第6話 穏やかな赤い瞳の青年
双葉に連れられて来たのは、とても不思議な造りのした小屋の下だった。そう、下だ。
「凄い。木の上に小屋があるのね」
「こういうの造るのが得意な奴がいてさ。嵐にも負けないように頑丈に造られてるんだ」
「へぇ」
先程温羅が登っていた木程ではないが、それでもとても太い木の上に小屋は建っていた。存在感のある幹が二股に分かれた部分に板が何枚も渡され、ゆかりが住んでいたような小屋がしっかりと支えられている。
「さ、入るよ」
幹には梯子のような足を引っかける場所があり、それが扉の前の足場まで続いている。それを双葉はするすると、ゆかりは恐る恐る登り、小屋の中へ入った。
「うわぁ! とてもきちんとしているのね」
まず一番に目に入ったのは大きな窓だ。今は障子張りの引戸が開け放たれており、暖かな日差しと風が入り込んでくる。窓から下を覗きこんでみると、すぐ下には板で足場が張られていた。
背の高い棚や布団や箪笥もあり、今すぐにでも生活できそうだ。
「今日からここがあんたの家。好きなように過ごせばいいから。他の皆も好き勝手に暮らしてるしね」
「ええ。ありがとう、双葉」
「別に。ゆかりって薬師だっけ? なんかあった時にはあんたを頼るから、礼はその時にしてよ」
「勿論よ!」
それじゃあ、と小屋から外への扉に手を掛けた双葉は何かを思い出したのか、くるりとゆかりの方を向いた。
「忘れてた。これはオレの親切心からくる忠告だけど……」
「? 忠告?」
「その窓、夜はちゃんと閉めて眠る事。なんなら誰かに頼んで鍵を付けて貰いなよ」
さもないと、と双葉が言葉をきる。そしてやや疲れたような視線で続けた。
「何されるか分かんないよ」
「へ?」
「無理矢理事を起こす人じゃないけど、あの人時々突拍子もない事するし、口も上手いからいいように誘導されるかもしれないから、用心しといて」
「え? ……え?」
「まぁあの人に目をつけられた以上、逃げるなんて事は到底無理な話か。……精々頑張りなよ」
なんだか憐れな者を見るような目でゆかりを見た後、今度こそ双葉は小屋から出ていってしまった。
「……あの人って、誰?」
ゆかりに大きな疑問を残して。
「……いったい、どういう意味だったのかしら」
眉間に皺を寄せつつ、ゆかりは鞄の中身を棚へ移していた。
「あの人…………。うーん、見当もつかない」
頭を悩ましていてもゆかりの手は迷いなく薬を並べている。やはり使い勝手がよいので、今まで通りの並びにした。
「よし、できた。これだけあればあとはこの森で薬草を探すだけでいいわ」
紅い着物に着替え、鞄に荷物を詰めた自分。あの時の自分の行動は未だに理解できないが、とりあえずは感謝しておこう。
「そう、この紅い着物……」
そう呟いてゆかりは自分の姿を見下ろす。普段着ない色だからか、とても違和感がある。
「脱いでしまおう」
ふとそう思い立った。なんだかこのままこの着物を着てはいけないような気がした。
開いていた障子戸を閉めて、ゆかりは先程箪笥に仕舞った着物の一枚を引っ張り出す。紅い着物を脱いでそれを着てしまうと心が安らいだ。
「これ、捨ててしまった方がいいね」
どうしてそう思ったのかは分からないが、もう二度とこれを着てはいけないように思えた。
そうと決まれば、これは雑巾にでもしてしまおう、と裁ち鋏を手に取ってちょきんちょきんと切っていった。鋏を入れていくたびに安堵が増していく。
「鴉さん、まだかしら。ここに来てくれればいいけど」
ゆかりの独り言は続く。
この森は鴉の
「一緒にいたいのに……」
思わず手を止め、目を伏せて考え込んでしまう。
あの鴉は自分と付き合い始めてたったの一月だ。そんな者の家よりも、長年住んでいるであろう場所の方が過ごしやすいだろう。もう自分の側にはいてくれないかもしれない。
対して自分はあやかしの森という初めて訪れた場所での生活という事で、わくわくする気持ちも勿論あるが、不安で心細くも思っている。そんな時にあの鴉が居てくれたら本当に心強い。
それに鴉がいるからここに住むと決めたのだ。もし距離が置かれたら残念でならない。
(ただの私の我が儘だって分かってる。だけど、やっぱり近くにいてほしいな……)
よっぽど思い沈んでいたのだろう。微かな、本当に微かな羽音をゆかりは聞き逃さなかった。
(鴉さんが来た!)
