第12話 ドロテアの決断
ラミラが次の仕事のために朝早くこの沼地を立ち去ってから数日は何事もなく過ぎて行った。
浄化施設の周りをぐるりとくまなく監視出来るようにしてビラを印刷し、準備万端の体制で身構えていたのだが拍子抜けだ。
まあ、良く考えてみれば住民グループもこちらの予定に合わせて動くわけではないのだ。いろいろと準備もあるのかもしれない。湖の畔にピクニック出掛ける時のように。そこまで考えて、実はこの事態とんだ茶番なんじゃないかと思えてきて、なんだか急に可笑しくなった。
住民達がやって来なければする事はいつもと変わらない。私とウルバーノは沼地で水車の修理に明け暮れていた。ウルバーノは相変わらず良く食べ、よく怒鳴り、よく働いてくれた。その甲斐あってか、昨日ついに水車の試運転に漕ぎ着けた。ぎしぎしと不穏な音を立てる個所がいくつか見つかったが、この分だと明日からは本格的に水車を動かせるだろう。ようやく、あのスライムへの餌やり、という重労働から解放されるわけだ。
昨日は二人でささやかながら祝杯を挙げた。
父が酒に溺れる様を見ていたせいか、私はあまり酒が得意ではない。飲み付けないはずなのに、この時ばかりはなぜかとても美味しく感じた。
困ったな、父のように酒乱になったらどうしよう、心配する私にウルバーノは、なってもいいじゃねえか、面白そうだと言った。身体壊しそうになったら俺が止めてやるよ、と牙だらけの口で陽気に笑った。
私はそれに頼もしいですね、ぜひお願いしますと答えた。本気でウルバーノに止められたら、骨の二、三本は折られそうな気もするが、私もなんだかその時はそれも良い気がしたのだ。ウルバーノさんが居てくれたら安心ですね、と。
少し、酔っていたのだろう。
分かっているのだ。お酒が美味しいのも、なんだか楽しい気がするのも、全て目の前の狼のせいだという事は。
ラミラは去り際に言った。
「ウルバーノさんくれぐれもドロテアをよろしくお願いします」
「任せろ」
ウルバーノはなぜか重々しく頷く。
「気付いているかもしれませんが、あの沼には……」
「ああ」
「ふふ、なら大丈夫ですね」
ラミラは安心したように微笑んだ後で私に向き直る。
「ドロテア、お願いね。自分の身の安全を第一に考えて。ドロテアがウルバーノさんに遠慮しているのは何となく分かる。だけど、あなたにもしもの事があったら……私泣くわ。ウルバーノさんだってきっとそう」
そうだろうか。
いや、そうなのだろう。ウルバーノは優しい。
今だって……
「おい、どうしたんだ? 具合でも悪ぃのか?」
防護服のガラス越しに金色の瞳が見えた。ウルバーノが気遣わしげに私を覗き込んでいる。ぼんやりと考え事をしているうちに彼は結界の術式を組み終えていたようだ。
沼の畔に座り込んで汚れた水面を眺めていた私ははっと我に返った。
「すみません、何でもないです。大丈夫」
「おい、しっかりしろよ、待ちに待った結界だぜ? 何ならテープカットでもすっか?」
「あはは、いいですね、それ」
霧深い沼に私の笑い声がどこか虚しく響く。
今日はいよいよ待ちに待った蓄力機の初稼働だ。
「じゃ、頼む」
「はい」
そっと防護柵の傍に蓄力機を置き、螺子で固定した。静かに魔石が光り始め、蓄力機の起動を知らせる。
「どうだ?」
「まだ、安定していません」
私は目盛を確認し告げた。
「悪い、結構いろいろ機能を盛っちまったから燃費が悪いかもしれねえ。しかもこの畜力機で水車も動かすんだろ?」
「そのつもりです」
「大丈夫かよ」
「あ、安定してきた……でも、うん、大丈夫みたいです。確かにちょっと魔力が赤字気味だけど、もともとこの魔石に凄い量の魔力が溜められているから、水車の分を引いて、ざっと計算しても……十年はもちますね」
蓄力機は自然界に微量に存在する魔力を吸い取ってそれを魔石に蓄積し、必要な分だけを放出する機械だ。結界が高度であればあるほど消費する魔力もまた大きい。蓄力機を使用する場合にはその場の魔力量の多寡が結界の性能の律速段階となる。
