第五章 サイノス河の殲滅戦 5
ジシュカはただ一騎、森の中を駆け抜けていた。大切な部下たちをすべて失っての、惨めな敗走であった。その目も眩むような屈辱は、彼の矜持を完膚なきまでに打ちのめした。だがそれは、彼の頭脳までをも衰えさせてはいなかった。気が滅入るような逃亡を続けながら、彼は目まぐるしく思考を巡らして、敵が一体どんな手を使って彼をここまで追い詰めたのかを分析した。
すべての要因を精査し、ありとあらゆる可能性を検討して、ついに彼は一つの結論に達した。
「敵は、何か不可思議で超常的な力を得ている」
そうとしか考えられない。普段のジシュカなら、一笑に付す荒唐無稽な発想である。だが、すでに事態は彼の常識の外にあった。どれほど凄まじい知性や観察眼の持ち主をもってしても、誰にも打ち明けていないジシュカの奇策を正確に読み当てるなど、およそ不可能な業である。であれば、神の御業か悪魔の所業かはともかく、何かとてつもない人知を超えたものが介在していると考えるしかない。
敵の矢の雨をかいくぐったとき、ジシュカは一瞬だけ、敵の指揮官らしき人物を仰ぎ見た。白銀の鎧に身を包んだ不気味なその姿は、彼に鮮烈な印象を与えた。あの敵将が、今回の恐るべき黒幕だろうか。何か得体の知れない力を有しているのは、彼かもしれない。
では、その得体の知れない力とは、具体的にはどんな力なのか。
「未来予知……か?」
いや、それはありえない。一度は考慮に入れた考えを、ジシュカは慎重に排除した。未来は無数にある。自由意志によって、人間は未来を変えることができる。確定された未来など存在しない以上、それを予知することなどできようはずがない。そもそも未来を予知することができるとしたら、予知することそのものが現在に変化を与え、未来を変えることにつながる。未来予知とは、論理的に矛盾した概念なのである。
「そこまで常識外れな能力を想定するのは、行き過ぎだ。超常的な能力とはいっても、何らかの法則や定理には必ず従っているはずだ。例えば……他人の心を読む能力、などがあれば、私の作戦を看破することも不可能ではないのではないか? 超一流の裁判官は、罪人の表情やしぐさ、声色から、その嘘を一目で見抜くという。そのような技を限界まで極めれば……」
だが、そこまで考えて彼の思考は行き詰った。今朝になって、彼は作戦の決行時刻を変更したのである。そのときになって彼の心を読んでいても、あの土石流の計略の準備には間に合わないだろう。
「あらかじめ私の心を読んだうえで、さらに私が作戦の決行を早めるであろうと予測した、ということか? ……まさか、そんなことが」
敵は、超常的な能力を持った上に、卓越した智謀まで持った人物ということか。そんな恐ろしい者が、この世にいるということなのか。
不意に、彼の脳裏にある男の顔が思い浮かんだ。ジシュカはその男に、自分には秘策がある、と得意げに語ったことがあるのだった。思えば、あの時の男の振る舞いは、やや不自然ではなかったか。男はジシュカの肩に手を置いて、彼にそっと耳打ちをしたのだが、今考えると別に声をひそめる理由などなかったのである。あれは、超常的な力を発揮するためには、相手に直接触れることが必要だということなのではないか。
もしその男が、心を読む能力を持っていたとしたら。その力を使い、彼の策を読んだ上で、作戦の決行時刻を変えることすら予想したのだとしたら。
その男とは、かつて彼に苦渋を舐めさせたことのある、ただ一人の人物であった。
「エッツェル……お前なのか?」
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