第六章 覇者を目指す者 2
……病に倒れ、昏睡状態に陥ったデスピナの母エウドキアが息を吹き返したのは、八月十三日のことだった。最悪の事態も覚悟していたデスピナは、安堵した。
エウドキアは心の優しい、慈愛に満ちた女性であった。穏やかで、他人から何かを頼まれたら嫌とは言えない、押しの弱いところがあった。気の強いデスピナからすると、控えめな母の態度に苛立ちを覚えることもあったが、やはり産みの母である。自分が守らなければならないと心に決めていた。
だが、その日を境に、デスピナの愛する母はがらりと変わった。侍女たちに高圧的に接するようになり、気に入らないことがあると怒鳴り散らした。デスピナのやることに、公然と口を出すようになった。
挙句に、自分は神の使いであるなどと称し、困惑するデスピナにこんなことを言い出した。
「私のかわいいデスピナや。お前は、世界の覇者になるべき女なのよ。力と破壊の神トゥルヌスがそう告げているわ」
デスピナは面食らった。彼女は若くして武勲を重ね、『蒼炎の皇女将軍』として名を馳せている。武勇でも、胆力でも、並みの男どもには負けないという自負もある。母に言われずとも、兄妹たちとの競争に打ち勝って、いずれはエトルシアの女帝に上り詰めるつもりである。
だが、デスピナの知る母は、そのような苛烈な争い事が苦手な母ではなかったか。だから皇帝の寵姫でありながら、陰謀の渦巻く皇宮を避け、娘の居城でひっそりと暮らしているのではなかったか。
まして神のお告げとは。デスピナは神も悪魔も信じない。信じるのは、自らの剣の力のみである。
「デスピナ、あなたにトゥルヌス神の『加護』を授けるわ。『至誠の加護』といって、下賤の者どもを支配する力よ。だからこの力を使って、覇者におなりなさい。あなたは選ばれた、『
何を馬鹿な、と思った。くだらないまじないを信じるようになるとは、母は病のせいで気が触れたのではないか。
だが、そうではなかった。それが明らかになったのは、翌日のことだった。
その日、デスピナのもとを、弟エッツェルの婚約者であるルーアン公女クレアが訪ねてきた。自由革命軍と称する反徒どもと交渉をしている彼女は、和平の条件を設定するために、政府軍の有力な将であるデスピナに理解を求めに来たのである。
「反徒どもと和平だと? 呑気なものだな」
クレアを応接室に待たせ、執事から訪問の用件を聞いたデスピナは、苦笑いを浮かべた。世間知らずの公爵令嬢が何を的外れなことを言っているのか、と呆れた。
「国家に害をなす不逞の者どもは、このデスピナが堂々たる武をもって殲滅してやるつもりだ。和平など必要ない。そもそも、奴らの方でもそれを望んではおるまいに」
「それが、実はそうとも言い切れませんで」
頭の禿げ上がった執事は、渋い顔で声をひそめた。
「どうもクレア公女は、反徒どもの頭目と何度も接触し、具体的な講和の道筋をつけているようなのです。皇帝陛下も、条件次第では和平に応じてもよいとおっしゃっているようでして」
「何だと? それはまことか」
デスピナは眉をひそめた。それでは困るのである。彼女が武を振るい、天下に名を轟かせる機会がなくなってしまう。乱世でこそ、彼女の才能は存分に発揮できるのである。
「いかがでしょう」執事は、何やら得意げにデスピナに囁いた。「いっそ公女に毒でも飲ませて、今のうちに始末してしまえばよろしいかと」
執事の手には、赤黒い液体の入った小瓶があった。
この提案にデスピナは激怒し、執事につかみかかった。獅子の志を知らぬ小鼠の知恵というべきであった。
「私に、そのような卑劣な謀略を使えというのか? 私の武人としての名誉を辱めるつもりか。出過ぎた真似をするな!」