ゆかりはすぐに鋏を置いて、閉めきった窓の側へ駆け寄る。同時に誰かが窓の外に降り立つ気配を感じた。
ゆかりは勢いよく障子戸を開け、湧き立つ嬉しさを隠そうともせず、外の者に声をかけた。
「よかった鴉さん! 来てくれたのね!!」
「え?」
「……え?」
外にいたのは鴉ではなく、見た事のない一人の青年だった。
耳の下辺りまでの艶やかな黒髪。はっとする程見目麗しい顔の造形は、誠実そうながらもどこか蠱惑的だった。
ゆかりが特に惹き付けられたのは二つの瞳だ。
透き通るように美しく、鮮烈な赤。
見る者の目を捕らえて離さない赤。
どこかで見たような、馴れ親しんだ赤。
今、その赤はやや見開かれており、驚きの光を宿している。
しばらくの間お互いを見つめ合っていたが、最初に我に返ったのはゆかりだった。
「ご、ごめんなさい! 人違い……じゃない、あやかし違いで! は、羽の音がしたから勘違いして……。でも、障子戸を開けたらあなたで……」
見惚れていた恥ずかしさも
青年は『あやかし違い』という部分で何故か少し残念そうにした。しかしそんな表情もすぐに消してしまい、柔らかな笑顔をゆかりに向ける。
「いえ、勘違いさせてしまった俺が悪いんですよ。面倒だからって扉ではなく窓の方に降りたので」
「へ? お、降りた?」
「ああ気にしないでください。今はまだいいです。来たばかりで疲れているでしょうから」
「来たばかりって、どうしてそれを?」
まるでゆかりの事情を全て分かっているような言い方に疑問を覚えた。
「これから話します。立ち話もなんですし、中に入ってもいいですか? 怪しい者ではありませんから」
「え、ええどうぞ」
ゆかりがそう招き入れると、青年はその場で履き物を脱ぎ、窓枠へ足をかけた。
「履き物はどちらに?」
「あ、あそこよ」
そう言って扉の側を指差すと青年はそちらの方へ歩いていった。
双葉と同じで動きやすそうな黒い装束を纏った体はすらりと高く、とても姿勢がよかった。当然ながら、羽などどこにも生えていない。
(違う鳥の羽音と間違えたのかしら? それとも会いたいばかりの幻聴?)
着物の切れ端を大まかに片付けたところで、青年はゆかりの目の前に腰を下ろした。
穏やかな笑みは絶さず、喜色に満ちている。
「とりあえず、始めまして、と言っておきます。俺の名前は
(あれ? この声どこかで……)
鼓膜を心地よく震わすその低めの声に聞き覚えがあった。しかしどこで聞いたのかは思い出せない。
「私はゆかりです。今日からこの森で暮らす事になりました。宜しくお願いします、蘇芳さん」
ゆかりが蘇芳の名を呼ぶと、彼はますます笑みを深めた。
「俺の事は蘇芳と呼んで下さい。『さん』はいりません。それから話し方もそんなにかしこまらなくていいですから」
「でもあなたも敬語でしょう? あなたこそそんなにかしこまらなくてもいいのよ? 私は偉くもなんともない、普通の人間の薬師なんだから」
「俺のはただの癖です。そこまで綺麗な話し方、という訳でもありませんしね」
と、蘇芳はそう言ったが、確かにかしこまった様子はなく、自然とそういう話し方になるのだと分かる。
「分かったわ。じゃあ私の事も呼び捨てがいいわ。ゆかりと呼んで」
「ええ。…………ゆかり」
「!」
まるで大切な物のように感情を込めて名を呼ばれたので、思いがけずゆかりの鼓動は少し速まった。
(どうしたのかしら私。さっきから顔が熱かったり、胸がどきどきしたりして、なんだか変だわ)
おかしくなってしまったのはこの青年のせいだ。彼の言葉が、態度が、瞳が、ゆかりを特別だと言っているように感じるのだ。
(そんなはずないわよね、初対面なんだから)
「ゆかり? どうかしましたか?」
「いっ、いいえ!? 何ともないわ!」
それよりも、とゆかりは話を変える。
「お手伝いっていうのは……?」
「貴女の事情は知っています。慣れない土地で不便でしょうから、しばらくの間、俺が貴女の側につきます。ここでの生活の仕方から森の案内まで、何でも俺に聞いていただければいいですから」
「そんな悪いわ! あなたにそんな面倒をかけてしまうなんて……」
ゆかりがそう首を振ると、蘇芳はきょとんとした顔になった。
「面倒? 何故面倒だと思うんですか?」
心底理解できない、と言いたげだ。
「だってあなたの時間を奪ってしまうって事でしょう? それに、私分からない事だらけだから、きっとあなたは私にかかりっきりになってしまうわ」