自然界に存在する魔力と瘴気は似て非なるもので、その存在量は反比例すると言われている。つまり、瘴気の濃いこの沼地では町に比べて魔力の量は少ないという事だ。さらにウルバーノの組んだ結界の術式はかなり高度なものだったので、魔力が足りないのではないかと彼は心配していたのだが、杞憂だったようだ。ウルバーノが貸してくれたこの特大の魔石には途方もない量の魔力が蓄積されていたので助かった。
「そうか、まあ、十年もちゃ充分だろ。蓄力機の寿命だってそんなに長くねえからな」
満足そうに言うウルバーノだ。
「そうですね。それに、これから瘴気が減るかもしれませんし、そしたら、この沼地の魔力量も増えるだろうし」
「かもしれない、じゃなくて減らすんだろ?」
「はい。なるべく早く結界が必要ないくらいに沼を綺麗にして、蓄力機をウルバーノさんに渡せるようにしますね。魔石の魔力も戻してから返します」
「まあ、それはよ、気にすんな」
愛想がないのにどこか励ますような響きに胸が痛くなる。
この声、好きだったな。
この低く掠れた声を、これからもずっと、私は思い出すのだろう。そっぽを向いて、ぽりぽりと首を掻いている黒い狼を目に焼き付けようと思った。出会った頃は、乱暴な口調や態度に騙されて分からなかったが、どうやらこの仕草はウルバーノが照れている時のものらしい。
最近ようやく分かってきた。
「それよりよ、せっかく結界を張ったんだから、もう沼に浸かってない時に防護服は要らねんだぜ?」
「あ、はい」
促されて防護服を脱ぐと、ウルバーノが少し眩しそうに私を見ていた。
眩しいのは私の方です、ウルバーノさん。
輝く朝日のような金色は、私の希望そのものだった。忘れていた楽しい事、嬉しい事をいつくも思い出させてくれた。ウルバーノが来てからは毎日がきらきらと輝いていた。陰気で臭くて見ただけで気が滅入るようなヘドロの沼に居ても。
生きているってこういう事か、と思えた。
「この沼でお前の顔見たの、初めてかもな」
「そういえば、そうですね」
ちゃんと表情を作れているかな。
防護服を脱ぐと急に無防備になってしまった気がする。気を落ち着かせようと息を吸い込んだ。
泣くな。
……泣くな!
「じゃ、水車の修理の続きをやっちまおうぜ。午前中に終わらせてちょっと休もうや」
すたすたと水車に向って歩き出すウルバーノを腹に力を込めて呼び止めた。
「ウルバーノさん!」
「……? なんだよ」
「今までありがとうございました」
「急に改まってどうした?」
「こんなに短期間で修理が終わるなんて思ってもみませんでした。全部ウルバーノさんのおかげです」
深々と頭を下げる私に、ウルバーノが眉根を寄せた。聡い彼の事だ、この後に私が言う事もきっと分かっているだろう。
「……てめえ、何のつもりだ。俺が何て言ったか忘れたのか?」
ぐるぐると唸りだしそうな声音だ。
「忘れていません。書類を持って来ました。署名を」
契約書を差し出すが、叩き落とされる。
「あ、何するんですか! 書類が汚れちゃう」
慌ててしゃがみこみ散らばった書類を拾い集める私に怒声が降り注ぐ。
「ふっざけんな!」
「ふざけてなんか、何もおかしくないでしょう。今日で雇用契約は終了です。結界も張りましたし、もう一人でも水車の修理は出来ます。手伝いは不要です」
「……結界は万能じゃねえんだ。結界を張ったって、この沼が危険である事には変わりはねえ。ラミラって奴も言ってただろうが」
絞り出すような唸り声だった。
素直にはいそうですか、と言って署名してしまえば、契約期間外に私がどこで野たれ死のうが、ウルバーノに損はないはずだ。
馬鹿だなあ。
「これから、怒り狂った住民どもが旗やらプラカードやら持って押し寄せるんだろ!? お前一人でどうすんだよ! 私刑でもされてえのか!」
