第4話 あやかしの森へ


 熱で倒れてから二日たち、ゆかりは全快して小屋で薬を調合していた。

 まったく、無意識というものは素晴らしい。宴のあった一昨日の夕方、目を覚まして起き上がってみるとなんと枕元に風邪薬と水差しを置いていた。何も思い出せないが恐らく熱で朦朧としながらも自分で用意して飲んで寝たのだろう。体に染み付いた薬師の力の偉大さに今でも驚きだ。

 ただ一つ気になることがある。記憶がぼんやりとしていてはっきりとはしないが、意識を失う前に誰かが側に居たような気がするのだ。足を滑らせた自分をその誰かが受け止め、布団まで運んで行ってくれたような……。

(まあこの小屋には私しか居なかったし、ただの記憶違い、よね?)

 土間に落ちて自分で立ち上がったのだ、そうとしか考えられない。しかしあの誰かが隣に居る安心感が妙に現実的だった。

 

 腕の温かさ。目にうつりこんだ赤━━。


(あの赤色、何処かで見たような気がするのだけど……)

 だが熱による幻などいつまでも気にかけていてはならない。それよりも重要な事があるのだ。

 一昨日ゆかりは夕方に目を覚ました。という事は宴を無断で欠席したのだ。あの、高慢な領主の宴を。

 一昨日は誰も咎めにこの小屋を訪れはしなかったのでもしかしたら自分が居なかった事など誰も気が付かなかったのかもしれない、そう願ってこの二日間潜むように過ごしていた。昔からどうも自分は影が薄いようなのであり得ない話ではない。

 しかし実は欠席がばれているとしたら……。

(まずい。絶対にまずい事になるわ)

 ゆかりが眉間に皺を寄せて渋い顔を作っていると鴉がぴょんぴょんとゆかりの側まで跳ねてきた。「安心しろ」と言われているように錯覚してしまう。

「ありがとう。一人ではないからこれでもまだ落ち着けられている方だわ」


 鴉に笑いかけた、その瞬間。


「━━紅い着物を着ないと」


 なんの前触れもなくそう思った。何故自分がそう思ったのか。そんな疑問すら浮かばず、胸にはただ焦りが募っていく。

「早く……早く紅い着物を着ないと」

「カァッ!」

  鴉が警戒するような声で鳴く。だが「早く、早く」と呟くゆかりの耳には届かない。

  前で結んでいた帯をさっとほどき、襦袢姿になり、箪笥の底を漁る。

「紅い着物……」

  取り出したのは少しくすんだ紅い着物。今まで着た事は一切ない。むしろどうしてだか『着てはいけない。捨ててもいけない』と感じていた物だ。しかし今は一刻も早くこれを身に纏わねばという逸る思いに支配されている。

  慣れた手つきで着物に着替え、次にいつも愛用している斜めがけの鞄を取り出す。大きめで頑丈な作りのそれに棚や床に置かれた薬や薬道具を入れていく。干した薬草や木の実、清潔な布、すり鉢に小さな鍋……。

  あるもの全ては入れず、最低限の物だけ入れて、あとは何枚かの着物を詰めていく。

  詰め終えた鞄を方に掛け、ようやくゆかりは我に返った。

  「……えぇっ!?」

 ゆかりが正気を取り戻したのが分かったのか鴉は鳴くのを止め、しかしゆかりを気遣うような視線で見やる。

 鴉と話してからそう時間は経っていないようだが、その少しの間に自分が何を思ってこのようにしたのか全く理解できない。

「私いったい何を━━」


「薬師! 薬師の娘! 今すぐに出てこい!!」

「っ!!」

 誰に問うでもない疑問を口にしたのと同時に、聞いた事のない男の怒声が戸を乱暴に叩く音と共に小屋の中に響いた。

 ついにこの時がきてしまった。やはり無断での欠席がばれていたのだ。

 驚きと恐れで動揺したが、いつものように被いをして土間へ降りた。

 鴉が心配するようにゆかりへ近寄ってきたので「小屋の奥にいて」と身振りで伝えてゆかりは戸を開こうとするが鴉はいつかのように行く手を阻んできた。

「鴉さん? お願いだから退いてちょうだい」

 小声で鴉に頼むが鴉を言う事を聞いてくれない。どうしようと悩んでいると外から「早くせぬか!」という声が聞こえてきた。

(もし鴉さんの事が表に出れば、私も鴉さんもただじゃすまないわ)

「ごめんなさい。鴉さん」

 そう言うとゆかりは床に放り出されていた着物を鴉にばさっとかけて複雑にその体へと絡ませた。そしてじたばたともがく鴉を土間の隅に隠して戸を開く。

 戸の外の様子もろくに見ず、ゆかりはすぐに地面へ膝と手をついて顔を伏せた。

「私が薬師でございます。宴の事は誠に申しわけ」

「よくわかっているようだな。何故私の宴を断りもなく休むような真似をした」

 ゆかりの謝罪を遮った怒りのこもった声は先程戸を叩いていた者とは違っていた。そして『私の宴』と言った。

(嘘でしょ!? なんで領主が直々に来るの!!)

