第7話 ウルバーノの噂
エンリケの来襲の翌日にはウルバーノの怪我は完治していた。治癒魔法で治したのだろうか。良かったですね、と言うと、曖昧にはぐらかされた。どうやら自分で治したのではなさそうだ。
彼ほどの人ならば喜んで治してくれる人などいくらでも居るに違いない。まり深く尋ねるのは止めた。
そして、今まで、ヘドロの臭いで不便をさせていた事を詫び、シャワーを勧めてみたところ、何の気負いもなくあっさりと使ってくれた。
こんな事ならばもっと早くに使わせてあげれば良かったなあ。
今までは昼から来て、夕方には帰っていたのだが、私相手に変な遠慮をする必要もないと思ったのか朝から来るようになった。当然のように昼食、夕食を食べて帰る。空腹時だけかと思ったが、どうやら彼は本当にヘドロの臭いの中で食事をする事をなんとも思っていないようだった。
さすが一流の傭兵は違う。
私など、慣れるまでに一カ月はかかった。沼の畔に越してきたばかりの頃は、臭いのために食欲が湧かず、かなり痩せたものだった。
彼は見ていて気持ちがよいほどの健啖家である。
それより何より、自分の作った物を食べてくれる人が居るというのは想像以上に気分が上向くものなのだ。美味しそうに食べてくれればなお嬉しい。もっと美味しいものを作ろうという気になる。
勿論かなり食費が増えたが、もともと安過ぎる給料で不相応に有能な人を雇ってしまっている自覚があるので、むしろ気が楽になったくらいだ。
エンリケの一件で私に借金があることを知った彼は、なんと食費替わりに給料は要らないなどと言い出したので、丁重にお断りした。いくら、ランク昇格のための美味しい依頼と言っても、それはサービスし過ぎというものだ。
食費の足しにという事なのか、昨日は大きな猪豚を一頭よこしてきた。正直言って、助かった。さっそく、丸々一頭さばいて、その日の夕食にした。
こういう時に解剖用の道具や土木作業用の鋸はとても便利だ。ウルバーノは手際良く豚を捌く私に驚いたようだ。魔生物専攻と日頃の大工仕事が役に立った。
脂の乗った美味しい猪豚だった。野生なのだろうが臭みも少ない。
朝から来てくれるようになり、食事休憩を挟みながら仕事をするようになったので、作業効率も大幅に上がり、なんと柵の設置は昨日で終わった。
明日からはようやく壊れた水車の修理を始められる。
蓄力機がもう一つ手に入る事になるので、家から水車にケーブル引かなくても済む。ケーブルの値段も馬鹿にならないので本当に助かった。
今日は水車の部品と、柵の修理と並行して行っていた蓄力機作りに必要な物を買い出しに来たのだ。
ここのところ働きづめだったので、今日は朝の早い時間にウルバーノに手伝ってもらいスライムの餌やりを済ませ、午後は休みにした。働かせ過ぎてしまったので喜ぶかと思ったら、渋い顔をされた。仕事が遅れるのが嫌なのかもしれない。
サボるわけじゃないんだけどね。それに、部品がないと作業出来ないし。
しかし、少し唐突だったかもしれない。急にもらったのではせっかくの休日を有効活用出来ない。次からはきちんと前もって日を決めるべきだろう。人を雇うの初めてなもので勝手が分からなかった。ウルバーノには悪い事した。ダフネにそのあたりも相談しておきたい。
というわけで、買い出しの帰りに頼まれていた本を届けがてら組合の事務所に寄ってみたのだ。
昼下がりの組合は珍しく静かだった。人も疎らである。私は買い出しの帰りに組合の事務所に顔を出した。受付では白い猫の獣人のブリサがカウンターに肘を突いて暇そうに鏡を見ながら髪の毛を弄っている。
彼女は目敏く私を見つけた。
「ドロテアさん! いらっしゃい」
檸檬色の大きな瞳が笑み崩れて女の私でもくらっとするぐらいに可愛い。
「あ、どうも」
名前を覚えてもらえているなんて光栄だ。
この間は気遅れしてしまって失礼な態度を取ってしまったというのに、愛想よく笑いかけてくれる。可愛い上に人間が出来ている。
いい子だなあ……
でれでれしてしまう。
「よかった、元気そうじゃないですか。心配してたんですよ」
「心配?」
そこでブリサは声をひそめた。
「聞きましたよ。あの狂犬ウルバーノがドロテアさんの依頼受けたって言うじゃないですか」
「狂犬!?」
誰の事だ。ウルバーノの事か、エンリケの間違いじゃないのか。
