第5話 猫の少年と鬼の主



「意外と明るいのね」

 鴉に向かってぽつりと言う。外からは暗くて恐ろしい場所に見えたというのに、中へ入ってみると木々の隙間からはきらきらと輝くように日の光が差す。

 周りの植物も薬草の本でしか見た事のないものばかりで、初めて目にする光景に心が踊った。案外自分は図太く出来ているらしい。つい先程まで「あやかしに食べられるかも」と怯えていたというのに、今はわくわくしながら森を散策している。

「ずっと怖い所だと聞いてきたけど、噂なんてあてにならない事が改めて身に染みるわね」

 ふいに鴉が枝にとまったのでゆかりもその場で歩みを止める。話を聞いてくれそうな雰囲気だったのでそのまま笑顔でこの森の感想を続ける。

「日の光は暖かで、木や草の葉はつやつやとしてて鮮やかな緑が綺麗だわ。あ、あの可愛らしい花はなんていうのかしら。お祖父様の本にも書かれていなかったわ。……あぁ、本当に面白いわ。この森って実はとても綺麗で面白い所だったのね!隅々まで探検したいくらい」

「へぇ。ここを気に入るなんて、変な人間だね」

「っ!!?」

 興奮で周りに注意も向けずつらつらと言葉を並べていたゆかりは、突然の背後からした少年の声に驚き、瞬時にそちらをふり向く。

 ゆかりのふり向いた先には、木にもたれながら立っている明るい茶の髪の少年がいた。歳は十二、三かそこら。ややつり気味の大きな瞳が愛らしい。しかしその頭には髪と同色の耳が生えていた。人間のではなく猫のそれが。

「あ、あやかし?」

 ばくばくと速くなっていく鼓動を押さえてそう尋ねた。聞くまでもなくあやかしにしか見えはしないが反射的に口から出てしまったのだ。

「そうだけど。見て分かんない? それとも人間にもこんな耳や尻尾が生えてるヤツいんの?」

 ちりん、と軽やかな鈴の音が響く。鈴飾りのついたら二本の尻尾が少年の後ろからのぞく。

(一応こちらの言葉は通じるし、私の話にも答えてくれるけど……)

 襲われないと決まった訳ではない。もしかしたら隙を見せた瞬間にゆかりの喉は食いちぎられている可能性だってある。

「ねえ」

 少年が木から身を離してゆかりの方へと近寄って来る。袖のない着物に細く作られた袴、足は草履も何も履いていない裸足と、とても動きやすそうな格好だ。少年から遠退こうとゆかりは一歩後ろへ下がる。少年はそんなゆかりの様子を意に介する事なくゆかりの二歩程前で止まってゆかりの顔を覗きこんできた。その表情には警戒と疑いの色が濃く滲んでいた。

「人間がここに何の用? この森にあやかしがうじゃうじゃいるって分かってて来たの?」

「私、は、人に追われて、ここへ逃げ込んで来た、の。あやかしが沢山住んでいる、て事は知ってたわ……」

 緊張で口の中が渇き、途切れ途切れの言葉を紡いでしまう。

「人間って、あやかしは人を食べる生き物だって思ってんだよね。いくら追われていたとはいえ、自分からこの森へ入ってくるなんて馬鹿なの」

 馬鹿呼ばわりに怒りは湧かない。恐怖心が見事に上回っているからだ。とりあえず全て正直に話そう、とゆかりは口を開いた。

「……私が自分でここへ来ようと思いついた訳じゃないわ。そこの鴉さんが私を助けてくれて、ここへ案内してくれたの」

「鴉さん?……って、ああぁぁぁーーー!?」

 ゆかりの指差す方を見た少年がいきなり驚愕の声を上げたので、ゆかりはぎょっと肩をびくつかせた。そんなゆかりに気付かない少年は上ずらせた声もそのままに、鴉に向かって驚きをぶつける。

