第二部 黒薔薇の美姫
プロローグ
「カタラス城が落ちたか」
皇宮の最上階のバルコニーで、ワインの入ったグラスを片手に月を眺めている男がいた。深い威厳をたたえた口髭に、金銀の装飾が施された最高級の絹の服、至尊の地位を示す紫のマントを身に着けたその人物こそ、この魔城のあるじである、皇帝アレクサンデル二世その人であった。
「お前の目的のためには、よかったのではないか、大魔導師イシュタルよ」
皇帝の前に跪いているのは、純白のローブに身を包んだ女である。うら若く美しい娘の姿をしたこの人物の正体は、数百年の時を生きる至高の魔女であった。前回の『魔女たちの宴』において、自らが選んだ『
稀有な光景であった。表の世界と裏の世界の二人の最高権力者が、余人を交えずに顔を合わせている。
「さて、どうでしょうね」
「二十五年ぶりだな、元気にしておったか」
「おかげさまで、また少し若返ることができましたわ」
大魔導師イシュタルの一言はさりげないものだったが、その内実はおぞましい。魔女という存在は、人を殺めることで相手の姿に成りすますことができる。数百年の時を生き、若さを保ち続けるとは、つまりそれだけ多くの人間を殺し続けてきたということを意味する。
「デスピナ皇女がお亡くなりになられたこと、お悔やみ申し上げますわ」
「……奴が『
冷然と、アレクサンデルは言い放った。娘の死も、彼には何の感慨も抱かせなかったようである。
皇帝は、大魔導師イシュタルの手を取って立ち上がらせた。大魔導師が彼にかしずかなければならない理由はない。地上の覇者と地下の覇者の間に優劣はない。
「そんなことより、二十五年前に余が即位したとき、お前は余に宿題を残していったな。『皇宮結界』が本当は何のためにあるのか、その真の目的を考えろと」
口髭をさすりながら、アレクサンデルは言った。かつてこの魔女たちの長と出会ったとき、彼は即位したばかりの、気鋭の若き皇帝であった。今は口髭もすっかり白い。
「あのときは何のことやらと思ったが、最近になって、何となく分かってきたぞ」
「うかがいましょう」
「外敵から帝都を守ることが目的なら、帝都全体を結界で覆ってしまえばよい。だが、我らエトルシア皇家の始祖、初代皇帝ロムルス一世はそうはしなかった。自らの都すら守れぬ惰弱の皇帝に、皇帝たる資格なし。彼はそう考えておったのだ」
目の前にいる大魔導師は、まるで我が子を見るような目でアレクサンデルを見つめている。時を超越した存在である。二十五年の歳月など、彼女にとっては引き絞られた弓から放たれた矢が、獲物に突き刺さるほどの時間でしかないのだろう。
「だが、その彼をして、絶対にかなわないと認めざるを得ない相手がいた」
「それは……?」
「民衆だ。帝都の民が一斉に皇帝に反旗を翻したら、いかに強力な『加護』を持っていたロムルス一世といえど、どうにもならぬ。だから『皇宮結界』なのだ。皇帝が雲の上の存在であることを知らしめ、抵抗の機運を失わせる。外敵を防ぐものではない。民衆の心を挫くための装置なのだ」
テーブルの上のワイングラスを、イシュタルに手渡す。自身の手で、極上のワインをイシュタルのグラスに注ぎ込む。皇帝自らがこのように接待する相手は、この大魔導師ただ一人であろう。
「ご名答です。さすがは、西方諸国に悪名高き暴君皇帝陛下にございますわ」
「このことを知っているのは、地上では余のみだ。そうであろう?」
優越感を感じるのか、嬉しそうに尋ねるアレクサンデルに、イシュタルは静かに首を振る。
「私の見たところ、あのエッツェル皇子は、気付いているかもしれません。いえ、今は気付いておらずとも、彼ならばいずれは気付きましょう」
「ふん」皇帝は鼻を鳴らした。「またエッツェルか。ジシュカといい、おぬしといい、皆が奴のことを買いかぶっておる。あれは、ただの抜け殻だ。恋人を死なせて、奴は生きる理由を失った」
「いいえ、それは違います。面白いことを教えて差し上げましょう」