「あの人は凄腕の傭兵だし、ダフネさんは信頼してるみたいだけど、お客さんからの評判が最悪なんです。強いは強いみたいだけど、自分勝手で失礼な事を平気でするって噂で、前に受付の女の子が泣かされた事もあるんですよ」
女の子を泣かすなんて最低! とブリサは胸の前で拳を握る。
白い尻尾がゆらゆらと不機嫌そうに揺れている。
「ドロテアさんは大丈夫でしたか?」
「全然、大丈夫でした。ていうか、そんな噂があるんですか?」
「知らないんですか?! 人嫌いで有名ですよ?」
「確かに、口調はちょっと乱暴だけど……」
弁護しながら、そういえば私も初対面の時は半泣きだったな、と思い出す。口調や外見で損をしていそうなタイプではある。
「他にもいろいろ良くない噂があります。いつも獣型なのは人型が化け物の姿だからだとか、人型になるとさらに凶暴になるとか」
「噂ですよね?」
「噂です。だけど、ドロテアさんに何かあったら困りますから」
ダフネ所長に怒られちゃうと明るく笑う。
「うーん、今のところ……きちんとした人です」
「本当ですか? ドロテアさんはお人好し過ぎる感じがしますからねえ」
「そんなことないですよ!」
私、結構がめついし。損得勘定ばっかりしてるし。せこいし。
「それより、ドロテアさんってあのホロス社のエンリケ社長とお友達なんですか?」
油断していたところにいきなり聞きたくない名前を聞いて吹き出しそうになる。
「……!? なんで、それを?」
「あ、やっぱり! やだあ、凄い! 私、ファンなんですよ! 綺麗だもん。悪魔でもあんなに綺麗な人ってそうそう居ないですよぉ! しかもあんなに若くて当代一の魔法機械工でしょ? 素敵じゃないですかぁ」
……知らないというのは本当に恐ろしい。
「いや、ちが、友達では……ない、です」
そこは譲れない。絶対に。
「え? でも同級生なんですよね?」
「なんでそんな事知ってるんですか? ダフネさんから?」
「雑誌に載ってたんです。インタビュー、休日の過ごし方は?っていう質問で、ドロテアさんの名前が出て来たからびっくり! 辺鄙な沼に住んでるって……あ、ごめんなさい。ダフネさんに聞いたら本当だって」
……マジで何を考えてるんだエンリケあの野郎。
凶悪な形相で拳を握りしめる私に気付かず、ブリサは明るく手を振った。
「あ、ダフネさんが来た! 所長! いいところに」
「あらあ! ドロテア、久しぶり! よく来てくれたわ、待ってたのよ」
「ダフネさん、お邪魔してます。父の本、持って来ました」
ダフネは相変わらず若々しく美しい。
「とりあえず、入って」
「ありがとうございます」
「ドロテアさん! こんどエンリケ社長の話聞かせて下さいね!」
大変申し訳ないが、これは聞こえなかったふりをさせて頂いた。
いつものお茶を出してもらいながら、ダフネの向かいに腰かけた。
「最近顔を見なかったから、心配してたのよ。でも元気そうね」
「はい、お陰様で」
「なんだか、ちょっとお肌も治ってきたんじゃないかしら?」
その言葉に一気に有頂天になる。
「……! やっぱりダフネさんもそう思いますか? やった、そうなのかな、嬉しいなあ!」
もしかして、と自分でも思っていたところだったのだ。
まだまだ完治には程遠いが、顔全体が腫れ上がるほどにたくさん出来ていた吹き出物が少し減り、浮腫みも取れてきた気がする。
膿んで熱を持っていた部分もだいぶ減った。
相変わらず鏡を見ると悲しくなるが、痛みが引いて不快感はだいぶましになった。
「まあまあ、座りなさいよ」
「どう? 新しい助手は」
「勿体ないくらいの人です!」
「え?!」
「あ、そうだ、忘れないうちに、ダフネさん。これ、ちょっと臭いを嗅いでもらってもいいですか?」
「あらあ、何? 美味しそうじゃない、買ったの?」
猪豚のバラ肉を豆を発酵させた調味料で味付けして圧力釜で煮込んだものを容器に詰めて持参したのだ。買ったものではない。
「う、えっと、とにかく臭いを」
「いい匂いよ、食べてみてもいい?」
「……! どうぞ、あ、手で……」
ダフネが指で一切れ摘まむとあまりの柔らかさに肉が落ちそうになるが、彼女は豪快に口を開けてそのまま食べてしまった。
「んんんっ! 美味しい! 麦酒に合いそう! どこのお肉屋さん? 最近新しいとこ出来たかしら?」
ダフネは指を舐めながらご満悦の様子だ。
「いいえ、私が作ったんです」
