第4話 沼地で二人

 

 コーン……コーン……


 沼地に金槌の音が響く。今日は良く晴れており、霧に滲んだこの沼の畔にも日差しが差し込んでいる。瘴気の濃さにさえ目を瞑れば長閑とさえ言える風景だ。

 

 思ったよりずっと早く進んだなあ……

 二人でやるとやっぱり早い。


 もう半分ほど出来ている防護柵を私は感慨深く眺めた。沼に浮いた空き瓶が防護柵に引っかかって溜め池の中には入れないでいる。まだ出来かけだがすでに役目を果たしてくれいるようで、嬉しくなった。


 一か月はかかると思ってたけど、この分なら来週から水車の修理に入れるかも。


「おーい、ドロテア! 釘がもうねえぞ!」

「あ、はい! ただいま!」

 低い声に呼ばれて溜め池の中へ降りるために作った木組みの段差を駆け下りた。

 下では、スライム混じりの汚水に膝下を浸からせながら背の高い狼の獣人が柵に釘を打っている。

 

 いつ見ても信じがたい……

 

 常人がこの汚水に直接触ればとんでもない事になる。

 最初のうちはなんでもない。しかし汚水に汚れたまま放置すると、その日の夜には肌が溶けるように爛れ、数日後には酷ければ骨が見えそうなぐらいに腐食が進む。

 以前、迷い込んできた鹿を手当てした事があるのだが、人間でもさして変わりはないだろう。結局その鹿は死なせてしまった。

 素早く洗えば軽く済むが数週間は腫れて痛む。まして目の前の獣人のように長時間浸かろうものなら夕方には膝から崩れ落ちる。

 比喩ではない。実際に骨が腐る。

 もちろん防護服を着るように勧めたが断られた。これは予想の範囲内であったので私も食い下がった。

 ちょっと触ったぐらいではこのヘドロの危険さは分からないのだ、不恰好で得体のしれない服を着たくないのは分かるが、悪い事は言わない、我慢して着てくれ、と。

 彼は面倒臭そうな目でこちらを見返し、そのまま作業を始めてしまった。

 せっかくの助手に死なれては堪らない。私は真っ青になったが、止めても聞く耳を持たない。

 結局、彼は何事もなかったかのうように防護服なしで作業を続けている。どうやら、この獣人の毛皮の腐食耐性は異常に強いらしい。

 

 どんだけですか、龍の鱗並みって事になるよ?

 

 確かに獣人は獣型になると防御力や身体能力が増すと聞くが、そこまでのべらぼうな強さは聞いた事がない。だがそのおかげか、通常ではありえないほどのスピードで作業が進んでいた。

「ったく、釘取りに行くのに何分かかってんだ」

「すみません、出来上がってきたなあって、見惚れちゃって」

 急いで釘を手渡した。

「防護柵作るのだけは出来るだけ早く済ませたい、それさえ作りゃまた水車が回せる、ってお前が言ったんだろうが、こっちは馬車馬のように働いて依頼主様の注文通りに急いでるっつーのに暢気なもんだな」

 作業の手を止めもせずに狼の獣人は滑らかに言い放つ。

 依頼主様相手にも手厳しい。

 しかしドスの効き過ぎている声や棘のある言い方にもだいぶ慣れてきた。

「えっと……なので護衛だけしてもらっても別に……」

「てめえ、舐めてんのか。そんなので給料もらえねえだろ! つか、早く進んだ方がいいだろうが」

「う、すみません、本当に感謝しております」

「それより、おい、そっち持て、持ち上げてろ、そうだ」

 無駄口を叩くなとでも言わんばかりに角材を投げられ、慌てて受け止める。


 傭兵ウルバーノ・ベラスケスがやって来て早三日。


 ウルバーノが組合から派遣されて来た日は半信半疑であった。Sランクの傭兵がこんな依頼を本気で受けようとするものだろうか、しかもどうやら今までの傭兵達とは違い、私の風体や沼の惨状を目にした上でまだ依頼をやり遂げようとする気があるらしい。

 何か行き違いがあるのでは、と何度も雇用条件や報酬について確認したがそれでも彼の決意は変わらないようだ。訝しみながらもこれを逃せばもうこんな好機は二度とないと思い、ええい、ままよ、とばかりに契約してしまった。

 仕事内容は沼の浄化に関わる仕事の手伝い、私の護衛、契約期間は半年間、その期間内に理由なく契約を破棄した場合には罰則が付く。勿論、雇い主である私が必要を感じなくなった場合にはその限りではない。

 それからしばらくして私はとある事実に思い当たった。


 そうか、昇格試験か!