そう前置きして、イシュタルは皇帝に、彼が知らぬ事実を告げた。
「ほう、ほう!」アレクサンデルは興奮して叫び声を上げた。「なんと、そんなことになっておったとは! 奴が『
「彼についている娘は、魔女の世界では落ちこぼれの異端児ですけれど、でも、他の魔女たちにはない秘密がありますのよ」
そう言ってイシュタルはワインを一気に飲み干し、いたずらっぽく瞳を輝かせる。
「建国より三百年、この『皇宮結界』は、暴虐の限りを尽くす皇帝たちを守る盾となってきました。この結界のおかげで、誰もあえて皇帝たちに逆らおうとはしませんでした。ですが、今になって、ついにその構図が崩れたのです。そう、自由革命軍の決起と台頭という、かつてない事態によって」
「だからこそ、このタイミングでの『魔女たちの宴』というわけか」
納得して、アレクサンデルはうなずいた。
「余は、幸運な皇帝と思うべきなのであろうな。『魔女たちの宴』が催され、次代の覇者が誕生する瞬間を目の当たりにできるのだから」
エトルシアは、西方諸国に君臨する超大国である。誰が覇者になるにしろ、その皇帝である彼は、打倒される定めにある。
「目の当たりには、できませんよ」イシュタルは、微笑した。「次代の覇者が誕生するその瞬間には、陛下はもう、この世にはいらっしゃらないでしょうから」
「もっともだ」うなずく皇帝の顔には、むしろ笑みが宿っていた。「早く余を打倒する若者が現れてほしいものだ」
皇宮の高みからは、街の様子を一望できる。カタラス区の方角に目をやると、いつも以上にたくさんの明かりが灯っている。勝利に沸いた反徒どもが、酒盛りでもしているのであろう。
「自分でも、コントロールできぬのだ。この『加護』の力は」
『加護』のことを思い出すと、手が震え出した。自らの持つ力の恐ろしさに、気が狂いそうになる。なぜ、自分はこんなおぞましい能力を持っているのか。なぜ、自分なのか。
「エッツェル皇子の秘密を、ジシュカ皇子やフィリップ皇子にお知らせなさいますか」
「そこまでしてやる理由はあるまい。次代の覇者となるべき男たちなら、それくらいは自力で気付いてもらわねば困る。気付かずにエッツェルにしてやられるようなら、奴らもそれまでの男だったということだろうよ」
ジシュカやフィリップは、我が息子ながら知勇を備えた頼もしい男たちである。だが、不幸にも、エトルシア皇家の呪われた血筋に生まれてしまった。エトルシアの歴代の皇帝は、三十七人。そのいずれもが、一人の例外もなく、狂わしき暴君であった。彼らのすべてが、生まれながらにして暴君だったわけではない。今のジシュカやフィリップのように、もともとはよき君主たらんと志す若者も多かった。
ジシュカ、フィリップ、それにエッツェル。あるいはまだ見ぬ『
「次にお会いするときは、陛下の最期のときでしょう」
ワインの味をひとしきり楽しんで、イシュタルは別れを告げた。
「うむ。おぬしも何かと忙しかろうからな」
「はい。では、お身体に気を付けて。などというも、妙なものですけれど、さようなら」
次の瞬間、イシュタルの姿はいつの間にかかき消えていた。まるで初めから誰もいなかったかのようだった。
皇帝はまた一人になった。寂寞の思いがかすかに心をよぎり、それを紛らわすようにワインに口をつける。
「待てよ、あの者の姿……そうか!」ふとあることに気付いて、アレクサンデルは膝を打った。「どこかで見たことがあると思ったが、そうか、あやつに化けておるのか」
西方諸国に悪名を轟かせる皇帝は、かかかと大笑した。これは本当に面白くなってきた。
「さて、誰が勝つかな。誰が、この戦いに勝って次の覇者となるのかな。ステファンか、ジシュカか、フィリップか。あるいは自由革命軍が我が帝国を討ち滅ぼして新たな世界を築くのか」
ワインを口の中で転がした。いつにもまして美酒だった。
「それとも……」
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