第5話 悪魔のエンリケ

 静かな庭だ。


 白亜の通路の両脇は人工の池、それを取り囲む深く黒い森。雪が舞う。その庭を寒さもものともせず薄着で歩く者がいる。


 貝殻のような薄桃色の髪を真後ろ、両脇の三本の緩い三つ編みにして、右と後ろには黒いリボン。左にはリボンはない。艶やかな唇に不敵な笑み。絶世の美貌だ。紺色の半袖の丸首シャツからのぞく肌は真珠色に輝き、しなやかな筋肉が内側から光を発しているかのうように錯覚してしまう。


 彼の名はエンリケ・バジェステロス、悪魔の名家であるバジェステロス家の現当主であり、魔法機械製造業としては超一流のホロス社の若き創始者である。

 両脇にある人口の池はさほど大きくはないが、驚くほどに深い。頭部が兜のようになった巨大な魚が音も立てずに泳ぎ渡る。

 それを眺める瞳は真紅、羽のようにまつ毛が瞬く。まるで、水面ではなく、どこか別の場所を見ているような。左の三つ編みを白い指で弄びながら彼は繊細な造りの唇で呟いた。


「気に喰わないなあ、本当に……」



 ***



 石造りの広い回廊を歩いている。

 魔法機械工学の専門学校の講堂を出たところの風景だと思い当たって、唐突にこれは夢なのだと気が付いた。

 

 ああ、またか。

 彼の夢だ。昔の記憶。

 

 訓示を聞いた後、廊下を独りで歩いていたら、美貌の悪魔に話しかけられた。

「なんだか知らないが、自分だけ嫌われてるような気がするって事が多い」

「え?」

 耳に残るどこか楽しげな美声だ。

 けれども私には嫌な思い出しかない。

「しかも、相手は周囲からの評判が良くて、だいたいが有能な、立派な人物。そうだな、人格的には多少問題があっても許されるくらい、それなりに人望があって求心力もあるような人気者」

 夢の中であっても彼の顔はとてつもなく美しい。そういえばこの時はまだ私は彼の事を彼女だと思っていた。とんでもない美女が一人この学校には居る、思っていた。

「な、なんですか? 私に何か? 一体、何を……」

 あまりに美しいので、その目に込められた獣性すら何か別のものに見えていた。

「つらく当たられれば不快だ。だけど、どうやら自分にだけらしい。何かしただろうか、よく分からない。ただ、分かるのは自分が不当な扱いをされたと周りに訴えても損するのは自分の方だって事だ」

 ここまで、言われてどうやら目の前の人物が自分に話しかけているようであり、さらに自分の事を話題にしているらしいと気付く。そして、その内容のあまりの的確さに言葉を失う。

「騒ぎ立てても仕方がない、自分がちょっと我慢すればいい。どうせ誰も気づかない。もしかしたら、嫌っている当の本人ですらも」

「……」

「自分に非があるかもしれなくても、それを改善する過程すら面倒くさがって、甘んじて受け入れるんだ。醜いなあ、君は。賢い馬鹿、怠惰でストイック!」

 そこで、彼はけぶるように笑った。色気が蕩尽に滴り落ちるのが目に見えるようだ。

「薄汚い人族そのものだ。素晴らしい」

 図星を指されると人は怒るものだという。怒るべきなのだろう。さらに言えば、あからさまな侮辱である。差別も入っている。しかし、私は彼が言った通りの人間なのだ。

「……なんなんですか、貴女は」

 呆然としたまま呟く。

「僕? 僕はそう、君になんだかよく分からないけど辛くあたる立派な人物、のうちの一人かな」

 自分を指して立派な人物と言うのすらもあまりに自然だった。

「それからさ」

 そこで彼は屈んでぐっと顔を近づけて来た。桃色の長い睫毛が触れんばかりに近づく。

「僕はね」

 ひやりと冷たい骨ばった手で掴まれて驚いた。


 彼は私の薬品で荒れた右手を掴んでそのまま……


「……っ!?」

 声も出なかった。

 人間、本当に叫びたい時は声が掠れて音が出ないのだとこの時知った。


「男だよ」


 なんと彼は私の手を自分の股間に触れさせたのだ。そしてあまりの事に固まる私に小首を傾げて微笑んだ。

「ごめんごめん、君があんまりにも惨めな処女だからつい、ね? 大丈夫、お金とったりしないよ」

 そして、下品なジョークを上品に受け流す貴婦人のように軽やかに笑いながら去って行った。

 おそるおそる自分の右手を見る。そして、まだ笑っている背の高い悪魔の遠い後ろ姿を見る。


 か、硬、かった……っ!?