「そうなの!? ちょっと、凄く美味しいわ。後でレシピ頂戴ね」
「あ、はい、あの、食べちゃった後で言うの申し訳ないのですが、これ、実はうちで作ったんです」
「……?」
ダフネは何を言っているのか分からないという顔をする。
「いや、臭いが……ヘドロのですけど、ついちゃってないかと……」
「何言ってんの! 全然しないわよ」
「良かった! 上手く出来たからお裾分けしようと思ったんだけど、私、鼻が馬鹿になっちゃってるから心配で」
「もう、前から言おうと思ってたけどね。ドロテア、あなたちょっと気にし過ぎよ」
ダフネが珍しく眉根を寄せて私を見つめる。
「そうでしょうか……」
今日だって実は憂鬱なのだ。自宅に戻ればまた家の臭いに悩まされる事になる。
「そうよ。普通の場所に住んでいたってあなたより臭い人はたくさん居るわよ?」
「すみません。なんせ、自分じゃ自分の臭いって分からないから」
「心配なら私に聞きなさい! くんくん嗅いであげるから」
バシッと背中を叩かれる。
「あはは、ありがとうございます」
「さて、じゃ、これ貰っていいのよね。嬉しい。今日、晩御飯何にしようかと思ってたの。麺麭に挟んでも美味しそう! わざわざ悪いわねえ」
そう言うダフネが本当に嬉しそうで、こちらまで嬉しくなってくる。
「このお肉、うちに今来てくれている傭兵さんが持ってきてくれたんですよ。食費替わりだって猪豚、こんな大きいの! 一頭丸ごと!」
我ながら弾んだ声だった。少し照れる。どうやら私はよほど嬉しかったようだ。
「ええ!?」
大声だった。ダフネが目を剥いている。
「あ、あらごめんなさい。びっくりさせちゃった」
「い、いいえ」
いや、びっくりはしたが。
「ちょっと、驚いてしまったの。えっと今来ている傭兵さんが持って来たって言ったの? ていうか、さっきも勿体ない人って言ってたわね、あれ、どういうこと?」
「はい、凄い人なんですよ。あんなに強い人初めて見ました! 男気があって恰好良いし親切で真面目で、その上要領も良くて、来てまだ二週間くらいなのに、もう明日からはポンプの修理が出来そうです」
自然に笑みが零れた。
噂は少し気になるが、ウルバーノには感謝してもしたりない。
「ちょっと、ちょっと待って! 待って、頭を整理させて? 誰が? え? 親切? カッコイイ? しかも何? 一緒にご飯食べてるって事?」
しかし、ダフネは怪訝な顔だ。
「そうですよ。それで、うちでシャワー浴びて帰るんです。あのまま返したらヘドロの臭いを部屋に持ち帰らせる事になっちゃうじゃないですか。あれ? 今、うちを手伝ってくれてる傭兵さん、って、ダフネさんの知り合いじゃないんですか? 依頼書持って来てくれたから組合から来てる人だと思うんですけど」
「え、ええ、そうよ。もちろん。私が紹介したの」
「あんないい人紹介してくれて、本当にありがとうざいます」
「聞いてもいいかしら、どんな人?」
「……? 知ってるんじゃ?」
「一応、確認させて。大丈夫、私は組合所長よ。傭兵の事を私に話しても傭兵の不利にはならないから」
「名前はウルバーノ・ベラスケス、黒い狼の獣人で、目は金色、大きい人です。凄く良く食べます」
「信じがたいけど、間違いないみたいね。さっき、格好いいって言ってなかった?」
「はい」
「……あなた、人型のところ見たの……?」
「え? いいえ」
ダフネは一体何を驚いているのだろう。
「見てないの……、そう、そうよね、び、びっくりした、そうよね。でもそれじゃどうして、カッコイイ? 狼でしょう? 普通怖いとか、良くて逞しいとかじゃない?」
「普通に狼としてカッコイイ部類なんじゃないですか? 目が鋭くて、顔が整ってると思うんですけど」
「狼の顔が整ってるって……まあ、そうね、あるわね。でも若い人族の女の子は普通そういう風に見ないわよ」
「そうかなあ?」
「ねえ、他には? 人格破綻者だとか、人嫌いとか、凶暴とか、礼儀知らずとか、いろいろあるんじゃない?」
「なんですか、それ!」
目を丸くしてしまった。ブリサといい、ダフネといい、ウルバーノは一体どんな酷い噂をされているのだろう。
「確かに最初は、何この感じ悪い人? って思いましたけど、口が悪いだけで、凄く優しい人ですよね。常識人だし、義理堅いし、ランク昇格がかかっているとはいえ、あんな汚い地味な仕事を一生懸命やってくれるなんて、なかなか出来る事じゃないですよ」
