第17話 甥と伯母と、引っ越し

 沼の主である水龍、グアルディオラがここビジャ湖に帰って来てから一夜が明けた。

 ウルバーノは昨夜、結界を張り直した後で家に帰って行った。これでこの家に頻繁にやって来る用事もなくなるのかと思うと少し寂しかったが、喧嘩別れのようにならずに済んで良かったと思う。

 翌日、少し遅めに目を覚まし、ゆっくりと朝御飯を食べながら、今後の事を考えた。

 エンリケの策略により、沼に化け物が出現し、破壊の限りを尽くしていったので、私が作った水車やスライムの溜め池も壊されてしまった。スライムを使った下水処理システムを商品化するのはだいぶ難しくなったと言わざるを得ない。時間をかければ出来なくはないだろうが、なんの実績もないノウハウに金を出すほど地方行政の財布の紐は緩くない。

 それでなくても、父の起こしたこのビジャ湖の汚染事件は各地に知れ渡っており、どこの領主もスライムを使った事業を警戒しているのだ。

 私の作ったヘドロを食べるスライム達を安価で売り出す事も考えたが、彼らは危険な魔物としての本分を手放す代わりに小さく、弱くなった。水槽に二三匹飼っていても、何の役にも立たない。魔物を自然の生き物に近い存在にするというのは実は難しいのだ。逆(合成獣の作成などはこれにあたる)は昔からよくやられている事なので、さほど難しくはない。だが、どんなに高度な品種改良であっても役に立たなければ意味がない。


 結構、元手もかかってるんだけどな。


 魔法生物の品種改良を行うには役所への申請と許可が要る。

 環境への悪影響を懸念してというのはもちろんの事、一歩間違えば在来生物の絶滅を招く事もあるからだ。父の例は極端であるとしても、危険な行為である事は間違いない。

 どんな生物を何のために作るのか、どの場所で品種改良を行うのか、誰が行うのか、責任者は誰か、などを明確にした上で申請を行い、審議に通った上で、実際に許可を貰うにはそれ相応の金額を行政に支払わなければならない。

 水龍グアルディオラのような名のある主の居る場所というのはある意味、治外法権が適応されるので比較的許可が降りやすい。

 しかし、支払額までは負けてもらえない。

 父がスライムを作る時にも、私がそのスライムを改良した時にも、実はこの手順を踏んでいるのだ。

 手痛い出費ではあったが、無許可で品種改良をした場合に、危険な魔生物が発生でもしたら大変な事になる。魔法機械工の免許剥奪で済めばまだしも、下手をすると実刑が下る。

 許可さえ取っていれば厳重な警告で済み、さらに危険魔生物に指定される事でこれ以上被害が拡大するのを防ぐために行政側に便宜を図ってもらえる。危険な魔生物を作り出した前科のある私が、次回、申請した場合に許可が降りにくくなるのは、致し方ない事だろう。

 品種改良の過程で新たに意図しない魔生物が発生し、さらにそれが繁殖した場合にはさらに追加で課金が発生する。その生物で何か実験を行おうとするなら、さらに。


 結局出費ばかりで収入はなし、か。

 どうしたらいいんだろう。


 エンリケの事だから、自分の呪いによって生まれた化け物がウルバーノに倒された事はもうすでに知っているに違いない。もたもたしていたら、次は一体どんな邪魔を仕掛けてくるのやら、考えるだけで鬱になる。

 何かヒントはないかと思い、麺麭を片手にスライムに関する最近の論文を開いた。

「ドロテア! 居る? 邪魔するわよ」

 その時、玄関からダフネの声がした。

「……? はーい、今!」

 扉を開けるとダフネだけでなく獣型のウルバーノも決まり悪そうに軒先に立っていた。なぜか大荷物を背負っている。

「……よう」

「どうしたんですか?」

「ごめんね、ドロテア、朝早くに」

「何か忘れ物ですか?」

 私の問いかけにウルバーノは何も言わずにそっぽを向いた。無言でダフネを小突く。

「痛っ! もう、この馬鹿力! 分かってるわよ!」

 

