第3話 馴れ親しんだ赤
これはまだ鴉と出会う前の事。
三ヶ月前のある日、ゆかりはいつものように被いをして領主の寝室にいた。
当然ながら色っぽい用事ではなく、お務めの最中にいきなり倒れた領主を薬師として診察する為である。祖父から少し教わっていたので一応医者の真似事程度の事ならできる。隣村の医者が来るまでの間に合わせだ。
この領主家は、先代の領主が苦労して公の事業を成功させた為、現在はここいらで一番の大金持ちの一族なのだという。
現領主、ようするに今ゆかりの目の前で苦し気な表情で眠っている初老と呼ばれる歳を少し過ぎたぐらいの男は、血の滲むような努力をして領主家を栄えさせた父親の姿を見て育ったので、父の作り上げた家を維持させようと真面目に仕事に取り組んでいた。それこそ使用人達が仕事病だと心配する程に。
今回倒れたのも過労と歳のせいだ。それが診察を終えたゆかりの答えである。ゆかりの見立てでは領主の最期の時はそう遠くない。おそらくもって━━。
「薬師の娘よ」
しわがれた声が静かな部屋に響き、ゆかりの背は自然と伸ばされた。歳をとろうが倒れようが弱まる事を知らない厳格さをはらんだ声音。
「はい、ここに。何でございましょう」
突然目を覚ました領主に驚いたのか周りの使用人達がざわめき始めた。その話し声には安堵の色があった。しかし領主の次の言葉はそんな使用人達の安堵を打ち砕くものだった。
「わしはあとどれ程生きていられるのだ」
「!」
この人はわかっているのか、自らの今の状態を。もう先が長くはない事を。
「…………」
「薬師、答えよ」
「……長くて、一月程かと」
「っ!? この小娘め、適当な事をぬかしおって!」
使用人達がゆかりの絶望視する言葉に色めき立つ。信じられない、信じたくないと言わんばかりにゆかりを責め立てる。領主はそんな使用人達が鬱陶しいとばかりに顔をしかめた。
「やめんか、五月蝿い」
領主の咎めにより周囲は再び水を打ったように静まり返った。領主はゆかりの目を力強い眼差しでじっと見つめる。ゆかりも緊張で体を強張らせつつも領主を見返す。
「わしはおまえの見立てを信じる。おまえの爺は本当に良い腕を持つ薬師であった。あの爺が後継ぎと認めた孫娘を信用しない訳がなかろう」
「……ありがとうございます。祖父も喜んでいることでしょう」
この領主は昔から厳しく、誰よりも公平だった。歳も貴賤も関係なく平等に人々を見つめ、どんなに地位が低くとも功績を残した者を褒め称え、褒美を与えた。そんな領主の事を最初ゆかりは怖がっていたが、いつの間にかその気骨の有り様に尊敬の念を抱くようになっていた。
そして領主はその後きっかり一月後に帰らぬ人となった。
領主が亡くなってから二月後の喪が明けた今日、新しい領主の領主着任の宴が開かれる。
新しい領主は亡くなった先代の一人息子だ。
この息子は昔からどうしようもない男で、先代と先々代が苦心して貯めた金を湯水の如く道楽につぎ込んでいた。中でも女遊びが特に派手で、何人もの妾を金の力で侍らせている。
ゆかりはこの男が治める領地に、未来などないのではと考えていた。
恐らく今日の宴にも領主好みの美しい踊り子達を何人も呼び寄せているのだろう。
宴には館の使用人達全員の参加が義務付けられており、当然ゆかりも出席せねばならない。
だというのに━━。
「頭が痛い……」
熱で上気した顔でゆかりは呻くようにそう呟いた。
頭痛、咳、寒気に倦怠感、多分熱もあるだろう。典型的な風邪である。薬師として立つ瀬がない。
足に力が入らず、立つのもやっとというところだがそれでも宴には出なければならない。外をあまり出歩かないゆかりにとって新たな領主は使用人達の会話の中のみの人間ではあるがその傲慢さは聞き及んでいる。きっと出席しなければ何らかのお咎めが下されるはずだ。
とにかく顔を出す程度には参加しておかないと、とふらつく体を懸命に壁についた手で支え、戸へとたどり着く為に土間へと下りようとする。しかしそのゆかりの進行を阻むように目の前を飛ぶものがいた。鴉である。
「カア! カアカア!!」
鴉の鳴き声はまるでゆかりの事を苛んでいるようだった。そんな鴉にゆかりは弱々しい笑顔を見せた。
「大丈夫……よ。ちょっと出てくるだけだから。宴を休む方が……面倒な事に、なるの」
「カア!」
ゆかりが無理をしているのがわかっているのだろう。忠言のような鳴き方をやめようとはしない。
心配されている。こんな風に自分を思ってくれるなんて祖父以外に初めてで嬉しい。しかしそれとこれとは話が別だ。
この小屋の他に住む場所などないゆかりにとって宴の出席については死活問題なのだ。行く手を遮る鴉を半ば強引にかわして足を踏み出す。
「……心配して、くれてるのね、ありがとう。でも、行かなっ━━!」
行かないと、という言葉は続かなかった。
踏み出した足が着物の裾に絡まったのだ。体の均衡を崩したゆかりはそのまま頭から土間へ落ちて行く。
(っ! 倒れる……!)
受け身をとることもままならず、訪れるであろう衝撃に身を固くし目も思わず瞑る。
しかしゆかりが感じたのは痛みと土間の冷たさではなく、力強くゆかりを包み込む誰かの腕の温かさだった。
(誰?)
ゆっくりと目を開くが、ついに意識まで熱におかされたのか目の前が霞んでぼんやりとしか見えない。
うつりこんだのは、馴れ親しんだ赤。
「だ、れ?」
掠れる問いかけにその誰かは小さく笑った。
「……さて、誰でしょうね。こんな
低くて柔らかな青年の声。聞いた事のないその声はいたずらに答えをはぐらかしてしまった。
謎の人物は軽々とゆかりを布団まで運び、そっとその場へ下ろして布団に入れる。その瞬間、反射的に眠気が襲ってきた。お布団の力とはこうも恐ろしいのか。
ゆかりが重たい目蓋を何度も開閉していたからか、謎の人物はゆかりが睡魔と戦っている事を察したようで、くすりと小さな笑い声をもらした。声の大きさ、方向からして、枕のすぐ横に座っているらしい。優しい手付きがゆかりの黒髪をすいていく。
「これから貴女に何があっても俺が側で守りますから、安心してぐっすりと眠って下さい」
その言葉に最後の抵抗の糸が切れ、ゆるゆると目を閉じる。
(そっか……。一人ぼっちじゃないのね…………。)
誰かが隣にいてくれる安らぎの中でゆかりは口元に微笑みを浮かべて眠りについた。
意識を手放す直前に柔らかいものが額に触れた。そんな気がした。
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