第2話 Sランクの依頼

 ビジャ湖の畔のクベタはこのカーサス地方で最も古い大きな町で、今日も町の中心地は大勢の人や獣で賑わっている。

 沼の酷い臭いもここまではやって来ない。

 だからこそ外出は憂鬱だ。外の清浄な空気に鼻が慣れてしまった後で家に帰った時の臭さときたら。鼻が慣れるまではしばらく吐き気に苦しむ事になる。

 ビジャ湖が汚染されてから少し住民は減ったようだが、もともと窯業や鉄鋼業が盛んで、日雇い労働者の多い地区である。そのせいか、歓楽街も市場も様々な民族や文化が入り交じり独自の様相を呈している。


 若く美しい娘達が連れ立って歩いているのが見える。洋服でも買うのだろうか。金色の巻き毛、華奢な肩、白く細い足首、青い大きな瞳。

 私が求めて得られないものを生まれた時から持っている彼女達。


「……っ!」


 そのうちの一人と目が合ってしまった。

 咄嗟に私はローブを目深に被り、顔を隠しながら早足で大通りを急いだ。

 吹き出物だらけの醜い顔を人に見られたくないのはもとより、私が沼地に住む魔法機械工だと知れたら石を投げられるかもしれない。それでも、汚れて沼と同じ色になってしまった布のローブ、粗末な服、漂うヘドロの臭い。異様な風体は嫌でも人目を引いてしまう。


 きっと、みんな気付いているんだろうな。


 そう思うものの、私には俯く事しか出来なかった。

 今日は組合に違約金を受け取りに行くついでに食料品を調達するつもりだ。私の顔を覚えていて食糧を売ってくれない小売店もあるが、少し足を伸ばせば量販店がある。質の割に値段は高いが、背に腹は代えられない。


 私が手伝いを依頼している(逃げられてしまったが)傭兵とは、要は荒事専門の何でも屋のようなものを指す。

 それこそ、大きな戦争の際には、文字通り傭兵として戦う事もあるが、用心棒や、危険な場所での簡単な土木工事なども請け負う事もある。

 組合とは傭兵を派遣する仕組みの中核となっている組織で、だいたいの大きな町には組合の事務所がある。仲介料を取る代わりに、派遣した傭兵が正当な理由なく契約を反故にしたり、犯罪行為をしたりした場合には雇い主に違約金が支払われる取決めとなっている。

 一方的な契約破棄が数件、強盗まがいが一件。


 結構な額になるはずだが、全く嬉しくはない。


 繁華街を抜け、庁舎や商工会議所のある通りの石造りの大きな建物が組合の事務所だ。

 扉をくぐると中には大勢の傭兵達が広間に屯していた。ビジャ湖が魔物の巣窟となったせいで、近隣の工場からも魔物の被害の届け出が相次いでいるそうだ。護衛を依頼された傭兵達もここには大勢居るのだろう。居たたまれなくなってさらに俯いてしまった。