「あんた、もしかしなくても蘇お━━」

「カァーーッ!」

 少年の言葉にかぶせて鴉が少年の額に蹴りを入れる。その後バシバシと翼で少年の頭を叩きながら喋るように鳴き続ける。

「痛たっ。痛いってば! え、何、名前を呼ぶなって? 何でそんな事って痛たたたっ! わかった、わかったってば!!」

 どうやら本当に会話ができているようだ。今まで何となくなら鴉と意志疎通らしきものはできていたが、鴉の発するものが鳴き声以外のものに聞こえた事はない。眼前でじゃれあう者達を見ていると何やらモヤモヤとしたものが胸の奥に溜まっていくようだった。

「いいなぁ。羨ましい……」

「だったらオレと立ち位置代わる!?」

「それは遠慮したいかな」

 ようやく鴉の攻撃から開放された少年は痛む頭をさすりながらゆかりをじっと見る。ついさっきの警戒心は無く、ただ珍しいものでも見ているような観察ぶりだ。

「あんたが言ってたのってこの女か。まあ確かに人間にしては上玉だけど、ほんとに人間をこの森へ連れてくるなんてね。は? 顔より性格? はいはい、惚気は間に合ってるよ」

「?」

 鴉と話し続ける少年の言葉の意味が分からない。ゆかりが頭上に疑問符を浮かべていると少年の呼び声がかかった。

「ねぇ、あんたさ」

「私?」

「そうだよ。あんた以外にいないじゃん。あんた、人間から逃げてここへ来たって言ったけど、これからどうすんの? 家に帰っても平気なわけ?」

「え? …………あ。逃げる事しか考えてなくて、今後の事は何も……」

 冷静になって考えてみれば、あの生まれ育った小屋へ戻る事はできない。祖父から親戚はいないと聞いていたし、村の外に知人は居らず、頼れる場所は一つもない。そこまで思い至り今さらながらに青ざめる。

「住む所が何処にもない……!」

「うわー、この腹黒鴉にとって都合の良い方向へ転がってきてるよ」

「ど、どうしよう」

 少年がどこか遠い目をしたのにも気付かず、ゆかりはがくりと膝をつく。領主の手から逃げ延びたというのに、一難去ってまた一難だ。いや、これからの生活の全てがかかっている事をたったの『一難』で表す事などどだい無理な話だ。

 遠くの村へ行って薬を売って働くか?いや、薬師とは信用第一の仕事だ。村人達の信頼を得て薬が順調に売れ出すよりも先に、ほぼ一文無しのゆかりなど飢えと困窮で祖父の元へと旅立つだろう。

「カアー。カアカア、カアッ」

「ん? 何、鴉さん?」

 励ましとは違うように思えた。何かを伝えたがっているようにみえる。

 言葉が理解できずにいるゆかりに少年はため息をつきながら訳してくれる。

「『この森で暮らせばいい』だってさ」

「え!?」

「そこの鴉がそう言ってんの。はぁ~あ、まったく、あんたもよりにもよって面倒なのにひっかかったよね」

「あの、どういう事?」

「わからない方が身の為。で、どうする? 暮らすの?」

 ゆかりを不憫なもののように見てくる少年には納得いかないがその瞳に敵意は欠片もなく、 とても人を食う様子ではない。鴉といい、この少年といい、ゆかりの中で作られていたあやかし像からは大きく外れている。もしかしたら自分はあやかしへの認識を間違っていたのだろうか。あやかしが必ずしも人間を食べるという存在でないのならば、人間である自分があやかしの中で過ごしても危険はないかもしれない。

 それにこの森をかなり気に入ってしまった。先程鴉に言った言葉に嘘はなく、できる事なら探検して発見した草花で新しい薬を作ったりしたい。

 何よりも、ここには鴉がいる。ここで暮らせば鴉とも今まで通り一緒に過ごせるかもしれない。もしそれが叶えば、このあやかしばかりの森ならば人の目を気にする事なく、のびのびと鴉と暮らせるだろう。

「……私がここに居ても大丈夫なら、住まわせてもらいたいわ」

「あんたのいう『大丈夫』っていうのは、あやかしに襲われるかどうかって事?」

「それもあるけど、私がここに住んで迷惑じゃなければって意味もあるわ」

「迷惑ってのは心配ないね。この森は広いし、色んなヤツらの寄せ集めだから、人間の一人や二人混ざったって誰も文句はないよ。それから食われる事もない。別にあやかしは人を食う生き物じゃないから。それにあんたを襲うようなヤツがいたらそこの鴉が黙っていないしさ」