 なんで、『あなた』が『貴女』だと即座に分かったんだろうとか、え、男なの、嘘でしょ、そんなのずるい、硬いってどういう事? とか、それらを全てすっ飛ばして、悲しくなった。常軌を逸した振る舞いに混乱はさせられていたが、これだけは痛いほどに良く分かった。


 自分が今、人間としても一人の女性としても信じられないほど酷い侮辱を受けたという事が。


 これが、私とエンリケとの出会いだ。この時は悪魔の一時の気まぐれだと思っていた。私のおめでたい脳味噌よ。これから永きにわたり今なお続く嫌がらせの始まりとも気付かずに。


 それからの学校生活は思い出したくもない。


 魔法機械工の資格を取るために入学したその学校の開学以来の天才である彼に目を付けられた私はありとあらゆる場面で辱められた。誰もが羨むような美貌、その可憐な唇から出る言葉で女性としての夢や希望を悉く打ち砕かれた。

 唯一の救いはそれでも何人かの友達が出来た事だ。こんな私を気にかけてくれる彼らには感謝してもしたりない。


 悲しい事にエンリケの言った通りに私は未だに『惨めな処女』だ。


 彼の言葉が呪いとなって、とは正直思わない。もともと異性にもてる性質ではない。ただ私の人生における唯一の性的な経験があの痴漢紛いの(さらに言えば相手は私に対して一切性的興味はないと思われる)ものだけになるのかもしれないと思うと堪らない気持ちになる。


 このまま一生独りなのだろうか。



「そうそう、調子に乗らないでね? 生ごみの分際であの狼に触ろうなんて考えてごらん? 君の未使用なのに汚い割れ目を針糸で縫い付けるよ?」



「ひっ!……や」



 夢の中であるはずなのに妙に現実感のある声が聞こえた気がして飛び起きた。

「うわ……汗、すごいや」

 べたべたと気持ちが悪い。


 なんて、悪夢を……


 目覚めたばかりなのに、すでに疲れている。

「はあああ……」

 朝からがっくりと項垂れた。

 夢でまだ良かったと思う事にしてさっさと起き上がってしまうことにした。二度寝などすればまたあの胸糞悪い悪魔の夢を見てしまうかもしれない。まだ早い時間だが、幸い今の季節は日の出が早い。


 昨日、仕事が終わるとウルバーノは「明日は休む」と言い置いて、そそくさと帰ってしまった。

 仕事が終わればすぐに帰るので、いつも通りと言えばそうだ。

「俺が居ない間に沼に近寄ったらぶっ殺すからな!」

 言い捨てるのも忘れない。そうは言っても、可愛いスライム達を飢え死にさせるわけにはいかない。明るいうちに餌やりだけはするつもりだ。

 食事を終えてシャワーを浴びる事にした。どうせ昼過ぎにはまた沼に行くので、夕方には身体を洗わなければいけないのだが、そんな理由で夕方まで汗まみれのままで居るなんて、ただでさえ底を尽きそうな私の女としての自覚がさらに低下してしまう。

 湯で体を流しながら違和感に気付く。


 あれ、なんだか、いつもよりちょっとお肌がつるつるしている気がする、かも?


 さらに言えば、湯で顔を温める度に感じていたわずかな痛みや突っ張り感がいつもより少ない気がする。嬉しくなって鼻歌交じりに身体を洗う。普通の女性と比べればまだまだ醜いのだろうが、私にとっては天にも昇るほど喜ばしい事なのだ。

 ふと、ウルバーノはどこで身体を洗っているのだろう、と気になった。


 沼で働いた後、そのまま帰ってるよね。

 防護服着てる私ですら結構臭いが付くのに、生身だし、毛皮だし、家で洗ったら臭いが凄い事になるんじゃ……


 彼の美しい黒い毛皮からヘドロの滴がしたたる様を思い出し、急に心配になった。


 あの様子じゃ、公衆浴場にも入れてもらえるかどうか……


 うちではもう諦めて専用の洗浄漕で洗って再利用しちゃってるけど、本当は布で拭いたらその布も捨てなきゃならないレベルだよね。

 うわ、やばい、全然考えてなかった!

