沼地のドロテア

八鼓火/七川 琴

第1話 沼地の魔女

「やあ、いつ来てもここは臭い! 肥溜めみたいだ。根暗で卑屈で誰からも気味悪がられる君にぴったりだね。ここに居ると落ち着くだろう、ドロテア? 誂えたような住処を与えて下さった君のお父様には感謝すべきだね」


 高らかな笑い声を響かせて、一人の悪魔が近付いてくる。

 濡れた風呂場のタイルの上を上等な革靴で歩く男、その瞳は血よりも赤く禍々しい力に満ちている。特徴的な三本三つ編みの桃色の髪を掻きあげながら、彼は嗤った。あまりに美しい彼は見るものに背徳感を抱かせずにはおかない。

「この僕がわざわざ来てやったんだ。返事ぐらいしろ。いくら君が馬鹿でもそれぐらいは出来るだろ?」

 天上の物のように耳に心地よい美声であるはずなのに、暴力の匂いすら漂う乾いた恫喝だった。

 彼が屈んでぐっと顔を近づけたので身体が勝手に震えた。水面がさざ波立つ。

「嬉しくて声も出ないかい?」


「え、エンリケ……っ」


 彼の凶暴性や悪辣ぶりは身に染みている。怖くて堪らない。

 私を辱める言葉は心に刺さるが、暴言は彼という厄災のほんの一部に過ぎない。今すぐ走って逃げたいが、そうは出来ない事情があった。

「ははは! そんなに一生懸命身体を隠さなくったって大丈夫さ、君の醜さは良く知っている。君がどんなに貧相な裸を晒そうと僕は狼狽えたりしないから安心していいよ」

「……っ」


 私は自宅で入浴中、つまり全裸だったのだ。


 彼から逃げ出したくても、両腕で自らを抱き猫脚の湯船の中でしゃがんでいるしかなかった。痛んだ茶色の髪は濡れて背中に張り付き腐った落ち葉のよう、顔の吹き出物は湯に火照ったせいで赤く盛り上がっている。雨に濡れた病気の野良犬よりも惨めな様で、この世の物とは思えぬほどに美しい男の前で私はただ震えている。

 彼にわざわざ言われるまでもなく、自分の身体が隠す価値もないものだという事は分かっていた。だからと言って開き直って身体を曝け出す事など出来ない。

 見上げると真紅の瞳が細められた。

「今日は君に贈り物を持って来たんだ」

 彼は艶めいた所作で美しい淡紅色の三つ編みからリボンを外した。ひらりと流れる黒いそれを白く長い指に絡ませて私に見せた。光沢のある起毛の布地だ。一目で上物と分かる。

「これを君にあげよう」

 エンリケは底の見えない空虚で美しい笑みを湛えて囁いた。

「い、いらない!」

 咄嗟に申し出を拒絶していた。彼から何か受け取るなど時限爆弾でも受け取った方がまだましだ。

 だが彼が意に介するはずもない。

「つけてあげる」

「い、いらないよ!」

「君の髪、傷んでるなあ……僕の手が荒れそうだ」

「やめてってば!」

 必死で身を捩って嫌がるが、身体を隠したままでは限界がある。

 エンリケはしなやかな腕で私の肩を掴み淡々と作業を開始する。無慈悲なまでの手際の良さ、そして腕力、この細い身体のどこにそんな力があるのだろう。

「……っ! ……わ! やだ!」

「禍福は糾える縄のごとし……」

 暴れる私の髪を掴んでいるとは思えないほど静かな声でエンリケは告げる。

「どんな物事だってそうさ……僕も君も、何かを得るからには何かを失わなければならない」

「……?」

「さて、これでよし」

 エンリケは私に無理やりその黒いリボンを飾って微笑んだ。

「酷いなあ、そんなに嫌がる事ないだろ? 君が絶望する回数を減らしてやった僕に感謝して欲しい」

「ぜ、絶望?」

 咳き込みながら聞き返す。エンリケから逃れようと何度か湯船に沈んだおかげで鼻に水が入ってしまったのだ。


「鏡を見ないで済んだじゃないか」


 彼の禍々しい深紅の瞳には嘲り以外の色などないように見える。

 いつだってそうだ。

 エンリケは私がどんなに嫌がっても結局は自分の思う通りにする。私の自尊心を踏みにじる言葉を敢えて選び、勝手に何かを押し付け、私の行動を何もかも読んで翻弄する。彼の考えている事が私には何一つ分からない。彼から何かを読み取ろうとする努力がどんなに虚しいものか、私はもう知っているはずだ。悪意以外の感情を彼が私に悟らせる事は決してない。