 それにしても人が多い。


 ここのところ、一人で家に籠って魔法機械の修理をするか、沼の畔で怪物達に怯えながら作業をするかのどちらかだったので、喧噪に圧倒された。

 大きな作戦に参加する一団が指揮官から説明を受けていたり、柄の良くない傭兵同士が小競り合いをしていたりと実に騒がしい。


 禁欲的な双眸で掲示板を見上げる虎の頭の獣人が毛むくじゃらの大きな手で手帳に何か書きつけている。

 忍耐強く強靭な肉体を持つ彼らは仕事を疎かにしない。

 最も信頼できる傭兵は獣人だと言われている。誘惑にも強く、異界の魔物を退けて返り討ちにしたという昔話の主人公はたいていが獣人だ。

 獣に近いその外見から、蔑視の対象となる事もあり、特に選民意識の強い妖精達にその傾向が強い。悪魔よりは数が多いものの、最も希少な種族のうちの一つだ。


 依頼受付の窓口では尖った耳に眼鏡をかけた褐色の肌の妖精が気難しい顔で係員に文句を言っている。

 悪魔には及ばないものの、強い魔力、優れた頭脳、美しい容姿を持つ彼らは誇り高い種族だ。

 冴え冴えとした銀や白の髪、青や灰色の目が褐色の肌に良く映える。

 そのため、他の種族を劣等種族として蔑視する傾向があるが、人族の学者によれば、それは悪魔への劣等感の裏返しなのだとか。

 妖精は自分たちが悪魔に劣っている、ましてや歪んだ憧れを抱いているとは決して認めないが、一定の周期で妖精の若者達の間で、肌を白くする化粧が流行るのは周知の事実である。

 勿論、妖精の全てが差別主義者という訳ではない。昨今では極端な差別主義者は減りつつあり、おおっぴらに差別意識を露わにするのは一部の貴族だけだ。私の知る妖精もほとんどが気さくな良識人である。

 学者肌で、統率の取れた行動が得意な彼らは研究や学問の世界で常に他の種族を圧倒する。


 私と同じように丸い耳をした人族の男が待合室の長椅子で昼間から酒を飲んでいる。

 惰弱な肉体と精神を持つ我らが同族だ。

 誘惑や快楽に流されやすく、魔力も弱いものが多い。しかし、精神の自由さは多彩な発想を生む。この地上において最も柔軟な種族と言われている。

 今では公共施設として当たり前となった瞬間転送機の基礎を築いたのは人族の学者であるし、初代の魔法機械工は人族と言われている。

 妖精には数が多いのだから当たり前だと鼻で笑われるが、その数の多さが人族の多様性を支えているとも言える。

 他の種族との交配になんら支障がないのも人族だけだ。

 他の種族同士の交雑では出生率が著しく低下する。そして生まれる子供もどちらの種族ともつかない者が生まれる事が多い、という噂だ。

 残念ながら、もともと他種族同士の結婚では子を授かる極端に可能性が低いため、混血は非常に少なく、噂の真偽を確かめるのは困難なのが現状だ。

 しかし人族と他種族が交配した場合には出生率の低下は見られない。ただし、生まれてくるのは皆、人族以外の他種族である。本来ならば数が減っても良さそうなものだが、他の種族よりも基本的な繁殖力は強いので、依然として数的優位を保っている。


 ケラケラと大きな笑い声がしたので思わず振り返ると、異常に美しい悪魔の若者がオレンジ色の瞳から涙を流してお腹を抱えていた。

 悪魔にとって異常に美しい容姿をしている事、若い事、いつも楽しそうな事はごく普通である。

 もっとも彼らの外見はみな若いので、笑っている彼が本当に若いのかどうか尋ねてみるまでは誰にも分からない。


 彼らは、一言で言えば、異常、だ。


 種族として、というよりも生物としてある一点で自然の摂理に反しているとも言える。

 強大な魔力、飛び抜けた知能、身体能力、長過ぎる寿命、そして例外なく美しい容姿。大抵燃え盛るような赤や桃色、橙の髪と目の色をしているのが特徴だ。

 異常に美しい事を除いては人族とほとんど変わらない姿をしているが、彼らは根本的に人族や獣人、妖精とは異質な存在だ。

 出生率は著しく低いものの、彼らには先天性の病や奇形という概念は『ない』。

 一度、生まれ出でてしまえば、誰もが毀れのない悪魔だ。これについては様々な説があるが、受精卵の段階で徹底的な淘汰が行われるため、という説が有力だ。このため、近親婚に対するタブーもなければ、血族意識も希薄である。


 彼らの別名は『誘惑者』。


 もちろんこれらの種族別の傾向は飽くまで傾向に過ぎない。生真面目な悪魔やだらしない獣人も居る。しかし、例外はあるにせよ、悪魔に関わると碌な事はない。これは経験から学んだ事実だ。

 目が合ってしまわないうちにさっさと用を済ませる事にした。

「すみません、違約金の受け取りをしたいのですが」

 受付に寄りかかって声をかけるが、人族の男の職員は私に気付くとあからさまに嫌な顔をして去って行った。同僚に声を掛け、こちらを目で伺いながらヒソヒソと何か話している。