 普通は側仕えの者に任せるはずだ。だが新領主はその傲慢さ故に、自らの手でゆかりを罰しに来たようだ。

「ま、誠に申し訳ございません。風邪で、寝込んでおりました」

 震える声でそう返すも領主は気に入らなかったらしい。

「風邪だと? 私の領主着任の宴なのだぞ!? 熱が出ようが死にかけようが、這ってでも来るのがお前達使用人の務めであろうが!」

 無茶を言うな。だがこうなる事が目に見えていた。どんなに理不尽な言い分であろうと噛み付いてはならない。自分のような身分の低い者は領主から見ればいくらでも替えのきく存在なのだから、謝っておくしかない。

「本当に、本当に申し訳ございません!!」

 いつも人からは無視されるか陰でこそこそと悪口を言われるかしかされてこなかったゆかりには、男の怒号など恐ろしくてしかたない。自分が真っ青な顔をしているのがよくわかる。

「面を上げろ、『顔なし』」

 その呼び名は領主の耳にも入っているのか。ゆかりが恐怖心を押さえて顔を上げると、そこには蔑んだ視線でゆかりを睨む三十路近くの男が立っていた。その後ろには側仕えなのだろう男達が三人控えていた。

(これが新たな領主……)

 先の領主の厳格さなど欠片もない、利己心の滲む顔かたち。親と似ていないにも程がある。

「それが噂の被いか。醜い顔を隠していると聞いたが」

 領主が唇を歪ませて吐き捨てるように言う。そんな表情も前の領主はしなかった。

「亡くなった祖父が、人前では顔を晒すなと申しておりましたので」

 尊敬していた前の領主との落差故に、ゆかりは徐々に平静を取り戻していった。

「邪魔だ。取れ」

「……それは」

「五月蝿い! お前が取らぬのならば……」

「嫌っ!」

 渋るゆかりの様子にさらに腹が立ったのか、領主は自ら被いの端を掴んできた。ゆかりは心の伴わない敬語も忘れて抵抗するも、被いは額に結んでいた紐ごと取り払われてしまった。

「あっ!」

「なっ!」

 視界が明るく開ける。被い無しに見る、祖父以外の初めての人間がこの男とは吐き気がする。嫌悪でしかめそうになる顔の筋肉をどうにか止めるゆかりとは真逆で、領主は目を見開き呆気にとられたような顔をしていた。

(? 何なの?)

 視線を滑らせると後ろに控えていた男達もゆかりを見て驚きの表情を作っている。

「…………なんと、美しいのだ」

「へ?」

 素での返答だったが領主はそんな事には気付かず、先程とは打って変わってにやけた笑みでゆかりを見つめる。

「薬師よ、立て。名は何というのだ」

 猫なで声に、ぞわりと体中に鳥肌が立った。

「ゆ、ゆかりと申します」

「ゆかり、ゆかりか。うむうむ良い名だな」

 領主は顎に手を添えて、立ち上がったゆかりの体を上から下までじっと眺める。その舐めるような視線は特に胸や腰の辺りに集中していた。そして何事か一人でぼそぼそと呟く。

(……なんか気持ち悪い)

 嫌な視線に身じろきしていると、領主はゆかりの手首を強く掴んだ。突然の事にゆかりが驚く暇もなく、領主は口を開く。

「ゆかりよ。お前を私の妾にしてやろう」

「は?」

 にやにやとした顔で館の方へゆかりを連れて行こうとする。一瞬腕を引かれるがゆかりはその場に踏みとどまった。

「……どういう事でしょうか?」

 『妾』という言葉は知っているが、それと自分が結び付かない。いや、結び付けまいとわざと頭が拒否しているのだ。しかし、それは厭らしく歪められた口から発せられた言葉によって無理矢理結び付かされる。