 Sランクの依頼は基本的にはSランク傭兵しか受けられない事になっているが、例外がある。


 それはSランク昇格試験受験中のAランク傭兵だ。


 傭兵にはランク制度があり、実力順に下からE、D、C、B、A、そして、その上にSランクがあり、ランクを上げるためには昇格試験を受けなければならない。昇格試験は受けようとするランクの任務を既定の数だけ完遂する事が要求される。Aランクの傭兵がSランクに昇格しようと思ったなら、Sランクの依頼を何件かこなさなければならないという事だ。

 つまり彼はSランク昇格試験中のAランク傭兵なのだろう。


 考えてみれば簡単な話だ。


 不快な仕事かもしれないが、忍耐力さえあれば、依頼の内容自体は至極簡単なものだ。臭さ、依頼人の不気味さを我慢すれば、さしたる危険もなくSランクに昇格出来るのである。これほど美味しい依頼はない。Aランクの傭兵にとっては簡単にこなせる実質EランクのSランク依頼、しかもSランクに昇格すれば、依頼の報酬が跳ね上がるだけでなく、組合からの年給が付き、それはかなりの額になると聞く。


 それこそ、私からの報酬が雀の涙であってもそれを補って余りある程の。


 ようやく合点がいった。そして、あまり遠慮する必要はないかもしれないと思い始めた。


 なんだ、ウルバーノさんにだってちゃんと利益があるんだ。


 どんな事情があろうともありがたい事には変わりがない。むしろほっとしたぐらいだ。初めの頃こそ彼の無暗矢鱈と攻撃的で皮肉な物言いに萎縮していたのだが、現金なもので事情が分かっただけでだいぶ気が楽になった。まだうちとけるには程遠いが、少なくとも仕事上必要な事を話すのにすら緊張を強いられるような事はなくなった。

 なんだかんだで私が委縮していた理由は、引け目を感じていた部分が大きかったのだろう。

 汚い女と四六時中一緒に居て臭いヘドロに塗れるなんて、しかも安い給料で、嫌々やっている慈善事業か、はたまたダフネに頼まれて仕方なくか、そうであれば居た堪れない、と。


 私、案外図太いのかも。


 いや、この数年で、逞しくならざるを得なかったと言うべきか。

 彼の粗暴さが怖くないと言えば嘘になるが、悪意のこもった陰湿な嫌がらせに比べれば、はっきり言って屁でもない。

 なんだかんだ言っても彼の尖った爪の生えた手で掴まれた腕は少しも痛くなかったし、逆に転びそうになったら支えてくれた。実際に、暴力を振るわれないのなら、何も恐れる事はない。私の普段の生活水準からすると『凄くいい人』に分類しても差し支えない。

 そして彼が帰ってしまってから気が付いた。よほど気が動転していたのだろう。


 なんと私はその日一日防護服を着たままだったのだ。


 つまり彼は私の素顔を知らない。

 この醜く爛れた、吹き出物だらけの顔を。


 いささか礼儀を欠いた対応だったかもしれないが、契約自体は特に何の問題もない。というより初対面であれだけ明け透けな口のきき方をする人が、私が顔を隠したままで居る事を不快に思ったとして黙ったままで居るとは思えない。だがそれでもなんとなく騙しているような気分になった。

 けれども私はその後もずっと顔を隠したまま彼と接している。


 だってせっかく、せっかくこんなに有能な人が来てくれたのに!


 話してみて分かった事だが、やはりAランクの傭兵というのは伊達ではなかった。彼は私のたどたどしい説明を聞いて門外漢にはおそらくちんぷんかんぷんだろうと思われる沼の浄化の仕組みをものの数分で完全に理解した。


 え、今ので分かったの?

 私だったら、たぶん今の説明じゃ全然分かんないけど!


 そしてさっさと土木作業用の道具を倉庫から探し出して(もちろん教えていない。勝手にあたりをつけて漁ったのだろう)、その日のうちに沼に向った。私は追いかける格好で、一体どちらが依頼主なのかといった有様だ。

 凄腕の傭兵らしい彼に金槌やら鋸やらを持たせるのはどうにも申し訳ない気がして、私が作業する横で怪物が襲ってこないかどうか見張ってもらい、いざという時には戦ってもらう事にするので、普段は休んでいてくれるように頼んだのだが、先ほどのように一蹴された。