ましてや、Aランクの傭兵などプライドの塊のようなものだろう。
「……ランク昇格? なんの事?」
「あ、たぶん、ですけどね。本人が言ってたわけじゃないから。しかも、この間なんか、魔石を貸してくれたんですよ」
「え!?」
「びっくりですよね! 魔石が、余るって! 何それ。魔石って余るようなものじゃないですよ、普通」
笑いながら言うが、ダフネは何やら目線を彷徨わせている。
「ど、どんな魔石?」
「凄い上物、大きかった。あ、あんまり大きい声で言わない方がいいのかな。盗られたら困るし。沼のまわりにももうちょっといい結界張った方がいいって話になったんですけど、蓄力機を買うお金がなくて困ってたら、貸してくれたんです……って、さっきからどうしたんですか?」
ぶふっと上品なダフネに似合わない声が聞こえて驚く。
「……な、何でもないわ、大丈夫、続けて」
ダフネはなぜか、肩を震わせて口を押えている。笑いを必死で堪えているようだ。
「エンリケが来た時も助けてくれたんですよ。かっこよかったなあ」
えへへ、と照れる。
自分がヒーローに助けてもらえるヒロインの柄ではないのは十分承知しているが、助けてくれたヒーローに憧れるくらいは自由だろう。
「あっさりエンリケを追っ払った後に言った台詞がまた痺れましたよ。傭兵の自分が戦闘の専門家じゃない人に本気出したりしたら恥ずかしい、だって! かっこいいなあ」
「そう! ……よく、あのエンリケに勝てたじゃない」
「ね! びっくりしますよね。だけど、ウルバーノさんによると別に大した事じゃないみたいですよ。やっぱり天才とは言っても所詮は魔法機械工としてって事なんですね」
スカッとした! と言って笑う私にダフネは言葉を濁す。
「うーん? まあ、ウルバーノにとってはそうかもしれないわね」
「やっぱり知り合いなんですね」
「まあね、あの子の母親とね、その縁で……、そんな事よりあなたの友人の悪魔、また来たの?」
「はあ、まあ……」
「それから、さっきはブリサがごめんなさいね。いい子なんだけど……」
「いいえ、全然、ブリサさんは何も悪くないですし。学生時代で慣れてます……」
あまり、思い出したくもなくて言葉を濁す。
エンリケ、もう来ないといいけど、また、来るんだろうな。
ウルバーノさんはもうすぐ居なくなってしまうのに。
いやだな……
……本当に?
私の中に住む悪い生き物がエンリケそっくりの甘い声で囁く。私はそれを懸命に無視した。怖いもの見たさ、に限りなく近い何かなのだろうがそれに捕まれば私は戻れない。それだけははっきりと分かった。
「暗い顔してるわよ、何されたの? いい? 相手がどんな奴だろうとも、どんな意図でやっているにしても、セクハラはセクハラよ」
親身な様子のダフネだが、分かってはいても自分の身に起きている事だけに、なかなか割り切れない。
「抱きつかれたり、髪の毛にキスされたり……正直虫唾が走るぐらい嫌なんですが、でもそれって、たぶん、私がエンリケに長年嫌がらせをされているから嫌だと思ってしまうだけで、これだけ切り取って、セクハラだのなんだの騒いでも、誰も取り合ってくれません」
実際に、エンリケと出会ってからの数年間はずっとそうだった。
見た目の問題も大きく影響しているのだろう。要は、私が性的にエンリケに狙われるとはとても思えないほど醜女で、エンリケが女に不自由するとは思えないほどに美形だという事だ。
嫌悪感はあるものの、私だって何もエンリケがそういうつもりでやっているのではない事は分かっている。
エンリケが自分の見た目の及ぼす効果について考えない訳がない。つまり、それも込みでの嫌がらせ、という事だろう。
「……そう」
私の沈んだ表情に何かを察したのだろう。ダフネはそれ以上追及しなかった。
「でも、王子様が助けてくれるようになったじゃない! 黒い狼の王子様が!」
誰かに聞かせるように、やたらと大きな声で言われて焦った。
「王子様なんてそんな滅相もない! いや、確かに私にとっては王子様っていうか救世主っていうか、もうまさにヒーローですけど、ずっとは頼れませんもん」
少し照れるがそれ以上に分不相応さが悲しく情けない。
「どうして? 上手くやってるみたいじゃない」