「また、来やがったぜ、あの女……」

「ああ、沼地の……」

「気味悪いぜ、全く」

「ダフネ所長が甘い顔するから付け上がるんだ」

「土地を元に戻すって言って何年になるんだ?」

「何が、違約金だ、守銭奴め。とっとと賠償金でも払えってんだ」

「こんな所に来る暇があったら沼の掃除でもしてろ、臭ぇんだよ」

 残念ながら全て聞こえてしまった。

 悲しいが、いつもの事だ。

 いちいち反応してはいられない。

 今度は人型になっている獣人の女性職員に窓口から呼びかけた。白い短髪から同色の白い三角形の耳がピンと立っていて可愛らしい。

「すみません、あの違約金の件で……」

 彼らは頭部が完全に獣の状態の獣型、耳と尻尾だけに獣の特徴を残した人型の二つの姿を持っていて自らの意思で変化する事が出来るのだ。

「ああ、はい、先日の件ですね、ダフネ所長から聞いています」

 尻尾の形からすると猫だろうか。彼女に受付で対応してもらうのはもう何度目かだが、彼女の種族を詳しく聞いた事はない。

 白い頬は艶やかで薄紅色の唇が美しい。檸檬色の瞳が瞬く。ふわりと花の香りがした。私は自分の吹き出物だらけの顔が心底恥ずかしくなって自然と俯きがちになる。息も臭いかもしれない。

 咄嗟に口元を指で押さえた。

「……っ」

「……?」

 怪訝な顔をされてしまうが、彼女はすぐに私に対しての気遣いに由来する作り笑いで対応してくれた。

「すぐ用意いたしますね。あ、ダフネ所長は今帰ってきたところですよ。会って行かれますか?」

 背の高い私を下から覗き込むようにして、にっこり笑って申し出てくれるが、余計に気後れしてしまう。


 私がこの娘みたいに可愛かったら、傭兵達も逃げて行かなかったのかな。


 沼の周りに住んでる人達とも、もっとちゃんと話し合う事が出来たのかな。

 帰りたい。独りになりたい。もういやだ。


 ふいに負の感情がわっと襲ってくる。


 どうしてだろう……

 傭兵や受付の男に何を言われても平気だったのに。


「やだ、ちょっと、どうしたの、ドロテア! 酷い顔!」


 良く通る声がして顔を上げるとターコイズブルーの鮮やかな瞳に心配そうな色を浮かべた銀髪の妖精が立っていた。


 組合の女主人のダフネだ。


 小柄だがメリハリのある身体つきも、すべすべの褐色の肌もどうみても二十代だが、これで私の母親と言ってもおかしくはない歳なのだから妖精の若作りときたら恐ろしい。

「所長、おかえりなさい、今ちょうどドロテアさんがいらしたとこなんです」

「ダ、ダフネさん……」

 折れそうになっていた気持ちを奮い立たせて彼女を真っ直ぐに見る。

 落ち込むのは後だ、私はまず彼女に謝らなければいけない事がある。

「ダフネさん、ごめんなさい。せっかく人を紹介してもらったのに、私また……」

「ああ、もう、そんなの後でいいから! とにかくこっち来て! あ、ブリサ! 違約金の用意お願いね」

「はーい」

「え、ちょっ、わ!」

 踏ん張りもむなしく背中を押され、腕を引かれ、私はダフネの自室に押し込まれた。




「……それは、大変だったわね」

「本当にすみません。私が不甲斐ないばかりに」

 事情を一通り話し終えた私に、ダフネは温かいお茶を用意して椅子を勧めてくれた。小柄な体がてきぱきと動く様は小気味良い。勧められるままに花柄の布張りの長椅子に座ろうとして思い留まる。