 悪い事したなあ、明日からはちゃんと言わなきゃ、うちでシャワー浴びて行って下さいって。

 どうせ、うちはもう汚れちゃってるから気にしないでって。


 そこまで、考えてはっとした。今日の夢だ。エンリケ、あの悪魔は最後になんと言ったのだったか。


「そうそう、調子に乗らないでね? 生ごみの分際であの狼に触ろうなんて考えてごらん? 君の未使用なのに汚い割れ目を針と糸で縫い付けるよ?」


 あの狼に、触る……?

 

 顔が赤くなるのと同時にどっと冷や汗が出てきた。

 エンリケはなぜか私が異性と関わるのを殊の外嫌がった。

 あまりに女性的な容貌をしている彼なので最初のうちはエンリケが私と関わるその男性に対して好意を抱いているのではないかと疑ってしまったのだが、勿論すぐに見抜かれて腐っているだのなんだとのぐうの音も出ないほどに罵倒された。

 しかし、何人も続けばさすがにそうではないと分かってくる。

 中にはエンリケ自身に並々ならぬ好意を向けている男も居たのだが、彼の態度が変わる事はなかった。

 関わる、とは言っても本当に些細なものだ。グループ課題の班が同じだとか、席が隣になっただとか、その程度なのに毎回毎回有難くもご忠告下さる。


「まさか君が人並に女として見てもらえるなんて考えていないよね? 期待するだけ無駄だよ」


 何を馬鹿な、と始めは思っていた。だいたい恋を出来るほどにまだ喋ってもいないじゃないか、と。だが何度も何度も繰り返されるうちに疑わしく思えてきた。

 

 だって……


 それ以外の彼の指摘は常に嫌になるくらいに的確なのだ。


 私自身が気付いていない淡い恋心や期待に彼が気付かないなんてどうして言える? 


 もともと容姿に自信のなかった私は、自分が醜いくせに身の程も弁えず常に発情している雌豚なのだと言われている気がして恥ずかしくて堪らなくなった。

 それから髪の毛は常に短くし、化粧はもともとしていなかったが保湿や日焼け止め以外はしない事に決め華美な服装や女らしい仕草は出来るだけ避けた。お前みたいな奴が何をしたって無駄なのだ、と言われるのが怖かった。

 頭では分かっている。


 こんなのは理不尽だ。


 例え、本当に恋をしていたのだとしたって、誰にも責められる謂れはない。醜かろうが美かろうが気持ちを抱くのに資格など要らない。

 けれど自分の事となると話は別だ。

 自分でも気付かないうちに妙に異性を意識していてそれが態度に表れて気持ちの悪い女になっているのかもしれないと急に怖くなった。

 なんせ私は『惨めな処女』だ。自分の性的欲求を肯定的に受け入れられるようになるには、異性として求められる経験が必要なのだと思う。私にはないものだ。

 誓ってもいいがエンリケのそれは嫉妬や独占欲ではないだろう。おそらく私の諦めきれない心が彼の中の悪魔的な部分を刺激するのだ。外見も中身もみすぼらしい女が浮かれていると踏みにじってやりたくて仕方がなくなるのだろう。エンリケについては分からない事ばかりだが、彼の苛立ちだけは本物だと思える。


 その彼が夢に出てきた。


 そして、あの狼に触るなと言った。


 あの狼とは間違いなくウルバーノの事だろう。良くも悪くも私の深層心理にはエンリケが深く根を張っている。


 つまり私はウルバーノを意識している?


「うわあ、やばい……」

 さっきまで少し上向いていた気持ちは完全に消えていた。頭から熱い湯を浴びながらぞっとする。ヘドロの沼と瘴気のせいで私の容姿はさらに醜くなった。その女が妙に色気付いていたらどれだけ不気味だろうか。

 

 「うちでシャワー浴びていって下さい」? 冗談じゃない!

 そんなの、絶対、変な下心があるんじゃないかって疑われる!