 作業中でも気配を感知するぐらい何でもない、ひなが一日座っているだけで金を貰うわけにはいかない、と。

 つまり彼はこれ以上ないくらい積極的に仕事をしてくれている。それだけで、私にとっては柏手打って拝みたいほどなのだ。

 なんとなくだが、私がどんなに醜かろうとも彼が気にするとは思えなかった(そもそも私を女としてまともに扱っている様子がない)。しかし、万が一、彼が私の顔を見て来てくれなくなってしまったら、卑屈な私はそれこそ果てしなく落ち込むだろう。


 彼は美しい狼だ。


 野卑な言葉遣い、乱暴な態度を取られても、まるで景色を愛でるように素直にそう思えてしまうほど。気品のある尖った鼻先や、知性に光る鋭い目。


 その目は今細められ、沼の向こうを睨みつけていた。


「……! どうしました?」


「黙ってろ」

 ウルバーノは作業の手を止めて長い鼻先を沼の方へ向け、じっと目を凝らしている。尖った大きめの耳も同じ方へ向いた。

 こうして彼はふとした瞬間に、何かの気配に耳を澄ませる。

 彼は多くを語らないが、どうやらこの沼には相当な大物が潜んでいるらしいのだ。生憎私の策敵能力は低過ぎて何も感じる事が出来ないのだが、Aランク(Sランク昇格試験中と思われる)の彼がこのようにあからさまな警戒をするのだから、推して知るべしである。

 私も彼に倣い息を潜めてじっとしていると、彼はおもむろに緊張を解いた。

「もう、黙ってなくていい」

「あ、はい」

「ったく、お前がちゃんと俺の言う事聞いて溜め池の周りにまともな結界張ってりゃ、こんなに神経質にならないで済むのによ」

「……張ろうとしましたよ」

 小さい声で反論したが、案の定怒鳴られる。

「馬鹿野郎! 家の周りの結界消しちまってどうすんだよ! 寝てる間に家ごと喰われてえのか」

「うう、だって……」

 結界とは、魔力を使った空間防御の事である。結界専門の結界職人が術式を組む事で、一定の魔力を常に消費しながらではあるが外敵に対する障壁として機能する。ある程度以上の魔力を持った者(たとえば目の前の獣人)であれば、普通に生活しながらでもある程度立派な結界を維持する事が可能であるが、私のような一般人にそれは難しい。


 そのため、自然界に存在する微量の魔力を周りから吸い取って結界が消費する魔力に充てるための装置、蓄力機が必要になる。


 一般的な結界とはこの蓄力機と揃いで言う場合が多い。この蓄力機には高価な魔石が使われており、小さな家なら賄えてしまうほど値が張る。

 私が住む沼の畔の家にはまだ余裕があった時分に父が買った魔石を使って作った畜力機があり、家の周りの結界を維持したり、火を起こして湯を温めたりするのに使っている。水車の動力も家の畜力機から長いケーブルを引いて賄っていた。

 数日前にウルバーノは物騒な怪物が沼に居るらしい事を私に教え、結界については素人同然の私が見ても高度で強力な結界術式をあっという間に組んでしまった。自分が居る間はいいが、四六時中ここに居るわけにはいかない。蓄力機を置いて結界を維持しろ、と言われた。

 ウルバーノの結界は強力だった。

 家の結界、その他もろもろに加えると、今は水車を動かしていない事を考慮しても蓄力機の出力は足りない。魔力が切れると折角組んだ術式も消えてしまう。ウルバーノの労力を無駄には出来ない。


 私は迷った末に、生活に必要な動力源を結界のために諦める事にしたのだった。


「全く、あんときゃホント、どうしようかと思ったぜ……」

 結局その後すぐに、自宅のライフラインと結界を犠牲にした事をウルバーノに知られ、どやしつけられ、溜め池の周りに組んでもらった強力な結界の術式は無駄にせざるをえなくなっただけでなく、自宅周囲の結界の張り直しまでさせてしまった。

 彼は歯ぎしりの間から低い唸り声をあげ、射殺しそうな目で私を睨みつけながら、私の自宅をもともと守っていた結界よりもさらに高性能な結界を張ってくれたのだ。

 頭が上がらないどころか土下座も通り越し、もう大の字で寝そべりたい。

「すみません、お金がなくてとてもじゃないけど蓄力機用の魔石をもう一つ、なんて……」

「だから、そのくらいなら貸してやるって言ってんだろうが」

「いやいやいや、契約満期の報酬の合計とどっこいどっこいじゃないですか! そんな大きな額を貸して頂くわけにはいきません。領主にお金を融通してもらえないか聞いてみますから、どうかそれまでちょっと……ウルバーノさんにはお手間をかけさせて本当に申し訳ないと思ってるんですが」