「いや別に……何だかさっきからダフネさんもブリサさんも、ウルバーノさんの事を何か誤解してませんか? 真面目ないい人ですよ? 上手くやるも何も普通です。親切だから助けてくれただけで、毎回そんなの期待してたらウルバーノさんも迷惑ですよ」
私の味方という立場でエンリケと対立させるというだけで、とてつもない精神的苦痛だろう。
普通は。
「いいじゃないの、手料理食べさせてあげる間柄なんだから」
「事実だけ言葉にすりゃそうですけども! ……まあ、食べさせるのは全然構わないんですけど、所詮は私が作るものだから別に特別美味しい訳じゃないし、逆に悪くって。きっと普段は美味しいもの食べてるだろうから」
注文があったら言ってくれ、苦手な物や嫌いな物も遠慮なく言えと頼んでいるのだが、気を使っているのか何なのか何も言ってくれないのだ。きっと、我慢をさせていると思う。
「だから、とにかく、早く蓄力機を作っちゃおうと思って」
「どういう事?」
「凄い魔石が借りかられたので、かなり強い広範囲の結界でも維持できると思うんです。浄化施設の周りにちょっとやそっとの怪物じゃ突破出来ないような結界を張ってしまえば、ウルバーノさんに来てもらわなくても一人で作業が出来るようになりますから護衛は不要です。とっとと依頼終了って事にしてあげようかと」
寂しさを無視してわざと明るく言った。
「勿体ないんじゃない? それでいいの?」
「いいも悪いも、もともとずっと独りでしたし人を雇うのはタダじゃありません。最初からなるべく短い期間で済まそうと思ってました。それより、そしたらSランク依頼成功って事になりますよね?」
「まあ、そうね」
「あんな臭くて汚い場所に長く通いたい人は居ないです。お世話になったし、私が出来る恩返しは早く解放してあげる事です」
そうなのだ。それしかない。改めてその事実に打ちのめされる。
「ウルバーノさんのランクも上がって、報酬のいい依頼ばんばんこなしてもらって、ウルバーノさんもがっぽがっぽ儲けてうはうはです。いい事づくめ! 私はさっさと沼を浄化して借金を返すんです、って、まだ全然道のりは遠いですけど」
拳を握って熱く宣言してから、取らぬ狸の皮算用だったと恥じ入った。
「あのね、ドロテア、その、ランク昇格の事なんだけど……」
「……?」
「ダフネさん! お話し中にすみません! 人族の酔っ払いが暴れてます! 魔法まで使って手におえないの、お願い! 早く来て!」
女性の従業員がダフネの自室の扉を叩いている。
「大変! ごめんなさいね、ゆっくり話したかったけど……」
「いいんです! それより早く!」
「そうね、また来て! 話の続きをしましょう!」
「はい」
邪魔になってはいけない。私は父の本をそっと置いて家路に着いた。
家に帰って驚いた。
「あれ?」
臭いが……
「あれれ?」
いつも悩まされているヘドロの臭いがほとんどしない事に気が付いた。
試しにカーテンを嗅いでみる。
ああ、少しは、まだ……
本気で鼻が駄目になってしまったのかとも思ったが、注意深く嗅いでみると少しは臭いがあるようだ。それでも、ウルバーノが来る前とは比べ物にならないくらに臭いが薄くなっている。
「ええ? 本当に!? やだ、凄い!」
嬉しさのあまり、家の中でいろいろな物を嗅ぎまわった。
クッション、布団カバー、タオル……。
「凄い! 本当に臭いが消えて来てる!」
一体どうしたというのだろう。このところ沼からほとんど出ずに居たので気が付かなかった。いつのまにかこんなにも臭いが減っていたなんて。
だが、不思議だ。まだまだ、沼は汚れている。作業は進んでいるとはいえ、水車で汚水の汲み出しが出来るようになるまでは、本格的な浄化は始められない。良くて現状維持と言ったところだ。
ならば、なぜ。
「もしかして、……結界を変えたせい?」
結界という代物はピンからキリまであり、物によっては瘴気や臭いまで防げると聞く。ウルバーノは何も言っていなかったが、彼の事だ、そのくらいはお安い御用に違いない。
エンリケが家の中に突然出現するという事がないだけでもありがたかったのに、この上、長年の悩みだった臭いまで消してくれるとは。
ウルバーノさん、ありがとう!
その日は夜中まで自室に籠って魔石の加工に熱中した。
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