 なんだか、反抗期の息子とその母親のみたいだなあ。

 ウルバーノさんも叔母さんの前ではこんな感じか。


 呑気に眺めていると、ダフネが心底申し訳なさそうに切り出した。

「ドロテア、今日はあなたにお願いがあって来たの。今、大丈夫?」

「は、はい。あ、どうぞ入って下さい。食事中でテーブルが散らかってますけど」

「お、美味そうだな、俺もいいか?」

 私の家に入るなりさっと人型に変化して、目を輝かせるウルバーノだ。

 そんなウルバーノにダフネが目を吊り上げる。

「あんたまた上半身裸で! 人型の時は服を着なさいって前に言ったじゃないの! ちょっと、ウルバーノ! 意地汚いわよ! やめなさい!」

 そんなダフネを無視して、ウルバーノはいそいそと食卓へ駆け寄る。

 私は苦笑して言った。

「いいんですよ。ダフネさんも良かったらどうぞ。今日は梅のジャムがありますよ。ダフネさん好きですよね?」

「そ、そう? 悪いわね」

「な、お前、人の事叱っといて食うのかよ!?」

 聞きつけたウルバーノが怒りの声を上げる。

「伯母様に向って『お前』はやめなさい『お前』は!」

 対するダフネも怒声を返す。

「まあまあまあ」

 結局食べながら話し合う事になった。

「で、どうしたんです?」

「助かったわあ、この馬鹿が朝早くに人を叩き起こすから、朝御飯まだだったのよ」

「いいから、さっさと話しを進めろ!」

「うるさいわね、あんただってさっきから人の十倍は食べてるじゃないの! それが人に物を頼む態度!? 私は正直どっちだっていいのよ!?」

「あ、馬鹿、言うな!」

 ウルバーノが絞め殺す勢いでダフネの口を塞ぐ。


 仲良いなあ。


「そういえば、何か頼みたい事があるとか。いいですよ! 私で出来る事ならなんでも!」

 ウルバーノにもダフネにも一朝一夕では返せない恩がある。


 お金以外の事なら、なんでもします!


 勢い込んで促すと、ダフネがようやく話し始めた。

「昨日、私が住民達を沼から町へ連れて帰ったじゃない?」

「そう、お礼に伺おうと思っていたんです。ありがとうございました」

 笑顔で頭を下げる私に、ダフネは気まずそうに打ち明けた。

「その時にね……」

 住民達は突然現れて自分達を救い出した獣人について組合所長であるダフネを質問攻めにしたらしい。

「あれは一体誰だ、だの、俺達の救世主、英雄だ、だのあんまり言われたから叔母として嬉しくなっちゃって。ほら、この子、態度が悪いでしょ? 仕事が出来てもあんまり褒めてもらった事ってないのよ。全く、氏も育ちもいいはずなのに、なんでかしら。そういうとこは母親のペネロペにそっくりね!」

「いや、なんでって、まさに親と生い立ちのせいだろ!」

「それで、どうしたんです?」

 住民達がウルバーノに良い印象を持ったのなら喜ばしい事だ。何の問題もない気がする。

「で、ちょっと調子に乗っちゃったのよ……」

 ウルバーノを讃える住民達を前にダフネは得意げに言ったのだそうだ。


 あれが、うちの組合の秘蔵っ子のウルバーノ・ベラスケスだ。人嫌いの狂犬だなどと言われているが、あの噂は真っ赤な嘘で、彼は傭兵の中の傭兵、誇り高きSランク傭兵だ、と。

 すると住民のうちの一人に、私達は彼に大変失礼な事をした、どうしたら償えるのか、何かお礼がしたいのだが、と尋ねられた。

 ダフネはそれに対して、うちの組合事務所の二階に住んでいるから、いつでも来い、と答えてしまったのだそうだ。


「俺が、昨日家に帰ったら人だかりで入れねえんだよ。ったく、この婆あが余計な事言ってくれるからよ」

「婆あですって! あんた言っていい事と悪い事があるわよ」

「ああ? 何度でも言ってやるよ! この糞婆あ!」

「もとはと言えばあんたの日頃の態度が悪過ぎるからでしょうが! それに余計な事って何よ! 昨日はそんなに怒ってなかったじゃない! ていうかむしろちょっと嬉しそうだったくせに! 途中からなんだかにやにやして気持ち悪いったら!」

「ってめえ、調子に乗りやがって……っ!」

「ちょっとちょっとちょっと!」

 テーブル越しに掴み合いの喧嘩でも始めそうな様子の二人に慌てた。ウルバーノを押さえて止める。皿と机と、下手すると家が壊れる。

「ちっ、ドロテアに感謝するんだな」

「こっちの台詞よ、この糞餓鬼!」

 上品なダフネの口から出たとは思えない台詞にぎょっとする。

「全く、口から先に生まれてきたようなあんたが、どうして肝心な時になると何にも喋れなくなっちゃうのかしらね!?」

「てめえ! それ以上言ったら脳天かち割るぞ!」

 真っ赤になって叫ぶウルバーノにはいつもの凄味は全くない。

「ああ、話が進まないわ! ドロテア、ごめんなさい」

「いいえ、で、結局なんなんです?」

 さっぱり話が見えない。これに答えたのはウルバーノだった。

「つまりな、俺の唯一の安心して人型を晒せる隠れ家だった事務所の二階はこの糞婆あのせいで、うるせえ住民どもに囲まれちまって、とてもじゃねえけどゆっくり休める場所じゃなくなっちまったんだよ」