 最悪、気持ち悪がられて来なくなっちゃうかも。


「あ、でも……」

 そうだった、ウルバーノは私の素顔を見ていないのだ。醜さという点においてはあの防護服を着ていればそう変わらないかもしれないが、生々しさはないだろう。

「あは……はは、なんだ」

 妙な夢を見たせいで先走った心配をしてしまったようだ。だが注意してし過ぎるという事はないだろう。私を気味悪がってウルバーノに逃げられてしまったら大変だ。

 一緒に頑張ってくれる人が居るのはそれだけで嬉しいものだ。昇格のためだとは分かっているが彼は真剣に仕事をしてくれている。こんな経験は初めてだった。その彼に不快な思いはさせたくない。

 だからといって気味悪がられるのを怖がって彼に負担を強いるのも何か違う気がする。


 とにかく、明日からはシャワーを勧めてみよう。まあいい。

 いろいろ考えたところで失う時は失うし、精一杯やるだけだ。


 そこで私もウルバーノの人型を知らない事に気が付いた。

 獣人は獣型をとっている時の方が肉体の強靭さが増すらしく、特に傭兵として戦闘に赴く場合にはずっと獣型で通す獣人も稀ではない。彼らの場合はどちらもが素顔のようなものであるからもちろん同列には扱えない。しかしそもそも互いの顔もまともに知らずに私は何を先走った心配をしているのだろう。

 我がことながら初心っぷりに呆れる。


 さてそろそろ日が高くなる頃だ。スライム達に汚水を撒きに行かなければ。


 それが終われば、そうだな、蓄力機の材料でも確認しようかな。足りない物があったら買い足しに行かなくちゃ。


 着替えていつものように背嚢に重い防護服を背負い、家の扉を開けた。



「やあ、久しぶり」



 バンッ



 咄嗟に扉を思い切り良く締めた私を誰が責められるだろう。

 よりにもよってあの悪魔、今一番見たくない桜貝色の髪、真紅の瞳が目の前にあった。

「ちょっと、親切にも融資を申し出てくれた恩人に対してこの扱いはないんじゃないの? ねえ、君の大好きなエンリケさんが来ましたよ」

 急いで鍵を閉めようとしたが、素早く扉を開けられてしまう。実にあっさりと。


 私だって取っ手を握って渾身の力で引っ張ったのに。


 この悪魔のこういう所が癪に障る。腕力も魔力も知力も何もかも敵わない。

「すみません、まだ借金は返せません。あなたにとって楽しい事は何一つありません。私の顔を眺めるのもご不快かと思いますので、お引き取り願います!」

 早口で言い放った。ちょっと涙目だ。悔しさが声に滲んでしまう。


 何でこんな奴にお金を借りたりしてしまったんだろう。


 それしか選択肢がなかったとはいえいまだに悔やまれる。

「大丈夫、まだ、借金の取り立てに来たわけじゃないんだ。どこもかしこも臭くて汚くて、ついでに鏡の中を見ても汚いものしか映らない可哀想な君のために、たまには美しいものを見せてあげようかと思って来てあげたんだよ。嬉しい?」

 そういってくるりと回る彼は本当にこの世のものとは思われぬほどに美しかった。


 ……!


 濃い灰色の光沢のある生地で作ったドレス、太めの肩紐は肩を隠すか隠さないかぎりぎりのところで切ってある。

 すんなりと伸びる腕が美しい。

 胸のすぐ下で絞って、そこからふわりと流れる裾、膝下の長い艶めかしい脚を惜しげもなく晒す。繊細な作りの踵の細い靴、細い足首にベルベットの灰色のリボンが絡み付く。モノトーンに桃色の髪の毛が良く映えていた。

 要は女装なのだが違和感が全くない。女装には付き物の退廃の臭いもなく気品さえ漂う。化粧っ気もなくただただ可憐で清冽な美しさ、そうであるのにこの華やかさと色気は一体なんなのだろう。

 彼に対してはいろいろと思う所がある私ですらぽーっと見惚れてしまうほどの出来栄えだった。

「綺麗……」

 思わず呟いてしまった。


 不覚!


「あっはっは! 君は本当に僕の顔が好きだよねえ」

 いかに性格が悪かろうとも彼の容姿の美しさが損なわれる事はない。特に女性だと思って見れば。悔しいがそれは事実だ。無視する事にした。

「な、何しに来たの?」

 後じさりしながら問う。

 何をされるか分からない。身体に染み付いた防衛本能だ。しかしその努力も虚しくいきなり顎を鷲掴みにされた。

「……っ!!?」


 やっぱり暴力来た! 顎が割れる!