 シャワーは浴びたが、私にはヘドロの臭いが染み付いているに違いない。布に臭いがついたら大変だ。結局、長椅子の脇に置いてあった小さな木の椅子に腰かけた。

 ダフネはそんな私をちらりと見て少し悲しそうにするが、諦めたようにため息を吐くだけで、それに関しては何も言わなかった。

「いいえ、謝るのはこっちの方だわ。たちの悪い傭兵ばかり、ごめんなさい」

「そんな、ダフネさんが優先して人をまわしてくれなかったらとっくの昔に志願してくれる人自体、居なくなってます」

 言いながら気が付いた。こんな内容はあの場ではとても話せないものだった。依頼主達に聞こえてしまったら、この組合の派遣する傭兵はすぐ逃げ出す上に、しまいには強盗までしようとする、などという噂が立ってしまうかもしれない。だから、ダフネは自室に私を招いたのだろう。


 私、何にも考えてなかった。自分の事ばっかりで。

 こんなだから、何をやっても駄目なのかな。


 ますます、申し訳ない。

 ただでさえ、ダフネは私と親しくしているせいで受付の職員にすら苦言を呈されているようなのに。

「ちょっと、本当にどうしたのよ。黙っちゃって」

 ダフネの尖った耳がしんなりと下がってしまっている。

 ダフネは優しい。

 以前、私が町の住人から石を投げられて怪我をして歩いている時にも声をかけてくれた。私の臭いにも構わず、小奇麗な自室に招き入れてくれた。それから、私の怪我を高度な治癒魔法を使って一瞬で治し、今のように美味しいお茶を出してくれた。

 その時からずっとダフネは私の憧れだ。

「ごめんなさい」

「大丈夫よ、元気出して、と言いたいところだけど」

 ダフネは言葉を切った。

「ドロテアは組合の依頼のランクの仕組みは知ってる?」

 深刻な表情に思わず姿勢を正した。

「あ、はい、少しなら。E~Aの五段階、その上にSランクの超難度。傭兵にもランクがあって、難易度の高い依頼はそれなりのランクの傭兵でないと受けられないんですよね」

 そもそも傭兵という呼称を使用するためには、まず所定の試験に合格しなければならない。戦闘能力を試すものが主だが、最低限の社会的知識も必要とされると聞く。

 ランクは依頼を成功させる事で徐々に上がっていく。Eランクを既定の件数だけ成功させるとDランクを引き受ける資格をもらえ、Dランクを成功させると次はCランク……というように。

 言うのは簡単だが、傭兵がランクを上げるのはとても大変な事なのだそうだ。

 惜しくもCランクへの昇格を逃した人族の傭兵が物凄い剣幕で受付に喰ってかかっているのを見た事がある。

 特にAランクからSランクへの昇格は難しいらしく、Sランク傭兵というのは、一つの国に数人しか居ないとか。

「そう、ランクは依頼されたその時に、組合側で内容を勘案して初期設定するんだけど、傭兵達が任務に失敗すると任務のランクがどんどん上がっていくのは知ってた?」

「……、いいえ」

 嫌な予感がする。

 私の依頼に関しては『失敗された』というのは少し語弊がある気がするが。

「要は違約金が支払われるような形で任務が終了すると、その任務は難しい、という扱いになってしまうのよ。実際の任務がどんなに簡単な内容であってもね」

 やはり。

「という事は、私の依頼は……」

「そう、初期設定ランクは立派なEランクだったのに、とっくにAランクの扱いになっていた。そして、今回Sランクに見事昇格というわけ」

 ダフネは溜息を吐きながら大袈裟に手を広げた。


 なんだそれは、酷い。傭兵側がランクを上げるのは物凄く大変なはずなのに、依頼のランクは簡単に上がり過ぎでしょう!