 

 それなのに……


 時折彼に対して感じる恐怖と同じぐらいの訝しさ、その訝しさに囚われてもう何年が過ぎたのだろう。

 その幻かもしれない訝しさの微かな香を嗅ぎたくて、傷付くだけと分かっているのに彼の瞳を見つめるのをやめられない。

 

 今もまだ


 

 そしてたぶんこれからもずっと。



 こうして彼と会った記憶を何度も繰り返し夢に見てしまうほどに。



***



「待って下さい! せめてお話だけでも……」

 薄暗い沼の畔で私は傭兵の男に必死で追い縋った。

「うるせえ、触んなブス! 気持ち悪いんだよ!」

「痛っ!」

 撥ね退けられ、バランスを崩して尻もちをつく。水の浸み込む嫌な感触があった。

 男は倒れた私を忌々しげに見下ろし吐き捨てる。

「ったく、汚れたじゃねえか! 臭くてしょうがねえ、こんなところ一時間だって居られるか!」

 舌打ちをしながら走り去って行く。

「あ、待って……!」

 すぐに立ち上がって追いかけようとしたが、自分の前掛けを踏んで無様に転んだ。こちらは大荷物、すでに男は深い森の中だ。追いつけるわけもない。


 汚い、臭い、気持ち悪い、……まあ、無理もないか。


 溜息を吐いた。

 沼を振り返ると、緑とも灰色とも茶色ともつかない淀んだ色のすでに水というのもおこがましいような液体が強烈な腐臭を発している。耳を澄ませばポコッ、ポコッと小さな音が聞こえてくる。発生するガスが泡を作る音だろう。水面にはところどころに虹色の油膜が張っていて蛆の湧いた動物の死骸も浮いている。

 沼の向こう岸は靄がかかって見えない。瘴気があまりに濃いために可視化して霧となっているのだ。上空では時折ギャァともグェエともつかぬ声がする。瘴気に呼び寄せられた怪鳥の鳴き声だろうか。

 沼の中には何かもっと大きな気配もする。

 無防備に尻もちをついたままでは、いざという時に逃げられないので、とりあえず立ち上がるが、背負った荷物(厳つい防護服だ)の重みでまたよろけた。膝丈のワンピースは泥で汚れてしまった。どうせ半分作業着の薄汚れたものだが洗う手間が惜しい。そして、このあたりの泥はとてつもなく臭い。


 こんな事なら防護服を着てから日雇い助手を迎えに来ればよかった。


 日雇い助手となる予定だった男には気味悪がられて逃げられてしまったのではあるが。

 実は以前、防護服を着たまま傭兵を迎えに来た事があるのだが、私を見た瞬間に逃げられた。挨拶すら出来なかった。


 防護服で顔を隠していたら怪しまれ、素顔で行けば顔の吹き出物を気味悪がられ……

 どうしろと言うんだ。


「はあ……」

 これでもう傭兵に逃げられるのは六人目だ。ダフネの厚意をまた無駄にしてしまった。

 俯いた瞬間に私の吹き出物だらけの額に前髪が落ちかかる。痒みを感じ咄嗟に手で払おうとしたが、手が泥に汚れているのを見て思いとどまった。顔に付いたら吹き出物が余計に酷くなってしまう。


「……どうせ私はブスです……よ」


 私、ドロテア・スニガは肩を落として荷物を背負いなおすと、沼から少し離れた我が家に引き返す事にした。


 数年前までこの沼、ビジャ湖は観光の呼び物となるほど美しかった。沼には大きくて気の好い主の水龍が住み、休日には釣り人やボートに乗った恋人たちで賑わった。沼の畔の森は美しく豊かで、良質な材木を産出した。

 それをヘドロと瘴気の沼に変えたのはアルバロ・スニガ、魔法機械工である私の父だ。

 カーサス地方の領主に生活排水の処理を依頼され、ビジャ湖を利用しようとしたが失敗し、三年前、沼の毒に冒され失意のうちに父は死んだ。父の後を継いで魔法機械工となった私はこの沼地の浄化を続けている。

 この沼、ビジャ湖はただ水質が汚染されただけでなく、父が沼を浄化するために作り出したスライム達が暴走したために沼自体が瘴気を出すようになってしまった。瘴気は怪物を呼び寄せる。沼の周囲の森と湖水地帯は怪物の巣窟となった。酷い臭いもあり、とても人が住める環境ではなくなった。