 どうでもいいが爪の細工まで完璧だ。薄い灰色に塗った爪が真珠色の肌によく合っている。間近で桜色の睫毛に縁どられた真紅の瞳が苛立ちを湛えて冷たく光る。

「い、痛い!」

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど、どういう事? 僕の転送機は完璧だと思うんだ。でも君の家の中にはどうやっても入れなかった」

「やめっ、離して!」

「質問に答えらたね。結界変えた? この間みたいに君の入浴中にお邪魔しようと思ったのにさ……」


 なんだと!?


「また?! いっつも思うけど何考えてんの? 本当に止めてよ! 何でたかが嫌がらせにそんな労力を使うの!? ていうか何で私が入浴中とか分かるの? 悪魔の勘? 怖いよ、やめてよ、もう嫌だ!」

 悪魔の勘というのは「絶対当たる」という意味の慣用句でよくある悪魔ジョークの一種だ。

「うるさいな、君は馬鹿だから、僕も二回までは同じ事も言ってあげる。三度言わせたら顎砕いちゃうよ? 変えた? 結界」

「いたたた……!」


 ほ、本当に砕かれる! 馬鹿力め!


「が、がえまじだ」

「いつ?」

「ついこの間」

「誰が? 君、魔生物学しか能がないよね?」

「…………人に頼んで」

 なんとなくウルバーノの事をこの悪魔に知らせるのは危険であるような気がした。

「……っいだだだだだだだ!」

「そういう事を聞いてるんじゃないのは分かるよね? どこの誰? どういう関係?」

 エンリケはにこりと優しく微笑みながらさらに力を入れてくる。

 今、顎の吹き出物がぶちっと一つ潰された。凄く痛い。

「彼はお金で雇った傭兵、私とは何の関係ない! 何も悪い事してない! 私の顔も知らない!」

「彼か、……へえ、今どこに居るの?」

 なぜか、さらに危険な気配を帯び始めたエンリケに焦った。


 え、どうして? 私の返答の何が悪かったんだ?


「し、知らない! 住んでるとこなんて」

「君ね、力もないくせに下手に他人を庇って今まで何度痛い目を見たと思ってる?」

「庇ってない! 本当に知らない」

「まあいいよ、僕は知ってる。傭兵ウルバーノ、有名人だものね」

 そういうと、すっと手を放した。

 いきなり解放されてたたらを踏む。

「なっ……!?」


 なんですと? 知ってるの?

 ウルバーノさん、有名人なんだ。私、知らなかった。


 私は一体何のために痛い思いをさせられたのだ。

 しかしよく考えてみれば何でも知っている彼がそのくらいの事を知らないわけもない。分からないのはなぜ知らないふりをした私を問い詰めたのか、だ。

「僕はねえ、物凄く怒ってるんだよ」

 言って彼は指についた私の血を舐めた。


 ええ!? 何で舐める!?

 それたぶん吹き出物から出たやつだから膿も混じってて汚いよ?

 いつも、汚いって自分でも言ってるくせに……

 気持ち悪くないのかな。ていうかかなり嫌だ、私が。


 ぎょっとするが立ち上る怒りの気配に気圧されて何も言えない。

「な、なんで怒るの?」

「だって、この僕がお金まで貸して支援してあげてるのに、僕に断りもなく勝手に傭兵なんか雇って」

 それは、いちいち許可を取らなければならない事なのか。頼ったら頼ったで金銭的にも精神的にも多大な負担を強いてくるくせに何を言っているのだ。


 私だって借金を早く返すためにいろいろ考えてやった事なのに。


「しかも庇うって何? あの狼は君の何?」

「だから何度も言うように何でもない。自分がどれだけ危険人物って思われてるか分かってる? どうせ脅したりなんかして辞めさせたりするんでしょ? 大事な助手を無駄に危険に晒したくないよ!」

