エピローグ

 黒い血の塊を吐き出して、デスピナの身体は崩れ落ちた。エッツェルはすぐさま彼女に駆け寄った。肩に手を当て、顔を近づけて、小さな声でそっと囁いた。

「ルーアン公女クレアを殺したのは、お前か?」

 もはやデスピナは、声を発することもできなかった。だが、エッツェルの『心眼の加護』は、デスピナの心の声を捉えていた。

≪なぜ、そんなことを聞く?≫

 エッツェルは白銀の兜をわずかに押し上げて、デスピナの瞳に己の素顔を見せつけた。せめて自分が誰に敗れたのかくらいは、教えてやってもよいだろう。死にゆく者に対する、それがエッツェルのせめてもの慈悲だった。

≪そうか……お前だったのか≫

 納得したように、デスピナのこわばった顔がわずかに和らいだ。

≪ジシュカ兄上が、かつて言ったことがある。兄妹たちの中で自分が最も恐ろしいと感じるのは、エッツェルだと。私はそれを一笑に付した。婚約者のことしか頭にない軟弱な男の、一体何を恐れるのかと。お前の真価を見抜けなかった私が敗れるのは当然だ≫

「クレアを殺したのは、お前か?」

 デスピナの昔語りを無視して、エッツェルは再度、問いかけた。その問いの答えを聞くために、彼は知略の限りを尽くしてここまで来たのである。

≪いいや、違う。クレア公女を殺したのは、私ではない≫

 違った。エッツェルは落胆する。すべては、これで振り出しに戻ってしまった。

 だが、驚きよりも、やはり、という思いの方が強かった。剣も持たぬ女を騙し討ちにして殺害できるような人間では、デスピナはなかったのだ。『加護』の力を手にしても、あらゆる権謀を駆使して覇者の道を進むようなことは、彼女にはできなかった。むしろ、自らが手にした『加護』の恐ろしさに慄き、その力を使いこなすことができなかった。

 姉上も、所詮はこの程度か。ジシュカ兄上ならば、こうはいくまい。

「クレアを殺したのが誰か、知っているか」

≪そんなこと……私が知るものか≫

 心の声が嘘をつくことはない。デスピナは、この件には無関係だったのである。

≪そうか……お前は、私の心が読めるのだな。母上が……いや、あの魔女が言っていた『心眼の加護』の使い手とは、お前だったのか≫

 その心の呟きに、エッツェルは眉をひそめる。他の『覇者を目指す者レグナートゥールス』がどんな『加護』を持っているのか、魔女たち自身にも分からない。メディアは確か、そんな話をしていなかったか。

 やがて、デスピナの心の声もか細くなっていき、それは完全に途絶えてしまった。同時に、デスピナの顔からも生気がなくなり、呼吸が止まる。

 エトルシア第一皇女デスピナは、ここに息を引き取ったのである。彼女はまた、『魔女たちの宴』における『覇者を目指す者レグナートゥールス』の最初の退場者でもあったに違いない。

 エッツェルは、心の中で短く祈りの言葉を捧げた。デスピナは、自由革命軍にとっては憎むべき宿敵であった。彼自身にとっても、覇者となる上でいずれは排除しなければならない相手ではあった。だが、自らの策で実の姉を葬り去って、それで平然としていられるほどエッツェルは無情な男ではなかったのである。

「俺たちは……何てことを」

 アードラー隊の兵士たちが、ざわめいている。デスピナに洗脳され、忠誠を誓っていたときの記憶はあるらしい。

「気にしないで」シャルロットが、明るく笑いかけた。「ちょっと悪い夢を見ていたのよ」

「我らは、自由革命軍に降伏する」

 ジェルメが武器を投げ出して、エッツェルの前に跪いた。デスピナに従っていた他の者たちも、ジェルメに倣った。

「わたくし自身はどうなってもかまわないが、武器を持たぬ者たちには、危害を加えないでいただきたい。それと、我があるじデスピナ様の亡骸を、丁重に弔わせていただきたい」

「了解した」エッツェルは頷いた。「皇女デスピナは、正々堂々たる一騎打ちによって、騎士としての道を全うした。最期まで立派な勇者だった」

 ジェルメはあえて主君の意に背くことで、彼女への忠義を貫いたのだ。彼が守ろうとしたものは、尊重してやろうと思った。

 ヴァルデマールとフランコが中心となり、ジェルメたちを拘束する。やがてルクスの部隊が城の中に雪崩れ込んできた。

「あんた、やっぱりただ者じゃないな」ルクスはそう言ってエッツェルを褒めたたえた。「こうもうまくいくとは、僕も思っていなかった」

「残敵の掃討を頼む」エッツェルは短く依頼した。「さすがに疲れた」

 それを了解して、ルクスはシャルロットたちを連れて大広間を後にした。まだ抵抗を続ける者もいるだろうが、じきに制圧されるだろう。自由革命軍は、ゲマナ城に続いて、カタラス城の占拠にも成功したのである。

 エッツェルはメディアとともにその場に残っていた。

 呻き声が、かすかに響いた。血まみれで床に転がっていた赤毛の魔女の生首が、目を血走らせて、魔王の形相でエッツェルを睨みつけている。さすがにぎょっとして、エッツェルは身体をこわばらせた。

「……化け物か、貴様は。首だけで生きているとは」

 驚異的な生命力は、魔女ゆえのものか。とはいえ、いかに赤毛の魔女が人間離れしていたとしても、もはや迫り来る死の運命からは逃れようもないように思われた。尋常ならざる妄執によって、かろうじて細い生をつないでいることがうかがえた。

 死にゆく魔女に対して、エッツェルは微塵も同情の念を抱かなかった。彼女はデスピナに己の生死を賭け、そして敗れたのである。デスピナとともに滅びるのは必定であった。

「デスピナの母エウドキアの病死をうまく利用したつもりだったのだろうが、残念だったな」

 エッツェルがその一言を口にしたのは、特に深い理由ゆえではなかった。だが、その何気ない言葉が意外な反応を呼んだ。赤毛の魔女の蒼ざめた顔に、嘲りの色が差した。

「何を勘違いしているの? エウドキアを殺したのは、私自身よ。殺して、その霊魂を乗っ取ったのよ。それ以外にどうやって、魔女が他人の姿に成り代わることができるというの?」

 赤毛の魔女は、哄笑した。一体どこにそれほどの力が残っていたのかと驚くくらい、それは高らかに響いた。

「そんなことも見抜けないだなんて、私のデスピナを破った男にしては、ずいぶんと甘い人間だこと。きっとお前は……お前は……がはっ」

 ひとしきり笑ったところで、赤毛の魔女はどす黒い血の塊を吐き出した。それが、彼女が生前に行った最期の動作となった。魔女の首は、それきり動かなくなった。デスピナに続き、彼女に『加護』の力を与えた魔女もまた、戦いの舞台から永遠に退場したのである。

 だが、エッツェルにとっては、魔女の生死どころではなかった。彼は呆然として、彼女の最期の言葉を噛み締めていた。今、この魔女は一体何を口走ったのか。

 

 それが意味することは明白だった。もしそれが本当だとすれば、クレアを殺害した犯人は、ただ一人でしかありえなかった。

 驚愕に打ち震えながら、エッツェルは彼の最愛の人と同じ顔をした女の方を振り向いた。

「まさか……」

「そうだ」いつもの無表情で、メディアは答えた。「わたしがクレアを殺した」


<第一部完、第二部へ続く>

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