「カアッ」

 少年の説明に続いた鴉の声は「任せろ」と言っていた。

(そっか。それなら今私が選べる選択肢では『ここに住む事』が一番いいわね)

「あ、でもこの鴉だったら違う意味で食べるかもしんない」

「カァッ!」

「痛いっ! ほんとの事じゃん!!」

 一人考えをめぐらせるゆかりの耳には鴉と少年のやり取りは入ってこなかった。

「ありがとう。それなら、ここへ住まわせてもらってもいいかしら」

「お好きにどーぞ」

「カアッカア!」

 そっけなく返す少年に、ゆかりの決定を喜んでいるような鴉。この二人………、一人と一匹……、二匹……?

(あやかしってどう数えればいいのかしら?)

 まあそれはいいとして、この二人(仮)のようなあやかしばかりなら身の危険はないだろう。どうかそうであってくれと願う。

「あ、そうだ。ここに住むんならこの森の主の所に挨拶しに行かないと」

「主?」

 ゆかりがそう聞き返すと頷きながら少年は答えてくれた。

「そ、この森の主。鬼の温羅うら様ね」



 ▼▽▼



「温羅様? うーらーさーまー? いるんでしょ、出てきてー」

「鬼……。いきなり高い壁がぁ!」

「カァー」

 だるそうに温羅様とやらを大声で呼ぶ少年、御伽草子では最強のあやかしと描かれる鬼への恐怖と戦うゆかり、それに対してどこか応援するような風情の鴉という三者三様の反応を示しつつ、三人が辿り着いたのは森の奥深くの開けた場所だ。

 その中央には大人が六、七人でようやく抱えられる程の太くて高い木が一本堂々たる様子で立っていた。少年はその木の上に向かって呼びかけ続ける。

「温羅様、今日は仕事の話じゃないから。なんか問題が起こった訳でもないから。面倒事じゃないから降りてきなよ」

「ふ、双葉ふたば。もしいらっしゃらないようならまた明日にでも……」

(その方が身構えられるわ)

 ゆかりが青ざめながらそう言うと双葉と呼ばれた少年は呆れた顔をする。ちなみにここへ向かう途中にお互い自己紹介をしあった。猫又の双葉。それがこの少年だ。

「人間達が鬼についてどう言っているかは知らないけど、そんなに怯える程のあやかしじゃないから。そんなにびくびくしないでくれない?」

「カアカア」

 鴉も双葉に同調するように鳴く。そう言われても怖いものは怖いのだ。どうにもならない。

「おーい温羅様ー。ほんとに裏とかないから。この前は温羅様がなかなか降りて来ないから適当な嘘を吐いたけど、今日はほんとだから」

「前科があるのね」

「うるさいな、あの人の世話をするの大変なんだから。……あ、そうかゆかりの事を言えばすぐに降りて来るか」

「へ? 何で私?」

 ゆかりが間の抜けた様子で尋ねると双葉は鴉を指差す。

「そこの鴉があんたの事を帰って来るたびに話してたんだよ。それを聞いた温羅様は、そんな面白い人間なら会ってみたいって前から言ってたんだ」

「……どう伝えたのかすごく気になるわ」

「別に悪い事は言ってないから」

「鴉さん、何を言ったの? 怒らないから正直に言ってごらんなさい」

「確か寝惚けて鴉に脱毛剤を塗りかけたんだって? その話は傑作だったね。体が黒くなくなったらこの鴉の腹黒加減も薄くなるのかなぁ」

「鴉さんーーーっ!?」

 羞恥に染まった顔で鴉に詰め寄るゆかりを放置して双葉は呼びかけを再開する。

「温羅様ー。蘇……じゃなかった、腹黒鴉が言ってた人間の女がこの森に住みたいって来たんだけど、見なくてもいいのー?」

「なんじゃと。あの性悪が言っとった女か!それは見んといけんな」

「!」

 物音一つしなかった木の上から声が響いた。と同時にその木から何やら緋色のものがゆかりの目の前に降ってきた。

 降ってきたものは人だった。いや、人ではない。頭には人にはないはずの二本の角が生えていた。

(っ! 鬼……!)