 周辺の不動産の価格が大暴落して大地主の富裕層が損をしただけではない。慎ましく暮らす庶民達も生業としていた林業を手放さざるを得なくなった。

 林業は息の長い産業だ。先祖代々作り上げてきた人工林も豊かな自然林も沼の瘴気の影響で、もはや戦闘能力を持たない一般人が安全に作業を行える森ではなくなっていた。森とともに生きてきた彼らにとって、ビジャ湖の周辺の森は生活の糧という以上のものであったに違いない。

 彼らの多くは工場で働く事を余儀なくされた。このところ急激に発達した窯業や鉄鋼業のおかげで職にあぶれる事はなかったようなのが不幸中の幸いだ。しかし、そもそもビジャ湖が汚れた原因はこれらの工場の無秩序な増加にあるので、皮肉な話ではある。

 周辺住民は土地を台無しにした父に賠償を求めた。当時のカーサス地方の領主は住民の訴えを聞き入れ、父に賠償金の支払いを命じた。父の依頼主は領主であり本来であれば行政にも責任があったはずだが、住民達はまず最初に父を訴えたのでこれ幸いと責任を押し付けられたのだろう。

 彼らは父を、そして跡を継いだ私を恨んでおり、うっかり目が合ってしまうと凄まじい目つきで睨まれる。賠償金の支払いが滞っているからだ。とは言っても、私はすでに知人の悪魔に無心した金で行政側への支払いは終えている。住民への賠償金の分配は行政側の仕事だ。私にはどうする事も出来ない。


 エンリケ……

 

 知人の悪魔、エンリケ・バジェステロス、彼の禍々しい赤い目が脳裏をよぎる。

 今朝の悪夢を思い出して胸が悪くなった。この天敵にして恩人の男の暴力的なほどに美しい笑顔が私はこの世で一番恐ろしいのだ。

「……っ」

 頭を振って彼の幻影を追い払う。


 産業の発展に伴い、下水処理問題はもはやこのビジャ湖のものだけではなくなった。この事業をなんとか成功させ、技術を他国に売りつける以外に借金を返済する当てはない。


 どんなに忌み嫌われようともやるしかない。

 私だって魔法機械工の端くれだ。


 ビジャ湖の畔に住む人々からはたまに石を投げられる事もあるが、汚水処理自体の邪魔はしないようであったし、多少の嫌がらせなど耐えれば済むことだ。そもそも悪いのはこちらなのでこの酷い扱いに対して文句は言えない、と思っていたのだ。


 つい数か月前までは。


 どうやら、この数年のうちにビジャ湖はヘドロの沼として知れ渡り、何を捨てても良い、と思われるようになってしまったらしい。

 数か月前から車や魔法機械の残骸などの粗大ごみが沼に目立ち始めた。明らかな違法行為である。領主にも協力を仰ぎ『不法投棄禁止』の立て看板を作り警備を要請した。

 そうこうしているうちに、流れ着いた大きな廃棄物が私の作った浄化用施設の水車の中に引っかかってしまった。

 これは私のミスでもある。

 当然想定しておくべき事態であった。浄化施設のある溜め池の取水口に大きなゴミをせき止める柵を作っておけばこのような事態は防げたはずなのだが、思いつかなかった。

 悔やんでも始まらないので二度と同じ事を繰り返さないで済むよう柵を取り付け、故障した水車の修理を開始しようとしたが、これが言うほどには簡単ではなかった。

 水車の故障のために汚水処理が滞っている間に瘴気が濃くなり、沼には怪物が増えてしまっていたのだ。柵の設置のためには沼に(正確には溜め池と沼の境目に)入らなければならないが、沼には瘴気に呼び寄せられた小山程もある人食い魚が出現するようになっていた。

 一人では作業に夢中になっている隙に怪物に喰われるのがおちだ。

 魔法機械工としてある程度の魔法の心得はあるが、戦闘はからきしなのだ。魔法機械に関する以外で私が使えるのはごく弱い防御魔法と治癒魔法ぐらいである。

 本気で人食い魚を駆逐しようと思うなら罠でも仕掛けるしかないのだが、罠を仕掛けるには柵を設置する以上の手間がかかる。やはり油断している間に食われてしまうだろう。

 そこで、手伝いを雇う事を思いついた。

 私が作業をしている間、見張ってもらうのだ。そうすれば、怪物が襲って来たらすぐに逃げられる。出来れば出費は避けたいのだが、このまま手をこまねいていては今までの苦労が水の泡だ。

