第二章 女の戦い 1

 エトルシア第一皇子ステファンが、負傷した脚を引きずり、腕に包帯を巻いた痛々しい姿で帝都に帰還したのは、十一月十六日のことである。彼は二ヶ月前、東方で蜂起した自由革命軍の一軍を撃滅すべく、五万の大軍を率いて意気軒高と帝都を出発した。そして無様に敗北して、麾下の兵力の多数を失い、すごすごと戻ってきたのである。

 敗戦の報がもたらされて、皇宮は動揺した。ステファンを打ち破り、東方の自由革命軍は急速に勢力を拡大している。一報によると、十万もの大軍に膨れ上がっているという。総指揮官を務めるネフスキーなる男は、英雄として民衆に崇められているらしい。

「そいつらが、帝都にまで押し寄せたら、大変なことになるぞ――」

 すでに帝都は、七区のうちの二区までが自由革命軍の手に落ちている。帝国政府としては、これ以上、彼らの勢力拡大を許すわけにはいかない。

「いっそ、講和するか。奴らに有利な条件を提示して……」

 そう考える者もいたが、和平を推し進めていたルーアン公女クレアを騙し討ちにして殺したのは、反徒どもの方である。いまさらそんなものには応じまい。

 皇帝アレクサンデル二世は、廷臣たちを集めて今後の戦略を協議させた。だが、議論は行ったり来たりで、結論がまとまらない。惨めな敗残者であり、まだ包帯姿をさらしているステファンが発言を控えているのは致し方ないが、いつもなら皆を唸らせるような妙案を出すジシュカも、今日のところはやけに大人しく、自分から積極的に意見を出そうとはしなかった。

 業を煮やした皇帝が、これまでの議論を脇に追いやって、一足飛びに結論を下した。

「ジシュカ。お前が行け」

「私がですか?」

 ジシュカは困惑した素振りを見せた。例によって、皇帝は自身の姿を絹のカーテンで覆って隠している。表情が読めない。

「兵を、一万ほど貸してやる。ステファンが連れて帰ってきた敗残兵どもと合わせれば、三万程度にはなるだろう」

「三万で、十万の敵に勝てると?」

「十万といっても、烏合の衆だろう」正規軍を何度も打ち破った相手を烏合の衆と呼ぶのは、いかがなものか。「それにお前の智謀があれば、三万の兵が六万の兵にもなるし、十万の兵が五万になることもあるだろう」

 皇帝にとっては、勝ち負けはどうでもいいのだ。ステファンがかなわなかった相手に、ジシュカならば勝てるのか。息子たちを試しているのである。

「御意」

 そう答えはしたものの、あまり自信がなさそうなジシュカであった。いつも才気に溢れ、鋭い知性を見せる彼にしては、珍しいことであった。

 ジシュカのこの振る舞いは、だが実はすべて演技である。彼には、自分ならばネフスキー率いる東方の自由革命軍を打ち破ることができるという、自負があった。しかし、それをここで宣言することは、自分は兄のステファンよりも優れていると言い放つことに等しい。ステファンは面白くないだろうし、宮廷内に無用の軋轢を生むことになってしまう。

 ゆえに、彼は皇帝の勅命が下るのを黙って待った。父が最後には自分に指揮権を委ねるであろうことを、彼は正確に読んでいたのである。

 そんなジシュカの姿を、冷たい眼差しで見つめる男がいた。兄のステファンである。彼は、弟の演技を見抜いていた。ジシュカという男は、表面は穏やかでも裏側で何を考えているか分からない奴だ。ステファンが弟に対して持っているそのような偏見が、彼を真実に導いていたのである。

「ふん、おれが倒せなかった相手に勝てると思うのなら、やってみるがいい、ジシュカ」

 憎々しげに、ステファンは吐き捨てた。むろん、心の中で、である。彼は自分の立場が分かっている。感情をそのまま口に出して、自分の立場を悪くするような愚かな真似はしなかった。

 二十六歳のステファンは、皇帝アレクサンデル二世の子供たちの中では最年長である。だが、そのことは必ずしも彼を次の皇帝の座に近づけはしなかった。

 六人の弟妹たちが、アレクサンデル二世の即位後に生まれた子らであるのに対して、ステファンが生まれたときは、父アレクサンデルは次の帝位にはほど遠い、傍流の皇族にすぎなかった。

 皇帝の妃たちの出産のため、皇宮にしつらえられた特別な部屋を、緋産室という。ステファンは、ほんの少し生まれるのが早すぎたばかりに、ここで産声を上げることはかなわなかった。

「ステファン様は、緋産室のお生まれではないからな……」

 廷臣たちのそのような陰口を、たびたび耳にしている。生まれながらにして皇帝の子であることが、重視されるのである。ステファンはその意味では、弟妹たちよりも帝位から遠いところにいた。

 それでも、次の皇帝にふさわしい実力や人望があれば、そのような陰口を叩き潰すこともできただろう。ステファンにはそれもなかった。決して無能でも愚か者でもないという矜持はある。だが、冷静沈着な智謀の持ち主として知られる次弟ジシュカや、華々しい武勇に実績のある妹デスピナや三弟フィリップと比べると、どうしても見劣りがすると思われているのだった。

 ゆえに、ステファンは実績を作りたかった。皇帝に強く懇願して、東方遠征の総司令官の座を手に入れたのもそのためである。だが、彼は敗北した。代わりにジシュカが総司令官の座を引き継ぐという。ジシュカが敵に勝利を収めることにでもなれば、彼の面目は丸つぶれになってしまう。