 ゆかりは咄嗟に体を強張らせていた。

 三十路ぐらいにみえる鬼はとても背が高く、ゆかりでは首が痛くなる程見上げていないと顔が見えない。無精髭の生えた野性的な見目好い顔。適当にまとめて後ろで一つにくくられた緋色の長い髪。ゆかりをじっと観察する目は輝くような黄金色で、好奇心に満ち溢れている。

  人間が森に住みにきたというこの状況をわくわくと面白がっているように口の端を上げている。

(なんだかこどもみたいな人……)

 あまりにも純粋な様子に拍子抜けしてしまい、いつのまにか体の緊張が解けていた。

「おまえが鴉の女か」

「その言い方には語弊がある……、あります」

 この森の主であり、双葉も様付けしていたのだから敬語の方が正しいのかと言い直す。しかし鬼は「それじゃあつまらん」と首を振る。

「敬語はいらん。堅苦しくて嫌いじゃからな。そこにおる双葉も他の連中も『温羅様』とは呼ぶが敬語は使わん。本当は様もいらんけどな」

「……いいのかしら?」

「わしが許しとるんじゃけぇええんじゃ」

 ガッハッハッ、と豪快に笑い声を上げる温羅も、どうやら自分が想像していた鬼とは違うようだ。

(噂も本も案外あてにならないわね。百聞も一見に如かずといったところかしら)

「それじゃあこの話し方でいくわね。私の名はゆかり。祖父の後を継いで薬師をしているの。村の領主の館で問題を起こして、今住んでる場所には戻れなくなってしまって……。もし迷惑でなければこの森に置いてもらえないかしら」

「ああ、構わんで」

「え?」

 自分は人間なのであやかしの領域を侵すように思われ、住む事には渋られるだろうと考えていたゆかりは簡単に出た許しに驚いた。

「そんなあっさりと許可していいの? 少しは拒絶される覚悟はあったのだけど」

「わしは『主』とは呼ばれておるが、そこまできっちりとこの森を統べとるわけじゃない。どのあやかしも自由に暮らし、そして互いに協力しあっとる。わしはそんなあやかし等をゆるくまとめとるにすぎん。絶対的な命令もせんし、むしろ敬語はいらんと言っておる程じゃ。じゃけえ別にこの森に住む住まんに関してわしの許しを得る必要なんてもんはそもそもない。おまえが暮らしたいというなら空き家も見繕っておくで。それにな━━」

 言葉を切った温羅はゆかりの側に伸びる枝にとまった鴉に視線をうつす。

「その鴉は賢い。人やあやかしを見る目もある。こいつが連れてきた奴なら人間じゃろうがが世にも奇妙なあやかしじゃろうが信用に足る」

「鴉さん……?」

  そこまで信頼を寄せられている事に驚き、見開いた目で鴉を見やる。

  鴉は「どうした?」と首を傾げていた。

「あなたって本当は凄いあやかしなの?」

「ああ、実はそいつはなあ……」

「カァッ!」

  双葉の時のように鴉は温羅の頭を蹴った。「余計な事を言うな」と言っているようだ。

「った! 分かった、いらん事は言わんわ!」

  さっきから鴉はいったい何を自分に聞かれたくないのだろうか。

  蹴られた頭を撫でながら、温羅はゆかりへ向き直る。

「ここから少し行った先に誰も使つこうとらん小屋がある。双葉に案内させるけぇ、今日からそこを使えばええからの。鴉、お前には話があるけぇここにおれ。お前も何か話したそうじゃしな」

「カァ」

  話はこれで終わりのようだ。案内を任された双葉がゆかりの前にやって来る。

  双葉の後を追い、少し歩を進めたゆかりはふと足を止め、温羅と鴉の方を振り向く。そして深々と頭を下げた。

「ありがとう。これから宜しくお願いします」

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