番外編 いのち 大地に
「ただいまー!」
玄関から聞こえてくる、元気な女の子の声とともに、大きく響かせるドアの音。庭で遊んでいた、もうすぐ5歳になる男の愛娘のお帰りだ。
暦の上では立秋とも、処暑ともいえる8月下旬。秋の気配がなければ、暑さの去る気配もまったく感じられない、暑熱あふれる日々がまだまだ続く。
男は休日、不健康とは思いつつも、人命第一という名目で自宅でクーラーを効かせて夏を回避するとともに、室内から庭と娘が遊ぶ姿を眺めていた。
「おかえり節子、元気に外で遊んだかい?」
男は、自分の生活態度に示しがつかない自覚はありつつも、管理監督者として、娘に外での出来事と安全を確認する。
「うん。今日もお庭のセミさん元気だったよ!」
娘は元気な笑顔で答えた。しかし、少々、気になることがある。
「今日も?セミさんは昨日もいたの?」
男は娘に聞いた。
「うん。お庭のセミさん凄いんだよ。夏休みになってから、ずーっと元気なの」
娘は期間の長さを示すように、両腕を大きく広げながら男に話してくれた。
ふむ。娘の幼稚園の夏休みが始まってからということは、一ヶ月近くということになる。毎日のように庭の木に、セミが止まりに来ているということだろうか。
幾分か時間が過ぎ、娘はジュースを飲みながら、テレビの夏休みの子供向け特番に夢中だ。
男はふと、先ほどの娘の話が気になって庭に出る。玄関を開けた瞬間、吹き付けるような暑さを感じた。
それは、明らかにクーラーの当たり過ぎによる、冷めた肌と外の気温差が生み出した男への罪と罰の代償である。
玄関から歩いて10秒も掛からない裏庭に回った男は、一本の木を眺める。その木は、この家に越してきたときからある、名前も知らない、ただの木だ。
この木には、毎日のようにセミが寄ってくるような美味い樹液でも出ているのだろうか。男は電気メーカーの木に纏わるCMソングを歌いながら、木の周りをぐるりと確かめると、少し高いところに一匹のセミが留まっていた。
男はしばらくセミを眺めるが、一向に鳴く気配はない。それどころか、人が近くにいるのに飛んで逃げようともしない。
……男はある予感がして、セミにそっと手を近付けた。するとセミは男の指が触れた途端、ポロリと木から静かに地面に落ちた。
セミは既に息絶えていた。どうやら、木に上手く引っ掛かっていただけらしい。娘はそれを毎日、見続けていたのだ。
「節子、庭にセミさんいたね」
家の戻った男は、テレビを見る娘に優しく話した。
「うん。あのセミさん凄いでしょ。ずーっと、ずーっと長生きしてるよ」
娘はまるで自分の自慢話のように男に話をする。
「ごめんね。節子、パパが近づいたら、セミさん元気に飛んで逃げちゃった」
男は後頭を軽く掻きながら娘にそう告げた。
「えー。せっかく、ずっといたのにパパったらー!」
娘は男にふくれっ面で文句を言う。
男は、娘の笑顔のために頑張ってくれたセミに感謝を込めながら、娘に申し訳なさそうな笑い顔で謝り続けた。
いつか娘は、この『長生きしたセミ』の話を誰かにして、みんなから『嘘だ~』と茶化されるかもしれない。
あとで知ることになるのだが、セミの寿命は本来、成虫になってからも一ヶ月以上あることを男は知る。それを夏の暑さが命を一週間にまで縮めるらしい。
親として、セミの寿命や真実を教えるべきだったかもしれない。だけど、頑張るセミの生命力に不思議と尊敬の念を抱く娘を見ていると、この経験と夢は壊してはいけないと男は感じたのだ。
「ただいま」
玄関から聞こえてくる、静かに優しい女性の声とともに、小さく鳴るドアの音。買い物に出掛けていた、男の妻のお帰りだ。
男の妻はこのセミの一件を知っているのだろうか。もし、知らなかったら娘と一緒に思い切り伝えようと思う。長生きして飛んで行ったセミの話を。
(終)
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