「敵の総大将……ネフスキーは、怪物だ。ジシュカといえど、簡単に勝てる相手ではない。奴が反徒どもに叩きのめされている間に、必ずおれは再起を図ってやるぞ」

 そう心に誓うステファンであった。



『天空城』の異名を持つズィモーク城は、断崖絶壁の上に建っている。

 もともと古代魔導帝国の時代に建てられた城を改築したものだ。現代のエトルシアの技術では、重厚な石積みの城塞をこのような断崖の上に作ることはできない。そもそも資材として使われている石からして、自然界にあるものではない。魔導の力で精製されたものであろう。

 城と街とは、『竜』と呼ばれる古代魔導帝国の遺産である乗り物を使って行き来する。『竜』は翼の生えた巨大な蛇の形をしており、まさしく伝説に出てくる竜のような見てくれだ。この『竜』は、操縦者が手綱を握ると、魔導の力で空を飛ぶことができ、起伏に富んだズィモークの街を快適に移動することを可能にしてくれる。

 この便利な機械は、しかし、ズィモーク城から離れたところに持っていくと、途端に動かなくなる。どうやらズィモーク城のどこかに『竜』を動かす動力源のようなものがあり、そこから離れると操作を受け付けなくなるようなのだ。多くの魔導学者や職人がその謎を解き明かそうと研究を重ねたが、その原理は未だ明らかになっていない。

『竜』から降り、ズィモーク城の降り立ったジシュカを迎えたのは、騎士のエリアーシュだった。ジシュカの誇る重装歩兵部隊がすべて失われた今、自分がジシュカの側近として頑張らねばと気合を入れている男である。

 皇帝より出陣を命じられたことを告げ、あれこれと指示を下していると、エリアーシュは露骨に不満そうな顔を見せた。

「私に、都に残れとおっしゃるのですか、ジシュカ殿下」

 自分は戦場では役に立たないと思われたのか、と落胆している様子である。

「というより、そもそもおぬしは兄上の部下ではないか」

「あー、はいはいはいはい。なるほどなるほど、そうでした」エリアーシュは頭を掻いた。「私は、もともとステファン様の部下でした。それでですか。なーるほど」

 ステファンは東方遠征に出立するにあたって、自らが司令官を務めるエンジ区をジシュカに任せた。その折に、エンジ区の内情をよく知る人物として、ステファンからジシュカに預けられたのがエリアーシュなのである。ステファンが都に戻ったのだから、まだジシュカのもとにいることがそもそもおかしいのである。

「しかし、私の忠誠は、すでにあなた様の下にあります、ジシュカ殿下。あなた様のおそばにあって、あなた様をお守りしとうございます」

「気持ちはありがたいが……」ジシュカは声をひそめた。「いいか、ネフスキーはそこまで大した相手ではない。私には、奴を破る算段がすでについている。おぬしに守ってもらわなくとも、さほどの危険はないだろう」

「なるほど……」

「だが、私の代理として帝都に残って情勢を見極める。これは、誰にでもできる任務ではない。おぬしにしか頼めないことなのだ」

「なるほど!」

 エリアーシュの顔が、ぱあっと明るくなった。

「それほどまでに、殿下は私のことを信頼して下さるのですな! なるほどなるほど。そういうことでしたら、お引き受けします。どうか無事にお帰り下さい」

「ああ、すぐに戻る」

 分かりやすいエリアーシュの態度に、ジシュカは苦笑した。彼の明るさは、このところ幸運に見放されがちなジシュカを、真夏の太陽のような温かさで癒してくれていた。

「お帰りなさいませ、殿下」

 彼のもう一人の側近が、こちらも気持ちが和らぐような笑顔で近づいてきた。女騎士のユスティーナである。騎士といっても、彼女には秘書のような仕事を任せている。当然、彼女はジシュカの遠征に従軍することになるだろう。

 うむ、と短く返事をして、ジシュカは来ていた羽織を彼女に預けた。ユスティーナは声をひそめて囁いた。

「兵士たちの間で奇妙な噂があるのをご存じでしょうか、ジシュカ殿下」

「噂だと?」

「はい。亡くなったデスピナ殿下が、何やら不思議な力を使って、兵士や市民たちの心を操っていたという噂です」

 複数の兵士たちが、そう証言しているという。

「不思議な力だと……!?」

 やはり、人知を超えた力は存在するのか。常識では計り知れない、ありえないはずの力を持つ誰かが、どこかにいるのか。

「ばかばかしいですな」

 エリアーシュが一蹴した。良識的な反応ではある。だが、常識にとらわれすぎると、ことの本質を見誤ることになりはしないか。

「おぬしはそう言うが、では私は今、何に乗って城までやってきたのだったかな」

 苦笑いするジシュカであった。ズィモーク区を当たり前のように行き来する『竜』もまた、知らぬ人間が見れば、常識を超えた驚くべき乗り物であろう。結局のところ、「常識」とはその程度のものなのかもしれない。

「なるほど」

 エリアーシュは、城壁に身を乗り出して崖下を見はるかした。緑柱石アクアマリンをアサノス河の清流に溶かしたような碧い空の下には、石灰岩で建てられた美しい住宅が立ち並び、さながら処女雪に包まれたヴァイゼ山脈のようだった。ズィモーク城は、帝都アウラで最も標高の高い位置に立てられた建築物である。ズィモークの街のみならず、『皇宮結界』に包まれてきらきらと青白い光を反射する皇宮までがよく見えた。

「我々がここに立っているのも不思議な力のおかげですし、皇宮も不思議な力に守られておりますな。なるほど」

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