「私は不動産屋に行けば? って言ったのよ」

 ダフネが意地悪く笑いながら口を挟む。

「無茶言うんじゃねえよ! あの住民団体の中に不動産屋が何人居たと思ってんだ!」

 確かにそうだ。ヘドロの悪臭で一番迷惑を被ったのは不動産関係者だろう。

「いいじゃない、きっといい物件貸してくれるわよ?」

「英雄のSランク傭兵様にはお安くしときますよってか? 冗談じゃねえよ。どんな恩着せがましい事言ってくるか分かりゃしねえ!」

 唾でも吐き掛けそうな表情でウルバーノが言い捨てる。とんだ人間不信発言だ。いろいろと苦労しているのかもしれない。

「で、ウルバーノ坊やが言うにはね。ドロテアの家に住みたいって事らしいわよ」

 世話が焼けるわよね、一人で来ればいいのに、ダフネが笑う。


 ……


「はい?」

 今、なんと言ったのだろう。

「ダフネさん、ちょっと意味が分からなかったんですが」

「だから、あなたならウルバーノの人型も見ているし、ここにやって来る人は少ないし好都合だって、それに今まで、半分ここに住んでいるようなものだったじゃない」

 簡単に言うダフネだが、食事を摂り風呂に入るのと、寝泊りするのは大違いだと思う。しかも、今までだって仕事の便宜上、仕方なく、だ。

「いやいやいやいや、いやいやいやいや!」

 勢いよく首を振って否定した。

「嫌なのか……?」

 今まで丁々発止の遣り取りをしていたのが嘘のような、沈んだ様子のウルバーノだ。耳があればしょんぼりと下がっていそうだ。残念ながら今の彼には耳がないが。

 何も分かっていなそうな表情に思わず怒鳴ってしまった。

「そういう意味じゃなくてですね! 一応私、女ですし!」


 うん、たぶん忘れられている。分かってたけど!


「か、勘違いすんなよ! ここならどうせ結界も俺が張ったもんだし、えっと、そうだ、勝手が分かって楽なんだよ!」


 勘違いって何?


 いやそれよりも、ここが楽だなどと、とんでもない話である。市場からは遠く周りには何もない。非常に不便だ。出来る事なら私が組合事務所の二階にウルバーノのかわりに住みたい。

 しかし、確かにここはウルバーノのように秘密を持った人間が生活するには確かに持って来いの立地だ。周りは深い森に囲まれ、敷地も広く、めったに他人が足を踏み入れる事はない。

「ねえ、ドロテア、私からもお願い。この馬鹿、お前のせいだってうるさくってしょうがないわ!」

「で、でも……」

 渋る私にダフネが畳みかける。

「それでなくても最近は一丁前に食事にも文句つけるようになってきて、むかついてたのよ。っとに、なんなの!? 大喰らいのあんたがお腹いっぱいになるような食事ってだけで凄く大変なのよ! 食事の内容に文句言うんじゃないわよ! だいたい事務所の賄いなんだから職員と一緒に食べればいいのに、この子ったら食事だけ受け取って一人で部屋で食べるのよ? 人型で食事する方が楽だってのは知ってるけど、感じ悪いじゃないの! 事務所の人達の身にもなりなさいよ! あんたがたまに帰って来るとみんなびくびくしてさ! ちょっとは打ち解ける努力をなさい!」

 途中から完全にウルバーノへの文句になっている。


 え、食事に文句とかつけられるの!?

 しかも、食事が一人って事はやっぱりあんまり人と関わるのが基本的に好きじゃないんだ、きっと。


 顔を引き攣らせる私に気が付かず、ダフネはさらに熱く言い募る。だいぶ溜まっていたようだ。

「今まで連絡も寄越さなかったくせに、ふらっとやってきて、金は出すから事務所の二階貸せとかずうずうしいのよ! こっちがどれだけ心配したと思ってんの! 帰ってきたらSランク傭兵になってるわ、怖い人達に睨まれてるわ、しかも、部屋を貸したはいいけど、ほとんど仕事で飛び回って帰って来ないし! たまに仕事から帰るとだいたい血塗れだし! 全くペネロペに連絡くらいしなさいよね!」

「ああ、もう、うるせえなあ! 悪いと思ってるっつーの! こっちにもいろいろあるんだよ!」

 ウルバーノに遮られてようやくダフネは完全に置いてけぼりにされている私に気が付いた。

「あ、ああ! ごめんね、ドロテア、要はあなた上手くやってるわって事!」

 ダフネはにっこりと美しく微笑む。気を抜くと騙されそうな笑顔だ。


 そうはいくもんか!