 けれども組合も慈善事業でやっているわけではない。

 依頼を途中で放棄すれば傭兵自身も無傷では居られないのだ。もちろん報酬はパーになり、昇格試験中であればその後1年は昇格試験の資格を剥奪され場合によっては降格もありうる。それほどまでの損失を甘んじて受けてでもやりたくない任務、任務自体に何か問題があるのでは、と組合側に考えられても仕方がないと言える。

「じゃ、じゃあ、同じくSランク傭兵の方にしか私の依頼を受けてもらえない……?」

「まあ、そういう事になっちゃったわね」


 だから傭兵達の態度が人数を経るごとに尊大になっていったのか。


 ランクの高い傭兵はえてしてプライドが高い。給料も安く(Eランクとしてはけっして安くはないと思うが)、汚い、臭い、気持ち悪い女が依頼人(自分で言って悲しくなる)の四重苦に耐えてまで仕事をこなしてくれる人はなかなか居ないだろう。正直、私だってもしも私のような女が依頼人だったら尻込みする。

「だって、えっと、あの、Sランクの傭兵さんなんかカーサス地方に何人も居ないじゃないですか。クベタ周辺にはそもそも居ないんじゃ……?」

「いえ、居るわ、一応ね、気難しいのが」

 そう言ってなぜか、ダフネは困ったように目線を上に走らせる。


 なんだろう……誰か上に居るのか?


 少し気になったが今はそれどころではなかった。

 いや、数が少ない云々の問題ではない。Aランク、Sランクの傭兵と言ったら、皆かなりの財産持ちだ。こんな依頼は絶対に受けないだろう。

「どうする? 報酬を上げてもうちょっと募集を続けてみる?」

「いや、お金もないし、もともと報酬は私に出せる範囲で一番高くしてあるので、もう無理です」

「そうよね、そう言ってたわね。これは絶対に他言無用にして欲しいんだけど、私がちょっと書類を弄ればEランクに戻す事も出来るのよ。依頼内容を適当に語尾だけ変えて書き換えて、依頼人もブリサあたりに名義を借りて、全く別の依頼としてもう一度申請し直せば……」

「駄目ですよ。規則違反でしょう? ダフネさんにはそれでなくてもお世話になっているのに、そんな危ない橋を渡らせられません」

 組合という組織は信用が命なのだ。ランクや依頼内容に虚偽があると知られれば、傭兵達は寄り付かなくなる。その組合は潰れてしまうだろう。

「……そう言うと思ったわ。もういっその事、専門学校時代のお友達とかに個人的に紹介してもらった方が早いんじゃない?」

「私、あんまり友達多くないし、その数少ない友達は皆私と同じで戦闘が得意じゃないんです。なんせ魔法機械工ですから」

「なんか、有名な人が居たじゃない、ホロス社の社長の」


 エンリケの事か。


 知り合いの悪魔の、その天上の物のような美しい顔、真紅の瞳が思い浮かんでさらに暗い気持ちになった。


 彼はまさに悪魔。


 時折現れては、人の願望と劣等感を知りぬいた上で、最も効率的に相手を傷つける言葉を選んでまき散らす。

 だがしかし、飽くまで気まぐれに、唐突に、去っていく。

 数か月前にも彼は無駄に高性能な自作の瞬間転送機で私の家までやって来て(よりにもよって浴室に現れた! しかも入浴中に!)、臭いの汚いの貧乏くさいだの、君にはぴったりだねと、蕩けるような声で囁いた。全く、妙齢の女性であるはずの自分が自らの手で一生懸命に身体を隠しているのが馬鹿らしく思えるような色気であった。そして、何故か彼の美しい桜貝色の髪の毛を三つ編みに結んでいた黒いリボンを艶めいた所作ではずし、嫌がる私の痛んだ茶色の髪の毛をそれで結んで、満足そうに帰って行った。

 嬉しそうに、君の髪の毛、痛んでいるね、僕の指の方が痛んでしまいそうだよと言った。


 正直言って、何を考えているのかさっぱり分からない。


 ただ一つ分かるのは自分が彼にとてつもなく馬鹿にされているという事だ。


 無理やり付けられた上等なリボンはその日のうちに沼に投げ込んだ。思い切り。いくら私とて、そのくらいの憂さ晴らしはするのだ。

 あの頃はちょうどスライムの繁殖が軌道に乗り始めた頃で、まだ沼の瘴気はそれほど濃くもなかった。


 あの頃に防護柵の設置を思いついていれば水車が壊れる事もなかったのに……


「彼にはすでに賠償金を肩代わりしてもらってるから、ていうか、奴に頼るのは本当の本当に苦渋の選択だったんですよ。友達にだってやめとけって言われたけど他にどうしようもなくて、この上さらに何か頼んだらどうなる事か! そもそも奴は友達でもなんでもないんです。私がどうなろうと知ったこっちゃないでしょう」