「そんな、大袈裟ですよ……向こうだっていきなり暴力に訴えたりはしないでしょう」
もちろん嘘だ。
拳大の石を頭目がけて投げられた事もある。狐用の罠を玄関に置かれた事もある。弓で狙われた事もある。
「嘘吐け!」
やはり通用しなかった。
「たとえ、そうだとしても大勢の人間がお前に憎悪を向けてくる。一人は無茶だ」
本当にこの人は馬鹿だなあ。
「はあ、もういい加減にしてくれませんか」
「……なんだと?」
努めて冷めた態を装う。言いたくはなかったが、やはり彼を沼地から遠ざけるには言うしかないようだ。
「ウルバーノさん、どうして住民達がやって来ないか分かりますか?」
「そりゃ……まだ来てないってだけなんじゃねえのか?」
「あなたが居るからです」
ウルバーノが凍く。
「狂犬のウルバーノ、混血の血塗れ狼、あなたの悪名は町の人達の間にも轟いているようですね」
違う。
私は知っている。ウルバーノは誇り高い戦士だ。
「あなたが居る限り、住民達との話し合いは進まないでしょう」
もうこれで、二度とこの人がここに来る事はなくなるだろう。ここまで言われてなお関わろうとする奇特な人間は居ない。
「正直言って迷惑なんです」
感謝している。
それは、沼の浄化ての手伝いをしてくれたから、というだけではない。誰かと一緒にご飯を食べるのがあんなにも嬉しい事だとは思わなかった。
「私の悪評も大概ですが、あなたよりマシですから」
これは完全に嘘だ。
「それに、私は領主と取引をしています。賠償金の支払いが滞っている理由を私から公表するのと引き換えに、いろいろ便宜を図ってもらうつもりです。ウルバーノさんが居たんじゃちっとも進まない」
これは嘘ではないが、住民達と対決しないで済むのならその方がいい。やらざるを得ないというならせめて利用してやれ、というだけだ。ウルバーノが居るうちに住民達がやって来なくて本当に良かったと思っている。巻き込まないで済んだ。
私と違って街に住んでいるウルバーノはもしも私の一味という事になってしまえば、針のむしろだろう。
「……あの女好きの、喰えない領主とか?」
「扱いやすい人じゃないですか。なかなか話も分かる。私だって借金を返さなきゃいけないんです。綺麗ごとだけじゃやっていけませんよ。ウルバーノさんのお給料だって馬鹿にならないし、食費もかかる」
柄じゃない、悪役を気取るなんて。
「お前……本気か? 相手は屈強な農夫達だぞ。傭兵と違って職業倫理も何もない。憎しみを暴力で表現する事に何の躊躇もない!」
「……」
全く、嫌になる。
これだけ失礼な事を言っているのだ。怒って私を殴るなりなんなりして出て行けばいい。いつもは瞬間湯沸かし器のように怒鳴り散らすくせに、こういう時だけは冷静だ。普段は隠している知性まで言葉の端々に出てしまっている。安い挑発には乗らずに、まだ私の事なんかを心配している。
狼の顔でも獣の瞳でもその高潔さが薄らぐことはない。
この人が笑った顔が好きだった。
牙が剥き出しなのに、子供みたいなのだ。
素直じゃないところも。
唸り声よりも低い声も。
本当に……
この人は……なんて……
耐えきれなくなって後ろを向いた。
「出て行って下さい」
後ろを向いたまま書類を突き出す。
巻き込むわけにはいかないのだ。
彼の外見はそれでなくても誤解されやすい。この上、私と一緒に住民達と対決したら、その誤解は決定的なものになってしまう。
彼は、もっと明るい場所に居るべきだ。
こんな、薄暗い沼地ではなくて。
「くどいですよ。もう用済みって事です」
「……そうかよ」
しばらく、そのまま後ろを向いていた。
さらさらとペンを走らせる音が響いて、ウルバーノの立ち去る気配がする。
遠くで怪物の咆哮が聞こえる。
霧のかかった朝の沼地は白く薄汚れて、
寂しく、
どこまでもどこまでも続いているようだった。
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