「大事? 出会ってたった数日の男が?」

「大事だよ! 決まってる! だって逃げて行かないし、真面目に仕事してくれるし!」

「それもおかしいんだよ。どうしてそんな男が現れたんだ。君みたいな人間にそんな幸運が舞い込むなんておかしくない? ドロテアのくせに」

 凄い事を言われている気がするがもういちいち構っていられない。

「自分で言ってて悲しいけど、私だって分からないよ。一体何が気に喰わないの? 早く借金返した方がいいんでしょ? ちゃんと正規の値段で仕事してくれるし、いい人だよ」

「分からない? 君が調子に乗って浮かれているから恥をかかないように忠告しに来てあげたんだ。馬鹿な夢を見るんじゃないってね」

 そこで、彼は優雅に身を翻した。

 さっきまで居た美女は消え失せ、桜貝色の髪の美青年が立っていた。

 魔法でどうにかしたのだろうが、いつもの三つ編みではなく、髪の毛は短く、無造作に流している。灰色の三つ揃え、シャツも灰色、細いタイだけが目にも鮮やかな真珠色だ。

 悪魔の使う魔法は他の種族と違って唐突で万能過ぎる。因果律を無視できるのは彼らだけだ。しかも着替えという果てしなくどうでもいい事に無駄に高度な魔法を使う。

 彼はおもむろに扉の縁に肘を突いて、私に覆いかぶさるようにして覗き込む。まるで、口説くように、今度は優しく私の顎に指を添える。本性さえ知らなければ、男も女も腰砕けになりそうな美声で、囁いた。


「ところで、あの黒いリボンはどうしたの? 君にあげたのに」


「ぐ……」

 腹いせに沼に捨ててやった、とこの状況で正直に言うのが上手くない事くらい私にも分かる。エンリケが私の茶色の前髪を一房取って口付ける。

 正直言って、とても嫌だ。鳥肌が立つ。逃げたい。

 しかし、身体能力も向こうが圧倒的に上だ。下手に逃げても状況を悪くするだけだろう。

「知ってるよ、沼に捨てたんでしょ……」

 エンリケはふっと目を伏せた。美しすぎる彼はそれだけで消えてしまいそうに儚い風情になる。


 う、悪い事したかな?

 

「ごめん……」

 謝った後で、私が謝る必要など何一つない事に気が付く。


 いやいやいやいや、おかしいから!

 だって、あの時、こいつ普通に私が湯船に浸かってる所にずかずか入ってきて、散々馬鹿にして……

 普通ならぶん殴られてもおかしくない事しているし!

 リボンがあの後どうなったか知ってるってのも嫌過ぎる!


 毎回毎回この悪魔が来た後は妙な仕掛けがないか家中を調べるのだが、どんなに頑張っても尻尾すら掴めない。

「いいんだ……」

 そして、エンリケはニコっと笑ったかと思うと打って変った明るい声で笑った。


「そう、だから何があっても自業自得、君が悪いのさ!」


 世界中がひれ伏すような輝く笑顔。この笑顔の後、大抵私は死ぬほど苦労する事になる。

 この笑顔、それは


 彼を本当に怒らせた時の笑顔。


 血の気が引くのを感じた。一体、何を企んでいるんだろう。

「さて、お出ましだ」

 だから、彼が楽しげに呟いた時には反応が遅れた。

「……何してんだ、お前ら」

 扉の向こう側で黒い狼が唸り声を上げながら森から出てくるのが見えた。こちらに近づいていくる。腕には包帯を巻いて何かの包みを持っている。


「ウルバーノさん!? どうしたんです?」


 なぜ、彼がここに居るのだろう。今日は休みのはずだ。

「……っ!? お前、ドロテアか?」

 金色の目が大きく見開かれる。

「あっ……!」


 見られた! うわ、やっちゃった。


 吹き出物だらけの素顔を見られた事に動揺して慌てて口を手で覆うがもう遅い。ショックを受けていると、なぜかエンリケに抱き寄せられた。

「ぎゃああああっ!? ちょ、何……離して!」

 咄嗟に腕でエンリケの身体を押しやって全力で抵抗する。倍返しにされて結局は損をする事になるのかもしれないが、生理的嫌悪感が勝った。無理やり股間を触れさせられた時の恐怖が蘇る。

「はあい、僕、エンリケ! ドロテアのご主人様です。よろしくね! 血塗れの混血狼さん。噂通りいつもむさ苦しい獣型なんだね? 聞いてるよ? 人型の替りに君、本物の犬になっちゃうらしいね」


 エンリケ!?

 私を貶めるのはいつも通りとしても、初対面でいきなり悪口!?