「そう……、そうは見えないけどねえ。でもまあ、変に面白がらせてしまうのは上手くないかもしれないわ」

 鼻息荒く主張する私にダフネは上品に首をかしげた。

「そうなると、あとは、あの巨きな竜の大家さん……グアルディオラさんとか」

 彼女の言っているのはビジャ湖の主の気の好い水龍の事だろう。

 父の友人である彼は住処を奪われて酷い目にあっているというのに、父の死後も私に目をかけてくれている。だが、聖なる水龍様の身体は瘴気に弱いらしい。

 水龍が人化した姿である髭の巨漢はすまなそうに身を縮めて竜谷の親戚のところへ引っ越すと言っていた。

 申し訳ないのはこちらの方だ。謝られて、逆に土下座したくなったのを思い出した。

「今は竜谷で瘴気に当てられた身体を休めているみたいで、とてもじゃないけど、そんな事頼めません……」

 そこまで言って、はっとした。

「すみません、せっかくいろいろ考えて下さってるのに……、私もどうしたらいいか分からなくて」

「だから謝る事じゃないわ。手伝ってあげたいけど、私、魔法は治癒・回復専門で……」

「何を言ってるんですか、とんでもない! 組合の所長の仕事、忙しいでしょうに。ちょっと自分でなんとか頑張ってみます」

「ダフネ所長、怪我人です! 傭兵同士の喧嘩で、だけど結構深いみたいなんで一応来てもらってもいいですか?」

 タイミングよく、ドアの向こうからダフネを呼ぶ声がする。忙しくなりそうな気配だ。

「本当にいろいろありがとうございました。長居しちゃってすみません。お茶、とっても美味しかったです」

「え、もう帰っちゃうの? もうちょっとゆっくりしていったら? ああ、そうそう! この間話したお肌にいいっていう沐浴剤が二階の浴室にあるんだけど、ちょっと取ってくるから持っていきなさいよ」

 呼ぶ声を無視して、繊細なレースの裾を翻し階段を駆け上ろうとするダフネを押しとどめた。迷惑はかけたくない。

「ダフネさん、さっきのブリサさんでしたっけ、呼んでますよ?」

「いいのよ、喧嘩でしょ? 待たせとけば」

「そういうわけにはいかないでしょ」

 苦笑して荷物を抱え直す。

「しょうがないわね、また寄って! 美味しいお店見つけたのよ。今度、一緒に食事でもしましょ! あんな沼地にこもってたら、いい案も浮かばないわ。気晴らしも大事よ」

 ターコイズブルーの鮮やかな瞳を悪戯っぽく微笑ませて、ダフネはその細い指をぴんと立て、自らの唇に寄せた。

「ありがとうございます。楽しみにしてますね! そうだ、この間、ダフネさんが読みたいって言ってた本、父の部屋から見つけましたよ。今後持ってきますから」

 言いながら、私の笑顔が不自然に引き攣っている事が自分にも分かった。

 綺麗な妖精と二人で笑いながら楽しく昼食を食べる、ただそれだけの事が今の自分にはとてつもなく分不相応な気がした。


 ダフネみたいに綺麗な人ならSランクの傭兵さんも喜んで依頼を引き受けてくれるのかもしれないなあ。


 駄目だ、私さっきからこんな事ばっかり考えてる。


 本当にいじけた嫌な奴だ。

 優しいダフネが好きなのに、劣等感で押し潰されそうだ。さきほど対応してくれた白い猫耳の女性、ブリサに違約金の封筒を貰って、逃げるように組合を後にした。


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