「ああそんな事ですか。俺にとっては望むところですけどね。気に病まないで下さい。俺も好きでやるんですし、他の者には任せたくありませんから」
「えっと、どういう意味?」
何故他の者は駄目なのか、意味が分からずそう尋ねると、蘇芳は微笑みながらゆかりの顔を覗きこむ。
「まあ簡単に言ってしまえば、綺麗で心優しい貴女の側にいられるなんて光栄な事なので俺にとって何の迷惑にもなりませんし、むしろ是非一緒にいさせてください、という意味ですよ」
「きっ! えぇっ!?」
生まれて初めて自分にかけられた言葉に、どぎまぎしてしまう。増していく混乱に歯止めが効かない。
「ゆかり、貴女はとても綺麗ですよ。でも俺はその心の美しさの方も素晴らしいと思いますけどね。優しくて聡明で温かくて……。ああこんな短い言葉では言い表せません。貴女のいいところをもっと語ってさしあげたいのですが、しばしお時間頂いても?」
「いい! もういいから十分だから!!」
限界にまで達したゆかりが白旗を上げると、蘇芳は愉快そうに目を細めた。
「ふふ、顔が真っ赤ですね。可愛らしい」
「だからもういいってば!」
蘇芳はなおも続けようとしたがなんとか押し止める。穏やかそうに見えてかなりの危険人物だ。心臓がもたない。
ゆかりを追い詰めて楽しんでいた蘇芳だが、ふと部屋の隅に片付けられた紅い着物に目をとめた。
「あれは……。あの着物、どうしてしまうんですか?」
「へ? ああ、あの紅い着物ね。今日初めて腕を通したんだけど、なんだかもう着てはいけないように思えて……。勿体無いのだけど雑巾にしてしまっているところなの」
自分でも上手く説明のできる事ではなかったのだが、蘇芳は納得してくれたらしい。
「俺もなんとなくですがそうした方がいいと思います。勘というのは大事ですからね。繕い物の道具はありますか?」
「ええ。誰かが使っていたようなのが棚にあったわ。ここって前に誰かが住んでいたの?」
「確か最近他のところに嫁に行った者がいましたね。もう使わないでしょうから貴女が貰ってあげてください」
「そうね。そうさせてもらうわ」
生活に必要な物をほとんど持ってきていない自分にとってはなんとも有り難い事だ。
蘇芳の教えがあればここでの生活はすぐに慣れそうだ。
だが一つ、どうしても気掛かりな事がある。
「あの、蘇芳。もしかしたらあなたには分からない事かもしれないのだけど、聞いてもいい?」
「はい。何でもどうぞ」
「あの……、この森まで連れてきてくれた鴉さんの事なんだけど、もう一緒に暮らす事はできないのかしら」
「……鴉、ですか」
そう尋ねると蘇芳は顎に手を添え、考え込んでしまった。
(あ、鴉さんの事は聞いていないのかしら)
だとしたら質問に答えるどころか、質問の意味も理解できていないだろう。
「あのね、鴉さんっていうのは綺麗な赤い目をした大きな鴉の事で、一月程私と暮らしていたの。温羅様が言うにはとても賢いんだそうだけど、思い当たらないかしら」
ゆかりの不安が伝わったのか、蘇芳は俯いていた顔をぱっと上げた。
「ああいえ。その鴉の事なら知っています。ただ……どうしようかなと」
「?」
「多分、ですけど、今までのように一日の大半を一緒に過ごすのは無理でしょうね。一応しないといけない事があるので。ただ夜は体があくので、夜になれば毎晩でもやってくると思いますよ」
「本当!?」
「ええ。貴女の事を伝えておきますね」
「そう。ありがとう、蘇芳!」
心からほっとした。まだあの鴉との縁は切れないのだ。
ゆかりが満面の笑みで喜んでいると、蘇芳は苦笑いしながら呟いた。
「これじゃまだ明かせませんね……」
「何を?」
「……いずれ、お話ししますよ」
『いずれ』の部分を強調して蘇芳は話を打ち切ってしまった。
ふいに蘇芳は手をゆかりへ差し出した。
「ゆかり、手を」
「握手?」
「はい」
戸惑いつつもゆかりがその手を握ると暖かくてゆかりのものよりも大きな手の平で包まれた。
蘇芳の穏やかな笑みが、何故かゆかりの瞳には艶っぽく映る。
「まだ言っていませんでしたね。これから、どうぞ宜しくお願いします。ゆかり」
━━柔らかに握られているはずの手から、もう二度と逃れられない。そんな錯覚に陥ってしまった。
ここから、ゆかりのあやかしの森での暮らしが始まったのだ。
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