「俺が大変とか、そういう問題じゃねえんだよ!」

 怒鳴ってから、なぜか彼は決まり悪げに舌打ちした。

「ち、もういい。とにかく、俺が来るまでは沼に絶対一人で近づくな」

「はあ……」

「勘違いするんじゃねえぞ、お前の護衛も依頼内容に含まれてるから仕方なく、だ! 死なれちゃ依頼失敗って事になっちまうからな」

 勘違いも何もない。依頼を遂行出来なければ、彼はSランクに昇格出来ないのだから。


 あ、そうか。

 だから、彼は本当は自腹を切ってでも結界を張りたいのか。

 万が一にも失敗しないように。

 まずい、私、そこまで考えてなかった。


 むしろ、彼にお金を借りてさっさと結界を張って、とっとと彼を解放してあげた方がいいのではなかろうか。拘束時間の長さの方が問題なのだろう。時は金なり。厳重な結界を張ってしまえば自分一人で出来る作業も増える。魔石の代金など彼からすればはした金だろう。

「あの」

「なんだよ」

「やっぱり、借りてもいいですか?」

「はあ? どうしたんだ、急に」

「いや、やっぱりその方がいいなって、駄目ですか?」

「や、駄目じゃねえけどよ」

 珍しく戸惑っているようだ。


 そりゃあ、そうだろうな。


 今ま頑なに断っていたのに、掌を返したように頼まれれば。

「じゃ、すいませんが、お願いします」

「ち、最初っからそうしてりゃいいんだよ、面倒臭ぇ奴だな」

「あのう、申し訳ないんですけど、できたら利子は低めに……」

「あ? 利子? いらねーよ!」

「え!? さすがにそういう訳には」

「いらねえっつってんだろうが」

 また、ぐるぐると唸る。顔がとても怖い。牙が剥き出しになっている。だからといって怯んではいられない。せっかく手に入れた有能な助手(どっちが助手だか分からないぐらいなのはとりあえず置くとして)を金銭トラブルでなくしたくない。

「こういう事はきちんとしないと、私はこんな事でウルバーノさんと気まずくなりたくないです。お金よりそっちの方が嫌です」

 俯いて言うと、なぜだか、彼は視線を泳がせた。


 がりがりがりがり……


 頭をかきむしっている。

「あー……、なんだ、その、魔石が一個使わないで余ってんのがあるからよ、お前、蓄力機に加工して使い終わったら俺に寄越せ。それでいい。加工するのだって無料じゃねえし」

「ええ!?」


 え? 余る? 魔石が?


 基本的に魔石は一般人が生のまま持つようなものではない。

 手に入れるのは極めて難しい。

 すでに出回っているものはとてつもなく高額だ。

 原石を手に入れる方法はいつくかあるが、一番手っ取り早いのは、ある種の魔竜の額の腫瘍の中に出来たものを切り取る事だ。魔力の保存庫として生成されるものらしく、長く生きている魔竜ほど大きくなる。

 ただし、その魔竜の外皮は鋼よりも固く、砲弾でも貫けないらしい。

 魔竜の死骸から拾い集められたものがほとんどだが、魔石を必要としているのは人間だけではないので、手に入るのはほんの少しだけ。原石は商人のうちでも限られた者しか扱いを許されず、国によっては番号を振られて厳重に管理される。


 それが、余るって。


 俄かには信じがたい話だ。

 だが、彼が嘘を吐く理由もない。Aランクの傭兵ならば確かに魔石を狩るくらい出来るのかもしれない。このヘドロに生身で浸かってびくともしないほどなのだ。私としても金銭を借りるよりも遥かに気が楽なのは確かだ。


 蓄力機作りは得意だし。


「それなら……まあ、えと」

「じゃあ、決まりだ」

「あの、ありがとうございます。頑張っていいやつ作ります」

「ああ、まあ、普通に使えりゃそれで、あんまり変なの作るんじゃねえぞ」

 なぜだかそっぽを向かれた。ぽりぽりと所在なさ気に首を掻いている。


 あんまり、信用されてないっぽいなあ。

 まあ、しょうがないか。


「ち、もう暗くなってきやがった。おい、今日中にそこまでやっちまうぞ」

「はい」

「おら、そこ、ずれてるぞ。もうちょっと力入んねえのか?! 次やったらお前の手ごと釘打っちまうからな」

「は、はい、すみません!」


 今日も汗だくだ。とても臭い。体中が痛い。

 たくさん怒鳴られた。

 だけれど、満ち足りている。

 前に進んでいる感じがする。

 ウルバーノさんが来てくれたおかげだ。


 私は汚れた防護服の中で、えへへ、とこっそり笑った。


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