 その恐怖感もエンリケのあまりにあまりな発言でどこかへ飛んだ。

「不潔で野蛮だけど戦闘能力だけは高い君がどうしてこんな女の下で働いているの?」

「ななな、な…」

 ただでさえ、沸点が低めなウルバーノに何を言ってくれるのか。

「何言ってるの、エンリケ! すみません、ウルバーノさん、失礼な事……」

「僕の下僕のドロテアが迷惑かけてごめんね。こんな馬鹿は相手にしなくてもいいよ? あんまり近くに居るとこの汚い顔のブツブツが感染っちゃうかもしれないし」

 なんとかエンリケの口を塞ごうとしたが、逆に強く抱きすくめられてこっちが黙るはめになる。


 汚い顔のブツブツ……

 そっか、ウルバーノさんも見てる。


 大嫌いな奴に抱きしめられている状況も忘れて俯いてしまう。


 ……駄目だ! しっかしりろ!


 首を振って気弱な考えを振り払う。

 こんな事で落ち込んで、エンリケの好きにさせたらウルバーノに嫌な思いをさせてしまう。顔を寄せてくるエンリケを手でぐいぐい押し返しながら必死で言った。

「ウルバーノさん、本当にごめんなさい、失礼な奴で。いつもこうなんです。私が借金返してないから嫌がらせしに来るんです。私のせいなんです。あと、この吹き出物は感染るようなものじゃありません!」

「借金?」

 吹き出物云々の件はあっさりと無視して怪訝そうにウルバーノが問い返す。

「そうなんだ、彼女、何でもするからお願いって僕に甘えて頼むから仕方なく……ね? あ、もしかして、犬には人間の言葉が分からなかったかな?」


 そこで、なぜ私の頭に唇を寄せる!?


「エンリケ! ウルバーノさんは関係ない! どうして関係ない人に失礼な事言うの!?」

 答えは分かっている。それを私が一番嫌がるからだ。でも言わずにはいられない。関係ないのだと繰り返す私になぜかエンリケはとても嬉しそうに頷いた。

「そうだね、彼は関係ないよね。僕ら二人の問題だからね。二人っきりで勝手にやれって話だよね。そうしようそうしよう、家に入ろうか」

「さっきから気味の悪い事ばっかり言わないでよ!」

 まるで痴話喧嘩のように言ってくれる。さすがに顔が引き攣った。私をおちょくるためなのだとしても、本当に性質が悪い。嫌がらせの一環と分かっていても鳥肌が立つ。

 私が一番嫌がる事を分かった上で言葉を選んでいるとしか思えない。


 家で二人?! この変態と!? 冗談じゃない!


「そういうわけだから、ワンちゃんは大人しく帰って柱に小便でもひっかけて寝れば?」

 にぃっと酷く悪魔らしい笑みを浮かべてウルバーノを見据えるエンリケだ。

 一体何を考えているやらさっぱり分からない。酷い侮蔑の言葉に私の方が真っ青になる。


「ぴーちくぱーちくうるせえ悪魔だな、どうでもいいがドロテアから離れろ、カマ野郎」


 そこへウルバーノのドスの効いた低音、これは確実に怒っている。

「ウルバーノさん、相手にしないで下さい。こんな下衆!」

 先回りしてエンリケを罵倒しウルバーノを宥めようとしたが、時すでに遅し。

「うるさいのはそっちだよ。キャンキャン吠えないでくれる?」

「どうやらお前、死にたいらしいな?」


 あああ、やっぱり、そうですよね。

 私の言う事全く聞いて下さりませんね。

 喧嘩を買う気満々ですね。


「おい、知ってるか?」


 不敵に低く笑いながらウルバーノがエンリケに問うた。ウルバーノが一歩踏み出す。

「なんだい?」

「結界ってのはな、張った本人が中に入ると」

 その瞬間空間が一瞬金色に光った。

「いろいろな事が出来るようになるんだよ」

 エンリケが真紅の瞳を見開いた。

「……二度と」

 ウルバーノが牙を剥き出しにした時、抱きすくめられていた身体がふと自由になった。

「来るんじゃねえ!」


「……!!」


 ごっと強い風が吹き付けた。

「そうか、結界、究極の『地の利』ね、また来るよ……」

 負け惜しみのような言葉を残してエンリケは消えた。文字通り跡形もなく。


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