「む、無理です無理です。そんなにいいご飯は作れません! それでなくても今、家計が苦しくて……」

「馬鹿にすんな。食費と家賃は出すぜ」

「そうよ、いっぱい貢がせなさい。どうせ余ってんだから」

「でも……」

「そ、それに……なっ、お前の飯は、う、美味いからな」

 ウルバーノが目を逸らしながら小さな声で何か言うが聞き取れない。


 うーん、この声の低さは人型になっても変わらないんだな。

 相変わらず、ぐるぐる言ってるようにしか聞こえない時がある。


 低くて小さい声は聞き取りずらい。

「だ、だからよ、頼む」

 これは聞こえた。見ると大きなウルバーノが小さく背中を丸めて俯いている。

「……っ」

 縋る様に私の荒れた手を大きな両手で包みこむ。

「頼む、何でもするってさっき言ったじゃねえか」


 困った……。


「そう言われましても……」

 さっきのあれは本音だ。彼にしてもらった事は数えきれない。嫌な仕事を手伝ってくれた。命を助けてもらった。その他にも、たくさん。

 あんなに大きな上物の魔石を結局駄目にしてしまったのに、彼はその事について何も言ってこない。

 それどころか、私の家の結界を強くするためにもう一つ魔石を獲ってくるなどと言い出す始末だ。


 その彼がプライドを捨てて頼んでいる事を無下に断るなんて……


 大きな彼は今は屈んで小さくなっており、私の目の前には銀色の頭がある。

 幸い(と言っていいのか微妙だけれど)彼は私を女として全く意識していないようだ。

 それなのに私が一方的にそんな事(男女が一つ屋根の下ってどうなの)に拘って恩人の頼みをすげなく断るのは何か違う気がする。

 昨夜の事を思い出す。

 分不相応にも彼に憧れていた自分が心底恥ずかしくなり、気持ちを捨てる決意をしたばかりだ。気持ちを捨てたのなら、同居ぐらい出来るはず。


 割り切れ、私!


「分かりました。いいでしょう」


「本当か!」

「やったじゃない、良かったわね、ウルバーノ!」

「ああ! 助かった。ドロテア、よろしく頼むぜ! さて、そうと決まりゃ引っ越しだな。これ、ここに置いてもいいか?」

「え?」

「俺の荷物、これで全部だ。持って来た」

「え? 少なっ……って持って来た!? 住む気満々じゃ……ちょっ、そっちは」

「お前の部屋、どこだ? 二階は入った事ねえんだよな。上がるぞ」

 ウルバーノは背負っていた荷物を床に降ろすと、我が物顔で我が家を探検し始める。

「待って! 片付けてからに……」

 二階には一部屋しかない。屋根裏部屋のような私の寝室だ。半分物置になっているので、恥ずかしかった。


 そういえば私、洗濯物置きっぱなしじゃない!?

 洗濯物っていうか、下着……

 ……待て待て待て待て!


 屈んで天井の桟を避け、階段を上るウルバーノを焦って追いかける。


 もしかして、騙された?


 掌を返したような態度のウルバーノとダフネに、やはり早まったかもしれないと不安になった。ウルバーノについて二階に上がったダフネが私を呼ぶ。

「ドロテア! 早く来ないと箪笥の中まで漁られるわよ! ちょっとウルバーノ、それはさすがに嗅いじゃ駄目!」

 しかし、不安になっている暇もないようだ。


 な!? 何を嗅いだの!?

 やめて!


 もしかしてヘドロの臭いのチェックだろうか。ウルバーノに結界を強化して貰った上、沼の浄化が進みほとんど臭いがしなくなったはずだが、やはり外から来ると気になるのだろうか。


 うう……なら、違うとこに住めばいいじゃんか。酷い。


 早速、めげそうになる私を余所にウルバーノはダフネを横目で睨む。どうでもいいが、ウルバーノの頭が天井に付きそうだ。

「おい、お前いつまで居る気だよ、帰れよ、あんまり事務所空けたらまずいんじゃねえの?」

「まあ、途端にこれだもの! 誰のおかげだと思ってるの、この子は!?」

「少なくともお前じゃねえな」

「なんですって!? それに何度言ったら分かるの『お前』はやめなさい!」

 放って置くといつまでも口喧嘩が続きそうな様子だ。ダフネには申し訳ないが、確かに帰って貰った方が良さそうだ。

「ダフネさん、後は私やりますから。また、事務所に顔出しますね」

「そうね! お邪魔だったわね! 帰るわ。こいつがおいたでもしたら叩き出していいからね」

 不機嫌かと思ったら、気持ち悪いぐらいの笑顔で返された。


 え、その笑顔はなんなの? ダフネさん?