相手が帝位を争う兄妹たちや、反徒どもであったなら、デスピナは容赦はしない。あらゆる手段を使って排除するつもりである。だが、気に食わぬ相手とはいえ、クレアは高貴なエトルシア貴族の令嬢である。そのような人物に毒薬などというおぞましい罠を仕掛けるのは、デスピナの矜持が許さなかった。
「第一、公女を殺して、皇帝陛下やエッツェルに対してどう言い訳するつもりだ? この考えなしめ。毒は貴様が食らえ」
何気ない一言であった。だが、その何気ない一言に、執事は狂気に満ちた顔でこう答えたのである。
「かしこまりました、皇女殿下!」
「……何を言っている?」ただならぬ気配を感じ、デスピナは顔色を変えた。「おい、待て、早まるな!」
止める間もなかった。執事は、小瓶の蓋を開けると、その中の赤黒い液体を一気に飲み干した。そして血を吐いてこと切れたのであった。
デスピナは呆然となった。毒を食らえと言ったのは、もちろん、言葉のあやにすぎない。愚かな部下とはいえ、まさか本当に実行するとは思いもしなかった。
ほとんど話も聞かないままにクレアを追い返した後、執事の遺体を棺に納め、デスピナがどうしてよいか分からないでいると、母エウドキアがそっと彼女に囁いた。
「言ったでしょう? あなたは下賤の者どもを支配する『至誠の加護』を授かったのよ。今やあなたは、下々の者を従わせる力を持っている。よくよく発言には気を付けることね」
母の言葉が真実であることを、彼女は悟った。戦場で恐れを知らぬ皇女将軍の背筋を、うすら寒いものが駆け抜けた。自分は何かとんでもない力を手に入れてしまったのではないか。
「死んだ執事の言うとおり、愚かなルーアン公女など、早く始末してしまえばよいのです」
「いや、母上、それは……」
「ためらう必要はないのよ。力と破壊の神トゥルヌスがあなたに命じているの。この力を使って、世界を手に入れよ、と。和平などあなたの覇業の前には、邪魔だわ」
冷や汗が流れ出た。一体自分の身に何が起きているのか。
エウドキアは説明した。『至誠の加護』は、デスピナが手で直接触れた相手を、彼女の忠実な奴隷にする力がある。相手が下賤の者であるほど、その効果は高い。彼らはデスピナのためならどんな狂気に満ちた命令でも聞いてくれるだろう。ある程度の地位を持つ者にはそれほど効き目はないが、部下の忠誠を確実に繋ぎとめておくことはできる。来たるべき帝位を巡る兄妹たちとの戦いにおいては、裏切りが日常茶飯事となるに違いないから、それだけでもかなり有効な力となるはずである。
「これからは、公の場に出るときはくれぐれも注意しなさい。あなた以外にも、神々から『加護』の力を授かった『
「私の他にも、そのような力を授かった者がいるのですか」
「そう。特に注意すべきは、『心眼の加護』よ。この『加護』は、手で触れただけで相手の心を読むことができるわ。他の連中も、どんな『加護』を持っているか分からない。あなたの『至誠の加護』は『
だから『
「私が策を練ります。大丈夫、あなたの武に神の『加護』、それに私の策が加われば、どんな相手だろうと負けはしません。あなたなら、できるわ」
想像を絶する話に、震えが止まらなかった。
「どうしたのです、デスピナ。恐ろしくなってきたのですか」
「いえ、母上」
デスピナは、覚悟を決めた。もはや後戻りはできない。
母が自分のために与えてくれた、神の力なのだ。こんな力などいらない、とは絶対に言えなかった。
そもそも、この能力は、皇帝の座を狙う自分にとっては、願ってもないものではないのか。一体何をためらう必要があるのだろう。
「分かりました。母上のお望みの通り、私は覇者になります。この、『加護』の力を使って」
深呼吸をして、彼女は答えた。『
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