「おお。妾を知らんか。うぶな様がまた良い。まあ安心しろ」

 言葉を切り、領主は囁くように告げる。

「私が全て、手取り足取り、教えてやろう」

 そこでようやく正常に頭が回りだした。ようするにこのまま館へ連れて行かれると自分は━━。


「嫌……。い、嫌よっ! やめてっ! 放してぇ!!」

 後先考えず必死に手首の手を振りほどこうとする。しかし男の力に十八の小娘がかなう訳もなく、そのまま引っ張られて行く。

「放して! お願い放してっ!!」

「男をその身に受け入れた事のない娘は皆始めは怖がる。だが大丈夫だ。私が寝所で可愛がってやるからすぐによくなるだろう」

「そっそんな事っ!」

 涙ながらに叫ぶも領主は止まろうとはせず、周りにいた側仕えも無表情で二人について来るだけで主人を止めようとはしない。

 味方など誰一人もいない。抗う事もままならない。

 しかしそれでも抵抗せずにはいられない。涙の浮かぶ瞳を閉じて叫び続ける。


「━━嫌ぁぁ!!」


 バサバサッ!

「うわぁっ!?」

 何かが羽ばたく音がして、領主の驚く声と共に手首の力が弱まる。

 その隙に手を振り払い、目を開く。

「鴉さん!」

 小屋に押し込めてきたはずの鴉が領主の顔を、その鋭い爪で何度も何度も引っ掻いていた。

「何だこの鴉は! お前達、何とかしろ!」

 領主が叫ぶと、側仕えの男達がゆかりを押し退けて鴉へと手を伸ばす。しかし鴉の赤い瞳を見てすぐさまその手を引っ込めた。

「あ、あやかしだぁ!」

「領主様、その鴉はあやかしでございます!」

「なっ、何だと!?」

 あやかしと聞くと領主の声に恐怖の色が浮かんだ。やはり誰であろうとあやかしは恐れの対象なのだ。例えその人が領主という高い地位にいてもだ。

「はっ早く追い払ってくれぇ!!」

 金切り声を発する領主へ最後に一蹴り入れて鴉はゆかりの方へ飛んで来た。ゆかりの上を旋回してしきりにある一方へ向かって鳴く。

「あっちへ逃げろって事?」

 気絶した領主に駆け寄る側仕え達はゆかりと鴉の様子に気付かない。戸惑うゆかりに鴉は「早く!」と言うように鳴き続ける。

「……わかったわ」

 涙を袖で拭って、ゆかりは鴉の示す方向へ向かって走り出す。鴉は道案内をするかのようにゆかりの前を羽ばたく。ゆかり達がその場から離れて行くのが分かったのか後ろから男達が罵りながら追って来た。この辺りには誰も用がなければ来ないので、ゆかりを阻む者はいない。いつもは寂しいと思っていた人気のなさが今は助けになっている。

 鴉の後を追って走り続けると、館を取り囲む塀の前に出た。塀は高く、ゆかりではよじ登れそうにない。だが、塀の下の方に小さな穴があった。丁度ゆかりぐらいの人間が這って出られる程の大きさに崩れている。ゆかりは鴉を見て、緊迫する状況だというのに楽しげに笑ってみせる。

「いい場所知ってるのね」

「カアッ」

 ゆかりが塀の穴をくぐるのを見届けて鴉も塀を越える。すぐに塀の側まで側仕え達は追い付いたが彼らの体は大きく、穴から外へ出る事は叶わなかったようだ。舌打ちの音と共に門の方へ駆けて行く足音がした。

 鴉は再びゆかりを何処かへ導くように飛ぶのでゆかりもそれに続く。鴉は人気のない道を選んでいるようで誰ともすれ違う事はなかった。


 そして一人と一羽が辿り着いた先は暗い森の手前であった。

「あやかしの森……」

 今までこの目で見た事はなかったが、噂に聞くおどろおどろしさだ。すぐにここが例の森なのだと理解できた。

 ゆかりが躊躇って足を止めたのが分かったのか、鴉も森から伸びる枝に止まる。

 恐らく鴉はこの森の中へ逃げろと言いたいのだろう。しかしゆかりは人間だ。一歩でも森へ踏み入れればたちまちあやかしに食べられるかもしれない。

(怖い……。でも捕まってしまったら……)

 あやかしと逃げ出そうとした娘など、同じくあやかしかと疑われ殺されるだろう。例え死を免れたとしても妾として領主に囲われるかもしれない。

 それに、他の誰よりもこの鴉の事が一番信じられる。一緒に生活して、あやかしとは噂通りのものではないと分かった。

 覚悟を決めて森へ一歩入る。

  …………。

  何も起こらない。

「鴉さん、あなたを信じる」

 ゆかりはざっざっ草木をかき分けて、森の中へと歩み進めた。鴉もそれに続き、木々を避けつつ飛んで行く。


 そしてゆかりは暗い暗い森へ飲み込まれていった。

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