ」
「何だ、その『あっ』というのは! おい、なぜそこで薄ら笑いを浮かべている! ……いや、それはともかくだ」
話が脱線していることに気付いたのか、エッツェルは咳払いした。
「思うに、やはりその褐色の肌の娘はシロだ。あの娘は、生命がけで自分を助けた俺のことを、尊敬と恋慕の眼差しで見ていた。世の中にこんな素敵な殿方がいるなんて、と驚きの目で見ていた。物語に出てくる白馬の王子様のように颯爽と現れて窮地を救ってくれた俺に、運命を感じていた」
「……君は、案外自惚れ屋の勘違い男なのだな」
「勘違いではない。俺は『心眼の加護』で直接彼女の心の声を聞いたのだ。だから確かだ」
では一体誰が。シルバーの正体を知っているのは、あの褐色の肌の娘を除けば、メディア、自由革命軍のルクスとシャルロット、それにクレアの妹アンジェリカの四人である。
「もちろん、わたしは違う」とメディア。「それにアンジェリカは革命軍の人質になっているのだから、噂を街に広めるなど不可能だ」
「ルクスも、まず考えられない。シルバーの正体をバラす動機がない。あいつは、冷徹な計算ができる男だ。理由のない行動はしない」
「となると、残りはシャルロットか。彼女はいつも君に突っかかっているからな。皇子である君は所詮、体制側の人間だと考え、警戒しているようなふしがある。ありえないことではないぞ」
「いや、シャルロットもありえない」エッツェルは即答した。「なぜなら……あいつも俺に惚れているからな」
「その言葉は」メディアは指摘した。「やはり、自惚れ屋の勘違い男のものとしか思えないぞ」
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