 幸い近所の組合には知り合いが居た。

 組合を介して傭兵を雇うのは初めてではない。魔法機械に必要な大きな器材を運んでもらった事もある。

 近所の組合の女主人、美しい妖精である彼女、ダフネ・カスティスは私の数少ない話し相手でもある。事情を話したところ、日雇い助手の仕事を組合の正式依頼として募集してもらえる事になった。

 やって来た一人目の傭兵は沼に着くなり吐き気を堪え切れず涙目になりながら去って行った。二人目は私の異様な服装(沼地での作業を安全に行うための防護服)と、顔の吹き出物(沼地に住むようになってから私の顔はいつも酷い有様だ)を気味悪がり逃げて行った。三人目は私を沼に突き落とし金を奪って逃げようとした(この時ばかりは必死で捕まえて金を取り戻した)。四人目、五人目も似たようなものだった。


 そして今日ついに六人目に逃げられた。


「はああ……」

 私は今日で何度目かの溜息を吐いた。


 人の悪意には、慣れた。


 だがせっかくの善意を有効活用出来ない自分の情けなさには慣れる事が出来ない。

 沼を取り囲む森の中に私の家はある。沼からは少し離れている。浄化施設よりは少し町に近いとは言っても辺鄙な場所だ。沼へ通うのが苦でなくて、沼の臭いがやって来ないぎりぎりの距離がここだった。


 いや、本当に臭わないかどうかは怪しいものだ。


 私の鼻はもうヘドロの臭いに慣れ過ぎて馬鹿になってしまった。私の身体にはもう自分でも分からないほどに沼の臭いが染み付いているのかもしれない。

「よいしょっと……」

 家の裏手の引き上げ式の鉄の扉を開ける。

 家は工房と住居が一体となっており、離れには沼の水を落とすためだけに使うシャワー室を設けてあった。基本的に、このシャワー室を通らないで家の中に入る事はしない。そうしないと家の中がヘドロの臭いでいっぱいになってしまい、食事にも差し支える。

 ガチャガチャと音を立てて背嚢から防護服を取り出し、シャワー室の床に置く。竜の皮を加工して作ってあるのでかなり重い。

 防護服は二着ある。

 自分用の試作品、これは父が作った。そして手伝ってくれるはずの人のために私が作った改良品だ。今私が使っている父の物よりも軽くて通気性も良い。

 硬い魔竜の皮を加工するには特殊な技術と根気が必要だ。手伝いを雇う事を思いついてから一念発起し改良版の防護服を開発したのだが、結局一度も使われないままなので綺麗なものだ。


 せっかく頑張って作ったのに。


 胸がきしむ。

 だが、もう心のどこかが麻痺しているのかもしれない。私の体は手際よく慣れた作業を進めていく。防護服をざっと水で流し、洗浄機に放り込む。ヘドロで汚れた服もついでに洗う。

 下着姿で動き回っていた時にふとシャワー室の鏡が目に入った。


 疲れた顔の痩せた女がそこには居た。


 まだうら若いと言っても許される年齢のはずなのに、すでに婚期を逃して久しい女のような顔だった。

 顎のあたりで切りそろえた茶色の髪には艶がなく、梳っているはずなのにボサボサだ。後ろ髪は吹き出物が悪化しないようにバッサリ切り落としたばかり、前髪も眉毛が出るほどに短くした。苔むした森のような緑の目には生気がなく、あの嫌な沼の色に似ている気がする。

 頬や額には黄色い膿のついた赤い吹き出物が無数にあり今にも弾けそうだ。肌は白いが毎日きつい肉体労働をしているせいかやたらと筋肉質で骨ばっている。元々大柄なので余計にそう見える。

 ついでに言うと貧乳だ。

 もともと容姿に恵まれた方ではなかったが、この沼に来てからはさらに酷い。自分の醜さは知っている。長くもない人生だが、たくさんの事を諦めてきた。けれども、こうして改めて目にすると、心の中で何かが干上がっていくような気がした。


 何か、たとえばなんだろう。


 若いうちは誰でも持っているはずの自分の人生に対する淡い期待だとか、きっとそういったものだ。


 この女が私か、ドロテア・スニガか。

 鏡を見て絶望する回数を減らしてやった……ね、エンリケの言う通りだ。

 これは、気味悪がられても当然かも。


 嗤う声はシャワーの音にかき消された。

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