「うるせえ、余計な事言うんじゃねえよ!」

「はいはい! それじゃね」

「また、今度!」

 玄関先でダフネを送り出し、ふうっと一息吐く。ウルバーノが目の前に立っている。

「なんだ……よ?」

 あんなに帰れと言っていたのに、ダフネが居なくなると急に所在なさげにしているのがなんだか可笑しい。

「えへへへへ」

 たぶん、私は今、とてもだらしない顔をしていると思う。


 だって、嬉しい。

 

 父が死んで、この沼地に籠ってからの数年間はほとんど人と話さない日々を過ごしていた。沼地や家での作業は独りきり、買い物に行っても町の人とは世間話など出来ない。

 ダフネやラミラとたまに話すとは言っても、それでも週に一回がせいぜいだ。彼女達は忙しい。一日が一言も喋らずに終わるなんてざらだった。

 ウルバーノが来てからは当たり前のように毎日人と会話していた。

 それが、もう終わってしまうのだとウルバーノが帰ってからようやく気が付いて、なんだか堪らない気持ちになった。

 どれだけ私は人との関わりに飢えていたのだろう。

 私としてはいろいろと情緒的な問題のある同居だが、ウルバーノとこれからも毎日会話が出来るなんて幸せだ。


 これからは、おはよう、も、頂きます、も、ただいま、も独りじゃない。


「狭いところですが、よろしくお願いします」

「お、おお」

「ところで、今日ウルバーノさんが寝るところなんですが、生憎、うちにはベッドが一つしかないんです。父のがあったんですが古くなって捨ててしまって」

 死の床となったベッドだ。見ているのが辛くて、捨てた。

「どう、するんだ……?」

 銀色の目が何かを期待するようにこちらを見ている。


 なんだ?


 何を期待しているのかよく分からないが、こうするしかない。

「私のベッドで寝て下さい。あまり気持ちの良いものではないでしょうか……」

「いいのか!?」

 ウルバーノがびっくりするような大声で言うので驚いた。

「え、ええ。ウルバーノさんさえ嫌じゃなければ」

「な、ほ、ほんとか? 後で嫌って言っても聞かねえからな?」

 何をそんなに力んでいるのだろう。


 嫌なのは、ウルバーノさんの方じゃないの。さっき、臭いまでチェックしてたくせに。


「はい。私は居間の長椅子で寝ます。暖かい時期ですし、大丈夫でしょう」

 笑って言うと、ウルバーノは固まった。

「そ、そうか……、そうだよな、はは」

 何やら憔悴した気配のウルバーノだが、とりあえず、今は目の前の事を片付けたかった。やる事は山ほどある。

「さて、荷物の整理しちゃいますよ。ウルバーノさんの部屋を作りましょう。一階の空き部屋は大きく作ってあるから、ウルバーノさんには良いんじゃないかな」

「俺も二階がいい……」

「何言ってるんですか、さっき見たでしょ? 二階は天井が低くて、ウルバーノさん窮屈に感じますよ。寝ぼけて頭でも打ったらどうするんです? 今日は仕方ないですけど」

「そっちかよ! ……つか、それなら俺が長椅子で寝る」

「悪いですよ」

「悪かねえよ。こっちが押しかけてんだから。第一お前のベッドじゃ足が出るだろ」

「そっか、確かに」

「……そこは素直か!」

 ウルバーノは不満げに唸った。人型なのにぐるぐるという声が聞こえてきそうだ。一体何が気に喰わないというのか。

 どうやらあまり人と関わるのが好きでなさそうなウルバーノのために、私室を用意してやろうというのに。

「そうだ、掃除もしなくちゃ、ウルバーノさん、手伝って下さい」

 ウルバーノはやがて諦めたように溜息を吐くと、私に手渡されたハタキで怠そうに自らの肩を叩きながら、私の後に付いて来た。

「初日からそんな美味しい話があるわけねえよな……」

「え? なんですか?」

「なんでもねえよ!」


 さて、引っ越しだ!


 腕まくりする私を見てウルバーノはもう一度溜息を吐いた。

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